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夜襲

韓信は顔を伝ってくる汗を袖口で拭う。


じっとしていても暑い夜だが、さらに忙しなく働いている為、汗は後から後から涌いてくる。


すでに辺りは日は落ち、暗闇が広がるが楚陣ではあえて火などを焚いていない。


楚兵は戦闘に疲れ、既に寝ていると秦に思わせるためだ。



范増は、秦「が」夜襲を仕掛けてくると読んだ。


だから、その夜襲を逆手に取る為の策を巡らす。


実は今、楚陣には兵がほとんどいない。


みな夜襲に備えこっそりと抜け出し、四方の山や森に伏せている。


いわゆる伏兵である。


韓信はごくわずかに残った居残り組だ。二百名ほどだろうか?


夜闇に紛れ、攻め寄せてくる秦軍をぎりぎりまで引き付け楚陣より脱出する。


今頃項羽を初め諸将の部隊は韓信達の「合図」を待っている事だろう。


その韓信達は無言で天幕や柵、飼い葉などに油をかけて回っている。


秦軍が楚の陣地内に入ったところで火を放ち一気に燃え上がらせるためである。


いわば楚の陣ごと秦軍を焼いてしまおうというわけである。


燃やしたところでどうせ兵糧も物資も何もないのだ。


空っぽの陣地など惜しく無い。


韓信は夜目が効いてすっかり慣れた暗闇の中でその時を待っていた。


夏の夜で気温は大分高いはずだが何故だか背筋がぞくぞくする感覚に捉えられる。


今まさしく自分は戦場の最中さなかにいるのだと身体が教えてくれているようだった。


無心で作業に没頭していると、耳が微かに何かの音を拾ったようだ。


(!?

来たか?!)


韓信は油の入った竹の筒を置き、地に耳をつけ少しでも振動を拾おうとする。


間違いない、馬のひづめの音だ。

それも多い。


「来るぞ!!」


韓信は小さく短く、だがはっきりと仲間に告げた。


皆、急いで物陰に身を隠す。


韓信の言葉通り、しばらくすると柵の周りに次々と集まってくる集団がいた


敵からは見えないだろうが韓信側からは丸見えだった。


秦と思われる集団は陣の中の様子を伺っているようだ。


このまますぐに陣内に入ってくるだろうか?


ごくり。

と勝手に喉が鳴ってくれる。


シンとしている戦場にその音がやけに大きく響き、韓信の心臓が跳ね上がった。


その音ですら、気付かれやしないかと息を殺して潜んでいる韓信達にとっては邪魔な騒音だ。


(もう少し……)


欲を言えば先鋒が陣の奥深くまで入り込んで欲しい。


その瞬間が合図の火をかける刻だ。



(!!)

だが韓信は目論見がはずれた事を悟った。


それでも幸いにして目的は達成される。


秦軍が先に火矢を射掛け始めたのだ。


次々と襲い掛かる矢の雨。

暗闇の中を炎の矢が綺麗な放物線の軌跡を描いて楚の陣地に突き刺さる。


韓信達が前もって油をかけていたためにすぐに燃え広がる。


「撤退だ!!」


持っていた竹筒を近くの天幕に投げつけた。

筒が跳ねて中の油が周囲に撒き散らされる。

(これでよしっ!)


韓信は手を大きく振り仲間達に合図を送り、急いで脱出を図る。


秦が攻め込んできた真逆の柵より撤退する。

もちろん自分の足でだ。

馬などはいない。


戟も何も取らずに必死で足を動かす。

楚陣にいつまでも残っているわけにはいかない。


見つかれば攻め込んできた秦兵に殺されるだろうし、見つからなくても……



「うおおお!!!」

と雄叫びが別の方向より聞こえてくる。


(早い!)


伏せていた楚兵だ!


(もう出てきたのか!?)


韓信達はまだ脱出しきれていない!


焦ったが楚兵達は真っ直ぐ秦軍へ向かっていく。


韓信は走りながら安堵した。


そう。

秦に見つからなくても楚の伏兵に誤って殺されてしまう危険があるのだ。


暗闇では味方の同士討ちに発展する例など枚挙にいとまがない。


(急げ!急げ!)

韓信達はほうほうの体で山へ駆け上がる。

足はもつれ、胸は焼ける様だが、止まる訳には行かない。

(何としても安全地帯まで駆け込むのだ!)


「はぁはぁはぁ……」


(ここまで来れば……)

振り返る間もなくここまで来たが、仲間達は全員無事に逃げられただろうか?


ズシャ!

と足をもつれさせ韓信は派手に倒れてしまった。


逃げ切れた安心感からか、もう立ち上がる事はしたくない。


だが……俺にはこの策の行方を見届けなければ……


身体が休みたいと訴えているが韓信は強引に地より引き剥がした。


いつの間にか目の前には騎馬の将と雑兵の隊が韓信を取り囲むようにしていた。


将は鐘離眛しょうりばつだった。


「韓信、よく引きつけてくれた!

後は任せて休んでいてくれ!

皆、出るぞっ!!」


「「応っ!!」」


へたり込む韓信達のわきを抜けるように騎馬が駆け抜けて行く。


続くは雑兵の部隊だ。


小高い山から一気に駆け降りて混戦となっている楚陣へ突っ込んでいく。


(ああ、いつか。

いつか俺も鐘離眛しょうりばつの様に部隊を指揮し、戦場を駆け巡り、敵に突っ込んでいくのだろうか?)


身体は火照ったままだが頭は冷静だった。


今は范増が立てた策が成功したかどうか見極めなければ。


気持ちを切り替え、冷徹な眼差しで戦場を見下ろす韓信だった。


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