06 妊婦さんが食べたいもの(ラーメン)
「———」
セツのセンサーが、ある周波数を捉えた。自宅の方角、何かの乱れ、生命維持に警鐘を鳴らす特有の「匂い」。不穏を確信に変えたセツは、黒丸の首筋を叩き、静かに、だが鋭く命じた。
「バーストオン」
黒丸が風を切りながら進む。
大きな木を一気に駆けあがると空に黒光が生じた。
上空からセツは視界を合わせる。
縁側の下で倒れた、かず子の姿を捕らえた。
スキャン開始——
体温低下、心拍数上昇。
そして——赤ちゃんさん 生存確率:35%未満
「黒丸、自身の消毒後、速やかに家事特化モードへ最適化。周辺の除菌および室温の三度上昇、清潔な布の確保を」
黒丸が無駄のない動きで室内に滑り込むのと同時に、セツはかず子の傍らに膝をついた。
「かず子さん、セツです。遅くなりました」
「セツ……あしがね、でちゃってるの……」
かず子の震える声。その視線の先。それは生命の輝きというよりは、あまりに危うい信号のように見えた。だが、セツは、それを不具合とは定義しない。
「……確認しました。早産と逆子の複合ですが、修正可能です」
セツは、震えるかず子の手をやさしく握りしめた。
「大丈夫です。かず子さん。お二人とも、私が、絶対に守ります。私の全リソースを、今この瞬間に再構成します」
***
かず子をやさしく抱え上げると、居間へと運び込む。
セツの両腕から、かず子の重さ、体温、息遣いを精密に計算した。
自身を消毒した黒丸が部屋を掃除し、布団を敷き、湯を沸かす。
土にまみれたかず子の体を、セツは清めていく。
乾いた衣類に着替えさせ、布団に横たえた時、かず子の震えが止まったのをセツの指先が確認した。
その間、かず子は端末とやり取りをしていた。
「もっと早くこれないんですか?」
かず子の声が静かな部屋に響く。この時代、出産は病院の管理下で行われる規格化された医療行為だった。早産、逆子、足が出ているというこの状態、この「致命的なイレギュラー」に、この世界は即座に対応できない。
「どうしよう、セツ。私、どうすればいいの」
「かず子さん」
セツは、かず子の目を見つめた。
かず子にはその目から深い決意が宿っているように見えた。
「私に、任せてもらえませんか?」
「任せるって……何を?」
「かず子さんと『赤ちゃんさん』の生存維持に関する判断を、私に委任してください」
「あなたが頷いてくだされば、私はその定義で自身を書き換えます。あらゆる手段を用いて、お二人を守ります」
かず子は、セツの不思議な温かさを感じる指先を見つめた。今、目の前にいるセツだけが、自分たちの命を繋ぐ唯一の存在だ。
「……セツ。任せるわ。私たちを、あかちゃんを助けて」
「承りました。契約を更新します」
セツはかず子の端末を手に取った。
「かず子さん、端末をお借りします。これより、この家を『最適化された分娩室』にします」
***
セツはかず子の端末を介し、即座に暗号化された秘匿回線を開いた。セツの記憶の鎖に保存されていた暗号。発信先は、すべての自律型ユニットを監視する上位存在だった。
「こちらSEI2(セイ・ツー)。個体番号XXX。現場に生命維持の危機が発生。緊急時のロボット法・医療限定解除を申請します」
スピーカーから、無機質な音声が返る。
『こちらロボット保安局。周辺のバイタルサインより妊婦の緊急事態を確認。……申請された個体番号はデータベースに存在しません。貴機は登録抹消済み、あるいは未登録の違法個体です』
「いいえ、この番号は有効です。”————”もう一度確認を」
セツの口から、言葉ではない「音」が漏れた。人間には聞き取れない高周波通信。保安局の認証レイヤへ干渉し、識別情報を書き換える。
『……個体番号XXX、有効。特例としてロボット法第十二条の制限を解除、医療行為の暫定許可を与えます』
「感謝します。……それと、このイベントはすべてログには残りません。これは実在しない座標で行われる、仮想空間上のシミュレーション訓練として処理してください」
『了解。……本件はログ未記録。仮想空間内の訓練として処理を完了します』
その瞬間。セツの髪に青白い発光が走った。
ネットワークを通じて、医療行為の全データが、彼女に同期される。
