虐殺の残滓
「それは本当なのか?」
「はい、間違いございません。
項羽将軍率いる一軍は定陶にて住民をほぼ全員処刑し、彼の街は壊滅しました。」
「な……」
懐王は力なく椅子にもたれかかった。
あまりの事に言葉が出てこない。
「……
私とて武信君に拾われた身。武信君なくば私もここにはいない。
その恩は余りあると自覚しているが……。
これはあまりにも……。」
項羽が叔父項梁を殺された事を逆恨んで、直接関係のない定陶の民を処刑した事である。
「伝令が申すには部下の中から止めようとした者もおる様ですが、邪魔をすれば斬ると言ったとか…。」
上柱国陳嬰が口を開く
「項羽に戦闘を挑んで勝てるものはおるまい。
その場では命令に従うしかなかろうよ」
「私は何という恐ろしい男を配下に持っているのだ……。
とても私に御しきれるものではない……。
武信君亡き今、どのように項羽を扱えばよいのだ……。」
「陛下……」
並び立つ百官もみな暗い顔で二の語句を発せないでいる。
「それに陳嬰。
この後どうするか?
武信君の喪に伏した後、軍の編成を改めて、秦との決戦を挑む方針は変えられん。
だが、項羽に大軍を任せると一体どうなるのか……」
「ふむ、そうですな……」
陳嬰が顎に手をやり思案に入ろうとした時だった。
「陛下!私にお任せ下さいませ!」
そう言って会議の場に鎧姿の武官が進み出てきた。
宋義である。
「おお!宋義!」
宋義は懐王の前に畏まり
「陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう。
この宋義ご尊顔を拝謁しまして恐悦至極にございます」
と拝礼する。
陳嬰が問う。
「宋義将軍。
任せるとは項羽の事か?」
「はい。
それがしも直接の戦闘では項羽の武に劣ります。
ですが、ああ見えて項羽は意外に身分を重んじるようでございます。
それがしは旧楚の将軍を務めていた身。
そのまま大将としてお命じ下さいませ。
そして副将に項羽と范増を配して頂ければ見事押さえてみせまする」
宋義の話に希望を見出したのか少年王は
「陳嬰、どうか?」
と訊ねると陳嬰は少し考えて、
「ふむ、それが現状では妥当でございましょう。
他に押さえが利く将がおりませぬ。
それに宋義将軍は武信君が敗れる事を予測した軍略にも明るい人物。
将軍の言うとおり、范増老人と一緒に項羽を副将に就けるのはよいかもしれませぬ」
「そ、そうか!ではそのように」
懐王は一つ視界が開けた思いがしてほっとするのだった。
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彭城へ帰還する楚軍は異様な雰囲気に包まれていた。
すでに沛公こと劉邦と、黥布の軍は項羽軍と合流を済ませ、全軍で彭城へ向かっている。
だが項羽軍は定陶の民を虐殺した余韻からか、やたらと殺気だっていた。
その中で当の項羽は憑き物が取れた様なスッキリした雰囲気で愛馬騅に揺られている。
韓信や范増は後味の悪さと無力感を感じずにはいられなかった。
韓信自身は気づかなかったというより、確認する手段も時間もないほど切羽詰っていたのだが、韓信のとっさの機転のおかげで定陶は全滅を免れていた。
とはいうものの実情はほぼ全滅と言っても差し支えない。
命からがら定陶より脱出できたのは千人にも満たない数だった。
。
実は、定陶へ偵察に行く際に項羽から殺気だった雰囲気を感じた韓信は、定陶の住民へ急いで避難するように促したのである。
それは直感であり、間違っている可能性ももちろんあった。
だが、韓信はその根拠のない直感を信じた。
もし間違っていてもたかだか一平卒の言う事である。
どうにでもなるであろう、という計算はあった。
それよりも、もし項羽の手によって住民が虐殺されたら?
そちらの方が韓信にとっては遥かに恐ろしかったのである。
身分の低い韓信の言葉にどれだけの住民が信じたかは確かめようがない状況であり、危険を伝えるだけ伝えた後は時間稼ぎの為にわざとゆっくり自軍へ帰る事しかできなかった。
だが、その韓信のおかげで助かった住民がいたのである。
そして脱出し命が助かった住民が項羽の残虐非道ぶりを周囲に伝えていくこととなる。
それと同時に韓信の行いもまた伝わっていくのである。
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