第3話「あなたは、私の何を愛していたんですか」
振り返れなかった。
手首を掴む指が震えているのに、自分の膝も震えていることに気づいた。エリーゼは深く息を吸って、それからゆっくりと、ヴァルターを見上げた。
月明かりの中で、彼の顔は硬かった。笑顔など欠片もない。あの中庭で見た、リディアに向けていた顔とは——まるで別人のような、張り詰めた目をしていた。
「あなたが知りたいのは」とエリーゼは言った。「私が何者か、ですか」
「……ああ」
「答えたら、信じてもらえますか」
「それはお前が話してからだ」
エリーゼは少しだけ目を伏せた。それから顔を上げて、ヴァルターを真正面から見た。
「私はエリーゼです。エリーゼ・ハルトマン——あなたの妻です。魂だけが、この身体に移ってしまいました」
沈黙が落ちた。
ヴァルターは何も言わなかった。手首から指が離れた。エリーゼは逃げなかった。逃げても意味がないと、わかっていたから。
「……証明できるか」
「できます」
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できることは、一つしかなかった。
「あなたが、私にだけ話してくれた秘密を、全部言えます」
ヴァルターの表情が、微かに動いた。
「初めて笑いかけてくれた夜、何を考えていたか。左肩の古い傷の話。——子供の頃に見た夢のこと。誰にも言ったことがないと、教えてくれたあの話」
月明かりの下で、ヴァルターの顔が変わった。硬かったものが、音もなく崩れていくような——エリーゼがこの一年でほんの数度しか見たことのない、あの顔に。
「お前は」と彼は言いかけて、止まった。
そこへ、声がした。
「——随分と、楽しそうですね」
廊下の奥から、リディアが歩いてきた。
ドレスの裾を引いて、亜麻色の髪を夜風に揺らして。エリーゼの顔で、エリーゼの声で、エリーゼではない目をして——冷やかに微笑んでいた。
「私も全部知っている。記憶は同じなのだから」
リディアはヴァルターに向き直り、「ヴァルター様」と呼びかけた。「あなたが選ぶべきは、今あなたの隣にいる私のはずです。——この娘が何を言おうと、証明できることは同じ。でも私には、あなたの妻としての一年がある」
エリーゼは何も言えなかった。
反論できない。同じ記憶で、同じことが言えて、しかも元の身体まで持っている。何をどう争えというのか。
そのとき、廊下の灯りの中に、もう一人が現れた。
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神官服を纏った老いた男だった。白い顎髭と、深く落ち窪んだ目。ハンス神官——エリーゼは、この男を知らなかった。しかしリディアが「来てくださいましたね」と言って、微かに口角を上げたのを、見た。
嫌な予感がした。
「魂の二重転移は、古い神の摂理に触れる事象です」とハンス神官は静かに言った。「どちらが真の魂の主か——それは、夫に愛された方が決します。神はそのように定めております」
「そしてもう一つ」とリディアが言った。声は穏やかだったが、目が笑っていなかった。「ハンス神官、続きを」
神官は一拍置いた。
「満月までに婚姻の儀を執り行わねば——宙に浮いた魂は、消滅します」
エリーゼは息を飲んだ。
「消滅、とは」
「どちらかの魂が、永遠に。——七日後の満月までに、ヴァルター様が婚姻の誓いを新たに捧げなければ、この城に宿るもう一つの魂は、二度と戻れなくなります」
リディアの勝ち誇った笑みが、月明かりの中に浮かんだ。
「ヴァルター様。私と誓いを交わしてください。そうすれば、全て丸く収まります」
エリーゼは、ヴァルターを見た。
彼は動かなかった。ただ、拳がかたく握られているのが見えた。
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(第4話へつづく)