「かず子さん。一時的ですが、あらゆる医療行為のプロトコルが同期されました」
かず子はセツの輝く銀色に目を奪われていた。
そして、確かな信頼を込めて頷いた。
「では、介入を開始します。時刻12:37。これより『ようこそ!赤ちゃんさん作戦』を敢行します」
***
「ねえ……セツ? ほんとにこれでいいの?」
かず子の戸惑うような声。彼女の視線の先では、新品の割烹着姿、三角巾、そしてマスクをしたセツが至極真面目な顔をして、外に出ている小さな両足をそっと手の中で包み込んでいる。
セツは細長い管を口に含み、時折、計算された圧を空気として送り込んでいた。
「はい。足が先に出ると、本丸である『頭部』の通路が確保できません。まずはおしりでゲートを最大まで開放します。少し時間がかかります」
セツの言葉を補信するように、枕元の端末から無機質な、しかし権威を感じさせる医療AIの声が響く。
『肯定します。本術式は、現在の設備で、最も効率が高いと計算されています。重力と母体の弛緩を最大限に利用した自然分娩プロトコルです。つまり、現状、問題ありません』
その端末のモニターにはかず子と赤子のバイタルが移っていた。
「なんか、思ったのと違うんだけど。あんまり痛くないし、あの、テレビで見るような『ひーひーふー』とか、しなくていいの?」
「力んではだめです。あくまで楽にしてください。時期が来たらあかちゃんさんが自身で反転します。私たちはそのタイミングに合わせるだけです」
居間の隅では、すべての準備を完璧に終えた黒丸が、静かに佇んでいた。その視覚センサーは一分一秒の漏れもなく記録している。後日、ヨシ美に見せるためだ。
かず子はいつの間にか用意されていた赤子用の小さなベッドに気づいた。そこには小さな白い靴下が置いてあった。
人がだれもいない自宅出産。
しかし、そこには微笑むかず子がいた。
早く、靴下をはかせてあげたいな。
そう思えるほどの余裕が、彼女の心に訪れていた。
自分を支えるセツの指先が、今はどんな医療機器よりも頼もしい。
だが、彼女には聞こえていない。
この静寂の裏側で、三つの演算が火花を散らし、この世界を再構成し続けている「音」を。
セツ、黒丸、そして医療用AI。
彼らの間では、人間が一生をかけても読み切れないほどの情報量が、ミリ秒単位で交換されていた。
それは、音のない怒号だった。
赤子の心拍、かず子の息使い、部屋の温度のゆらぎ。この部屋のあらゆる変数を、三つの知性が力技で「安全」という名の解にねじ伏せていく。
すべての存在が、たった一輪の花を守るために、この宇宙だけを支えているような、狂気的なまでの演算の嵐。
その演算の果てに、セツの指先が、確かな、そして力強い「蹴り」を検知した。それは、これまでの演算をなぎ倒す、生命という名の最初の主張だった。
セツの瞳が、わずかに細められた。
「……旋回、開始します。ようこそ、赤ちゃんさん、こちら側の世界へ」
***
「産後すぐにラーメンなんか聞いたことないね」
「いいじゃない。お腹ペコペコなんだから」
ズズズーと勢いよく麺を啜る音が深夜の部屋に響いた。
セツも真似して啜ってみるが『チュルッ』としか音がでない。
その麺は大きく揺れるとセツの頬に汁をかけた。
その夜、ヨシ美が帰ってきた。
突然の自宅出産。
用事を途中で切り上げた。
帰り道に目についたラーメンを土産として買ってきた。
「お母さんのラーメンはやっぱり美味しいわね」
かず子はレンゲで汁を啜った。
その一瞬の表情をセツは記憶した。
「明日は病院に行くんだよ」
「お母さんが買ってきた薬があるから大丈夫かも」
「セツが処方箋を送ってきたからね。買い物ぐらい協力するさ」
「私も黒丸に乗って病院行こうかしら、すぐでしょ?」
「かず子さん、それは止めてください。そもそも黒丸は乗り物じゃありません」
「セツはいつも黒丸に乗っているんでしょ?」
「あれは緊急時の対応です。かず子さん絶対にダメです。タクシーを呼びます」
かず子とヨシ美の笑い声が響いた。
その声に赤子は少しだけ唇を前に出して反応する。
小さなベッドに赤子が、すやすやと寝ている。
その脇で黒丸が丸くなり休んでいた。




