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鐘離昧、范増と月下で酒を交わす

「お待たせしました、鐘離昧殿」


「いえ、お約束もないのに突然押しかけた上にお時間を頂きましてありがとうございます」


鐘離昧は丁寧に頭を下げるが范増は右手を挙げて鐘離昧の礼を受ける。


「ふ、今をときめく鐘離昧殿ですからな、先の短い老いぼれの時間なぞ幾らでも構いませぬ。

しかし、珍しい事です鐘離昧殿がご訪問下さるとは」


「は、いえ恐縮です。

先日、陛下より陣容の発表があったことですし出陣も真近かと。

そうなればゆっくりお話する機会もないかと思い、参った次第です」


「そうですか。

さればまずは一献」


「はい」


今宵は月が煌々(こうこう)と照らしており折角なので庭で宴をすることになった。


鐘離昧は范増が酒を飲むところを初めて見たために新鮮だった。


「ふふふ、珍しいですか?

儂が酒を飲むのが」


「は、正直初めて見ました。

てっきり飲まれないものかと」


「これでも最近飲む機会が増えましてな。


武信君に仕える前はあまり飲まなかったのですよ。


年を取ってから酒を飲むようになるとこたえますな」


二人だけのささやかな宴は滞りなく進み、普段話せないような事を色々語り合った。


少し話しただけでも范増の見識の高さ、情報の正確さに鐘離昧は驚きを隠せない。


となると益々疑問になってくる


何故この老人は今になるまで世に出なかったのか、意図的に出なかったとしても良く隠せていたものだ、という事に。


鐘離昧は前々から聞いてみようと思っていたのだ。


「范増様。


范増様程のお方が何故どの国にも仕えなかったのですか?


范増様でしたら国を動かす上大夫や卿であってもそれがしは驚きはしませぬ」


范増はふむ、と杯を置き白い髭をしごく。


「鐘離昧殿は流れという物をどう見ますか?


もしくは盛者必衰と言い換えても良いかもしれませんが」


「それがしは幼少より暴れん坊で暇さえあれば棒切れを振り回しておりましたのであまり学がないのですが、確か栄えるものは必ず衰えると言う意味でしたか?」


「左様、儂は天文を見ます。


何十年と見続けて、文献には書いてあったのですが実際に自分の目で観察を続けて分かった事があります。


世の中には変わっていくものと変わらないものがある、という事です。


天の星の運行などは基本的には何年経っても変わりませぬが、時折変化を見せます。


農(農業)の時期を知るには月や星の動きを知る事が大切です。


また人も王朝も同じだと思うのです。


生きとし生けるものは皆死にます。


王朝、国家もそうです。


楚の南方で生を受けて早や七十余年、儂よりも長く生きている者は各地の長老でも中々おりませぬ


ずっと、物心ついた折より晴耕雨読の毎日でした。


始皇(始皇帝)が数えで五十で死んだので儂は二十も上です。


当然、秦の君主は始皇ではなく彼の曽祖父である昭襄王しょうじょうおうでした。


戦国の七国も秦の一強に傾きつつもまだ何とか抵抗が出来ていた時代でした。


元々功名心などなかったのでしょうな、儂には。


もし、あったのなら秦が統一するまで戦など日常茶飯事でしたから若い時分に仕官なりなんなりしてるはず。


齢七十を過ぎてから武信君の元に身を寄せたのは幾つか理由がございますが。


人というのは老いますと死を意識する様になるものです。


世俗から離れた儂でも死期が近づいた時に思ったのです。


この世に生を受けてこれまで生きて来たが、生きた証のようなものを残せていないと。


まだ子などを成しておれば話は違ったのでしょうが、儂は妻も子もおりませぬ。


死して名を残す、と言うよりは己が学んだ事が通じるのか試してみたかった。


通じるのであれば儂が七十年かけた人生に意味があったのではないか、と。


そして今が試す時であると天文に出ていたからなのです」


永い、永い独白が終わり范増はふーっと息をゆっくりと吐くと杯に残っている酒をぐいっとあおった。


鐘離昧は少し、自分の友人が普段言っている事に似てるなと思った。


(俺は戦で全部隊の指揮を取ってみたいのだ!


己の知略で何万という軍勢が我が手足の様に動き雌雄を決する、何と魂の震える時だろうか)


友人は今も己の不遇と闘いながら、もがきあがいている最中なのだろうか?


鐘離昧はこの場にいない韓信の事を少し思った。


「さ、今度は鐘離昧殿の事をお聞かせくだされ」


鐘離昧は范増の杯に酒を注ぎながら、さて何から話したものかと思案を始める。


今夜は長い夜になりそうだった。

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