韓信会稽最後の夜
韓信は会稽に着いてから、噂の項梁と項羽を観察しようと考えていたのだが、中々野営している陣地には現れなかった。
話に聞くと会稽郡の郡主としての仕事に追われているとか、項羽に至っては最近結婚したばかりらしく家から出てこないということであった。
ついでに言えばその結婚した相手と言うのが傾国と言われるほどの美女らしい。
『虞』という名前だと聞いた。
そんなに美人ならば男としては分からないでもないが…。
まぁ、そのうちに見る機会もあるだろう。
そう思い韓信は訓練を再開するのであった。
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陳勝が章邯に敗れ死亡した事は反乱軍の状況に大きな変化をもたらすことになる。
だが現代とは違い、情報が広がるにはタイムラグがあり、しかも正確性に欠ける事からいち早く「陳勝死す」と知ったものと、そうでない者が出てくる。
ここにある集団があった。
儒者の集まりである。
儒者とは孔子が興した学問、儒教を学ぶ者達だが儒者達の総意は打倒秦で統一されていた。
それは秦によって一番迫害されたのが儒者だったからだ。
そして秦の迫害から身を守るためにお互いを強力な横の繋がりで連携していた。
それがいち早く情報を手に入れるネットワークとしての側面を持つのである。
反秦の旗頭である陳勝が死んだと情報を掴んだ儒者達は、反乱軍の勢いがなくなる事を怖れた。
早急に陳勝に代わる新しい旗頭を立てねば反乱が尻すぼみになってしまう。
では誰を担ぐか??
それで白羽の矢が当たったのが項梁である。
項梁は何と言っても血筋がいい。
項家は楚の名門であるし、項梁自身も人気がある。
そしてさらに項梁の秘蔵っ子と言ってもいい、期待がかかるのが項羽である。
儒者達は、陳勝が死んだ事が項梁に伝わる前に項梁軍を動かそうと謀った。
時間との勝負である。
すぐに一人の儒者が項梁に面会を求めた。
陳勝王の使いとして、である。
この時代、王や貴族に会う事はそれほど難しいことではなかった。
諸国を旅する説客と呼ばれる者達がある種の外交官の役割を担っていた。
他の国の状況や動向は是が非でも欲しい。
説客はその情報を誰よりも早くよく知っているのだった。
だが今回は説客としてではなく、陳勝王の名代として項梁に会っていた。
「項梁どの、陳勝王より詔を伝えます。
会稽の項家当代項梁を楚の上柱国に封じる。
その軍勢を持って一刻も早く咸陽へ攻めあがるように。」
「何と!それがしを上柱国に…。」
「左様、秦では宰相は丞相ですが、楚の制度ですと上柱国になります。
王は項梁どのに反乱軍に早く加わって欲しいと希望されておいでです。」
項梁は目の前の儒者がニセの使いだとは思いもせず、「上柱国」のエサに飛びついた。
「ははー!謹んでお受け致します。」
この項梁すぐに軍を率いて咸陽を目指しまする!」
「項梁どのが参戦となれば陳勝王もお喜びになられるでしょう。」
言うまでもないが、陳勝はこの時点で既に殺されているのでこの命令は完全に偽の命令である。
「羽よ、聞いたであろう。
秦と戦じゃ、上柱国として、な。」
「叔父上おめでとうございます。
また一歩お家再興に近づきましたな!」
「うむ、取り急ぎ出陣の準備じゃ!!
会稽を出るぞ!!」
「「「ははっ!!」」」
項羽を始め、官吏達が一斉に頭を下げる。
後に劉邦と天下を争う事になる項羽の出陣である。
項梁軍としてはとりあえずは陳勝のいる陳へ向かい、その後に咸陽へ向かう。
そして反乱軍に入った韓信と鐘離眜ももちろん出発する。
それまで比較的のんびりとした雰囲気の項梁軍であったが、急にどたばたと慌しく動き始めた。
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韓信と鐘離眜は桃花を預けた酒家(食事処)にやって来た。
桃花に会稽を離れることを伝えなければならない。
店は会稽でも評判だったらしく、いつ来ても混んでいた。
「酒とつまみになるものを五皿ほど。
あとご主人を呼んでもらえまいか。」
二人で席に着きながら手早く注文する。
何回か通っているうちに顔は覚えられたらしく、すんなりと注文も通る。
「いよいよ出兵だな。」
「うん、急に決まったな。」
「何でも陳勝王の依頼らしいぞ。
項梁様を上柱国にするから早く出兵しろという事らしい。」
気づくとこの店にも項梁軍の兵士が来ていたようだ。
周りから今回の出兵についての話が聞こえてくる。
ちなみにだが、出兵に当たっての軍編成で韓信は鐘離眜の指揮下に入る事になった。
とは言っても鐘離眜は十人の兵士を纏める小隊長のようなものだが、剣と槍の腕が認められて一兵卒ではなかった。
韓信としても知らない奴に命令されるよりは大分いいと思ったので願ったりだった。
「いらっしゃいませ、韓信様、鐘離眜様」
酒家の主人が来たようだ。
「ああ、ご主人お邪魔してるよ。」
「毎度ありがとうございます。」
「桃花の様子はどうかな?
しっかり働けているだろうか?」
「はい、良い子をご紹介くださいましてありがとうございます。
働き者で正直者ですし、一緒に働いている者の評判も良うございます。」
「そうか!」
まるで自分が誉められたかのように嬉しそうな顔をする韓信。
鐘離眜はその横で冷静に、こないだも同じ事を聞いて、同じ答えを返されて、今と同じような自慢げな顔をしていたなと韓信を横目に見やる。
「ところでご主人、話は聞いてるかもしれんが我々は会稽を出発することになった。
とりあえず行き先は陳と聞いているが…。」
「はい、こちらにも噂は流れております。
そうなると桃花の事でございますね?
