韓信の原点
4月27日、少し加筆しました。
彭城――
韓信達が彭城に戻って来てからというもの城内が俄然活気付いている。
やはり先の対秦戦で項羽が勝利を収めたこと、そして近く再度出陣があるものとしてその準備に街全体が追われているためだ。
その項羽の副将として活躍目覚しい鐘離昧は日課の鍛錬を済まし、部隊の修練を見届けた後、供もつけずにふらりと宿舎へやって来た。
目的は韓信の部屋だ。
正確には韓信「達」の部屋だ。
指揮官でもないのに個室など与えられはしない。
郎中の部隊長も同じ部屋だ。
ちなみに鐘離昧は専用の邸宅を与えられている。
少人数ながら使用人もいてこの時点で韓信と大分差がついたと言えよう。
鐘離昧は韓信を自分の家に来る様に何時も言ったのだが、韓信は頑なに断った。
鐘離昧としては全くの友情のつもりで申し出たのだ。
韓信はそれは重々承知の上で、気持ちは有難いが自身の力で勝ち取らねば意味がない、たまに寄らせて貰うと言ってこの話は終わりになった。
さて、鐘離昧が足を踏み入れると韓信は机に向かい何やら書き物をしている様子だった。
鐘離昧は声を掛けようか迷ったが――
「韓信」
「ん?
ああ、鐘離昧」
「随分と熱心に書いているようだが」
「これか?」
鐘離昧がうなずく。
「少し献策を、と思ってな」
「献策?
項将軍にか?」
「ああ」
聞いた鐘離昧は少し難しい顔をする。
(果たしてあの御仁が身分の低い韓信の進言を聞くかな……?)
これは決して韓信の事を貶めている訳ではなく、項羽と身近に接する機会が増えた鐘離昧ならではの観察の結果であった。
項羽はあからさまに相手の身分で態度を変える。
付け加えるならば身びいきも過ぎる。
であるならば、縁者でもない雑兵の韓信からの意見など一蹴されてしまうのがオチだろう。
下手すると怒らせてしまうかもしれない。
「……韓信、あのな?」
鐘離昧が言いづらそうに口を開くが韓信は
「鐘離昧、皆まで言うな。
私も余り期待はしていない。
ただ、何か行動をせずにはいられないのだ。
正直現状に焦っていると言ってもいい」
鐘離昧は昔から韓信の夢を一番近くで聞いていた。
だからこそ分かる。
秦が天下を統一して十余年。
始皇帝が健在の内は戦がなかった。
だが、それ以前はと言うと数百年、いやもっとか。
中華大陸の歴史は戦乱の歴史だったのだ。
だとすれば、力を、智慧を持つ者が野望を持って何が悪い。
農民の中でも土地を持たず、小作人よりも遥かに待遇が悪かった陳勝が半年ばかりの間とはいえ王にまで上り詰めたのだ。
周りを見てもやはりゴロツキ上がりで沛公になった劉邦、囚人から将軍になった黥布、羊飼いから楚王になった熊心 (ゆうしん)など枚挙にいとまがない。
身分の変動というのは平時よりも戦乱の時の方が起こる。
戦乱とはある種の革命だ。
韓信も、鐘離昧も、不謹慎な言い方をすれば戦が起こる事を待っていたのだ。
現に鐘離昧は五千からの兵を率いる指揮官になった。
項羽からの覚えも目出度い。
このまま項羽軍の将として活躍し、ゆくゆくは王侯の身にまでなるかもしれない。
だが、韓信はどうだろうか?
いや、立身出世よりも戦で指揮を取りたいのだ。
万を超える軍勢が己の手足の様に動き、力と智慧と命、名誉と勝利を賭け激突する。
緻密に練った策で、己の采配で、勝利を決する。
何度も何度も、繰り返し繰り返し想像した。
その瞬間を味わってみたい――。
まずはそれからだ。
「俺は戦という化け物を思うがままに料理したいんだ。
だが郎中の身では何も出来ん。
斥侯や工作などは進んでやっているし、この経験も無駄ではないと信じてはいるがやはりもどかしい気持ちには変わりがない。
実は趙包囲戦の時、范増様と少し話をする機会があってな。
そこで俺の事を項将軍に推挙してくださるとおっしゃったのだ。」
鐘離昧は驚いた。
あの爺さんがそんな事を……。
続けて韓信が言う
「但し推挙をするのは一回だけだと言われたがな。
そしてもし取り上げられなければ俺を殺すように言うとも言っていた。
ふふふ、ずいぶんと買い被られたものだ。
いっそのことあのご老人が大将だったらよかったのに」
自嘲気味に笑う韓信。
「そんな訳で項将軍に進言をするための策を練っているところなのだ」
「そうだったのか……
取り上げてもらえると良いな……」
鐘離昧はそう言うだけで精一杯だった。
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宿舎を出た後、物思いに耽りながら歩を進める 。
(先の事がどうなるかなんて分からない。)
確かに武力、軍事力では項羽率いる楚軍が抜きん出ている。
鐘離昧自身も、自分達こそが秦を打倒するのだ、と信じて疑っていない。
だが――、
(果たしてこのまま項軍にいる事が韓信にとって良い事だろうか?)
答えが出ないまま鐘離昧は彭城の大通りを歩くのだった。




