第十五話 揺らぎ
作業は、いつも通りに進んでいた。
手順は変わらない。
配置も、温度も、すべて整っている。
迷うことはない。
考える必要もない。
それでいい。
それが正しい――そのはずだった。
「……」
手が、止まる。
ほんの一瞬。
理由は分からない。
だが次の動きに移るまでに、わずかな遅れが生まれる。
それだけで、十分だった。
違和感。
形にならないまま、そこにある。
「……気のせいです」
小さく落とす。
誰に向けた言葉でもない。自分に向けた確認。
それで終わるはずだった。
だが――雨の音が、耳に残る。
今は降っていない。
それでも聞こえる。
遠くではない。
すぐ近くで。
逃げ場のない位置で。
視線が、わずかに揺れる。手順をなぞる。
問題はない。
何も変わっていない。
それでも――指先に、冷たい感触が蘇る。
濡れたような、滑るような感覚が離れない。
「……違う」
低く呟く。
何が違うのかは分からない。
だが、噛み合っていない。
思考が遅れる。
判断に空白が生まれる。
それだけで異常だった。
息が浅くなる。
胸の奥に圧迫感が広がる。理由はない。
説明もできない。
それでも――恐怖だけが先に立つ。
見えない何かに掴まれるような感覚。
振り払えない。
逃げられない。
「……っ」
視界が歪む。
音が遠くなる。
それでも、雨の音だけは消えない。
そのとき、すぐ傍で、低い声が落ちた。
「――それが、本当に君の記憶か?」
唐突な一言だった。
「それとも、誰かに作られたものか」
振り返る余裕はない。
だが気配だけは分かる。
そこにいる。
――あの男だ。
答えは求められていない。言葉はそれだけで終わる。
足音が遠ざかる。
止める間もなく、気配は消えた。
残されたのは、言葉だけ。
記憶――作られたもの。
「……」
思考が、揺れる。
否定しようとして、できない。
雨の音が、さらに近づく。
「……やめて」
小さく漏れる。
意味は分からない。
だが確かに口から出た。
その瞬間――足元が崩れる。
膝が落ちる。
床に触れる感覚が遅れて伝わる。
動けない。
呼吸がうまくできない。
頭の奥に、衝撃が走る。
何かがぶつかる音。
暗闇。
――手。
見えない。
だが、確かにある。
逃げようとする。
だが、離れない。
掴まれている。
「……いや」
声が震える。
形にならない。
それでも拒絶だけが残る。
「……セレスティナ」
低い声が落ちる。
現実に引き戻されるように、視線がわずかに上がる。
そこにいたのは――レオニスだった。
いつからいたのか分からない。
気配を感じなかった。
だが、確かにそこにいる。
「……」
息を整えようとする。
だが、うまくいかない。
言葉を探す。
何かを、伝えようとする。
先に、出た。
「……あれは……」
かすれた声。
視線が揺れる。
「……ノエル……?」
その瞬間、意識が落ちる。力が抜け、そのまま崩れた。
静寂が戻る。
レオニスは動かない。
ただ視線だけが落ちる。
思考は、すでに進んでいる。
ノエル。
その名が、結びつく。
わずかに目を細める。
確信には至らない。
だが――無関係ではない。それだけは明確だった。
「ディオンを呼べ」
短く告げる。
それで十分だった。




