項羽の逆恨み
「将軍、そういつまで泣いてばかりおられても武信君は喜びますまい」
「わかっておる。わかっておるのだが、どうしようもないのだ……。
叔父上がもうおらぬと思うと身体中の力が抜けて何もする気がおきん」
これがあの戦場では鬼神の如く、敵からも味方からも怖れられた項羽だろうか?
范増は内心少し可笑しくなりながらも
「将軍……、それでは武信君の名誉は地に落ちたままでございますな」
「何!」
項羽が顔を上げる。
「それはそうでしょう将軍。
この老人が言うに及ばず、項家は代々楚の将軍を輩出していた武門。
戦で武勲を挙げることこそが宿命の家系です。
志半ばで倒れた武信君の霊を慰めるのは、やはり戦で秦を倒し、墓前に花を添える事でしょう。
そうではありませんか?」
「老人…。」
見ると少しづつ眼に輝きが戻って来たようだ。
「そうだ、そうだ!その通りだ!
大恩ある叔父上を殺した秦だけは許しておけぬ!
叔父上の名誉を取り戻すために俺は秦を潰すぞ!」
「その通りでございます」
范増は取りあえず項羽の覇気が蘇った事に安堵した。
だがその為、項羽の眼が復讐に燃える色をしている、とまでは気がつかなかったのだ。
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立ち直った項羽は拙速の速さで行軍を続け、瞬く間に項梁が絶命した定陶まで辿り着いた。
だが、当然と言えるが既に秦軍はいなかった。
「おい!誰か!定陶の者に秦軍、特に章邯軍が何処に向かったか聞いて来い!」
「は!」
傍らに控えていた韓信はとっさに返事をしていた。
そしてすぐさま項羽の方も見ずに定陶の街へと駆けて行く。
韓信は嫌な予感がしたのだ。
定陶へと駆けながら韓信の脳は高速に動いていた。
(もし、俺の予感が正しければ、あの街は危ない……!
急がねば!)
伝令が戻って来て項羽に伝えるには、章邯軍は項梁を倒した後すぐに立ち去っており、北方に向かったようだ、としか分からなかった。
「ちっ。使えぬ者共よ……。
まぁ、よい。このまま定陶に入るぞ!」
項羽はそう言うとずんずんと行ってしまった。
慌てて、皆項羽に着いて行く。
愛馬、錘に跨り城門に入ろうとする項羽の前に一人の老人が進み出てきた。
「ようこそ、おいでくださいました、項将軍。私が定陶の長老です。」
長老と名乗る老人は、遥かに若輩の項羽に対して、拝、(顔の前で両手を組み項羽へと頭を下げる)姿勢を取る。
これは敵対する意思のない事を示すものだ。
恭順の意を示されたにも関わらず項羽は
「ふん、そうか。
ならば言おう。お前達定陶の民は秦に協力し、我が叔父武信君を絶命させた。
俺はそれを許すことは出来ん。よってお前達全員の命で払ってもらおう」
「!」
「なっ」
「それはっ!」
「将軍!」
一斉に反対の声が楚軍の方からも出る。
それは当然の事であろう。
長老は混乱しながらも顔が真っ青であった。
「黙れっ!!!」
項羽が大喝する。
空気がびりびりと震え、振動が身体に直接浴びせられたようだった。
韓信も思わず後ずさりそうになるが、下腹に気を入れて踏み止まる。
「いいか?俺に言わせれば秦に協力した時点で定陶は敵だ。
そして俺の命令に従えないと言うのなら、俺を止めてみろ。だがその前に祖先に祈りを捧げるのを忘れるなよ」
そう言ってぎろり、と楚軍を見渡す。
誰も項羽と目を合わせようとしない。
わずかながら、范増や鐘離昧といった歴戦をくぐり抜けた者が目を合わせるというより、ぼんやりと見ているといった感で項羽を見ている。
范増は焦りながら、
「将軍!」
と言葉をかけようとするも
「おいお前!范増老人を後方へ連れて行け!!早くせぬか!!」
と傍らにいた韓信へ命令を出す。
すぐに韓信は范増へ
「さっ、范増様」
と戟を持っていない方の手で促した。
(ここは退散した方が吉だ。)
范増は一瞬韓信と目線を合わせるが、すぐに天を仰ぎ目を閉じて何事かを呟いた。
「……。」
その呟きは、余りにも小さくて誰も聞き取れなかったが、韓信は范増が天へ祈りを捧げたのだと分かった。
或いは項羽を止められなかった自分自身への戒めか……。
そのまま、韓信に連れられ軍の奥へと連れて行かれた。
そしてその日、項羽は万を越える無抵抗の住民の虐殺に手を染めたのだった。
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