どうでしょう、始めはしばらくの間というお約束でしたが、手前共としましてはこのまま続けて働いて欲しいと考えておりますが?」
「そうか!そうであるならば願ったりだ!
ご主人、これからもよろしくお願いします。」
「おお、それはようございました。
それでは手が空き次第、桃花を呼んで参りますので。」
一礼して主人が下がる。
韓信は最大の心配事が何とかなりそうなのでホッとする。
主人が見えなくなってから鐘離眜が口を開く。
「韓信、もういっそ娶ったらどうだ?
韓信は元服はとっくの昔だし、嬢ちゃんも年頃だ。
あの娘の気持ちもわかっているのだろう?」
「さすがにあそこまで露骨に好意を示されてはな。
もともとは保護者のつもりだったんだが。」
と苦笑する。
誤算だったのが桃花の見てくれの良さと韓信に対する想い、だろうか?
だが拾った時はそんな事予想もしていなかった。
ただ身寄りがいなくなって可哀想だなと同情からだった。
人生と言うのはつくづく不思議である。
正直、自分が桃花と夫婦になると言われてもピンとは来ないが、だからと言ってどこの馬の骨ともわからない男の元へ嫁がせるなどと想像するだけで腹が立つ。
この気持ちは父性からなのか、それとも恋愛感情なのか??
なるほど…。
という事は冷静に考えるに、俺が娶った方が良いという事だな。
よし、ゆくゆくは娶るとして今は反乱軍の事だな。
そこまで考えてふと鐘離眜を見ると韓信の考えが読めているのかにやにやしている。
韓信はかぁーっと顔が赤く火照るのを感じた。
「……なんだよ。」
「うんにゃ?
いい酒が飲めそうだな、と思って。」
全てお見通しらしい。
ふん、とだけ鼻をならして韓信は杯を重ねる。
そうしてしばらくはお互い黙って酒を飲むのだった。
しばらくすると桃花がとてとて、とこちらに駆けて来た。
そのままぼすんと韓信目がけて飛び込んでくる。
「おっとっと…。」
準備をしていなかったのか桃花の突進を受けて少しよろめく韓信。
旅をしていた時と違い、飛び込んでくる桃花の突進はしっかり体重が乗って地味に痛い。
心なしか若干背も伸び、ガリガリだった身体も歳相応になってきている。
食事をちゃんと摂っているせいか、血色も良く村にいた時とはまさに別人のようである。
鐘離眜も驚きを隠していない。
「嬢ちゃん、何と言うか…しばらく見ないうちにまたずいぶんと可愛くなってきたなぁ。
始めは韓信が変な趣味に走ったのかと疑っていたんだが…。
これも一種の青田買いか?」」
などと変な感心の仕方をしてくる。
「よしてくれ、誤解を解くのが大変だったんだ。
ただでさえ俺が少女趣味だと思われていたんだぜ。
桃花、聞いているかもしれんが俺達は会稽を出発することになった。
だからしばらくお別れだ。」
桃花は韓信に抱きついたまま、こくんと首だけでうなずいた。
顔は上げていない。
頭を撫でながら韓信は言う。
「出発する事は決まったが、いつ戻ってこれるかは正直分からない。
それこそ戦次第だからな。
だから桃花を連れて行くわけにはいかない。
それは分かってくれ。」
あらかじめ覚悟していたのかまたこくんと首だけでうなずく。
さっきから顔をあげないな…。
韓信は杯に残った酒をあおると、よいしょっと桃花の体を持ち上げ自分のひざの上に座らせて背中をなでた。
ひょっとしたら桃花は泣いているのかもしれない。
今夜で会稽は最後だ。
戦に出るという事は命の保障はない。
だがそれはここにいる者は声に出さなくても分かっている。
あえて言葉にする無粋もないだろう。
韓信は愛情を込めてよしよしと桃花を抱きしめ、そしてそっと体を離した。
「達者でな。桃花。
よくみんなの言うことを聞くんだぞ。」
そして頭を撫でてやる。
桃花はもう泣いていることを隠そうとはしなかった。
何かを言う代わりにまた韓信の胸に飛び込んでくる。
ふと韓信は今夜は会稽中で自分と同じく別れを味わっている人達がいるんだろうな、と思った。
戦に出るという事はそういう事なのだ。
韓信は改めて実感した。
明日には会稽を出るだけあって、あちこちから酔った兵士達なのだろう
「打倒秦!!」
とか
「大楚!!大楚!!」
などの掛け声が聞こえてくる。
自らを鼓舞せねば恐怖に飲み込まれそうになるのかもしれない。
実は韓信自身には秦がどうとか、楚がどうなどの主義主張は持っていなかったりする。
だが、反乱軍に参加する武将や兵士達は秦を倒したいとか、秦に滅ぼされた祖国の復興、などを目的に傘下しているのだろう。
そのために命をかけるのだ。
韓信の目的はただ一つ、自分の能力が通用するかどうか試してみたい。
自分の采配で大軍を動かし、戦を思うがまま操り、勝利したいという欲求、それだけだ。
秦を倒すとかはついでにすぎない。
とは言ってもずっと待っていた絶好の機会である。
心の奥底から湧いてくる高まりを抑えるので精一杯な韓信であった。
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