第2話「前世の私は、私よりも上手に私を演じている」
城に潜り込んで三日が経った。
身分は「没落男爵家から奉公に上がった遠縁の娘」。名はアンナと名乗った。本当の名前を使えるはずがない。エリーゼ・ハルトマンは今、中庭を歩いたり厨房で笑ったり夫の隣に立ったりと、大層忙しくしているのだから。
使用人としての仕事は単純だった。廊下を磨いて、薪を運んで、厨房の手伝いをする。地味な顔と地味な身体は、ここでは便利だった。誰も振り返らない。誰も気に留めない。おかげで、見たいものを好きなだけ見られた。
そしてエリーゼは見た。見て、後悔した。
リディア——エリーゼはその名でしか呼べなかった。あの身体に宿った前世の魂を——は、完璧だった。
ヴァルターの好きな食事を、エリーゼの記憶から引き出して毎朝用意していた。彼が苦手な甘いものを、さりげなく食卓から遠ざけていた。彼の部下の名前を全員把握して、報告を受ける彼の隣で適切な相槌を打っていた。
*私より、私らしい。*
それは当然だ。記憶は同じなのだから。同じどころか、リディアはエリーゼがまだできていなかったことまで、軽々とやってのけていた。エリーゼが一年かけて少しずつ縮めてきた距離を、リディアは三日で詰めていた。
夕食の席でヴァルターが小さく笑う。
あの笑顔を、エリーゼは知っている。自分が引き出した笑顔だと、思っていた。
今は違う。
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副官のクラウスに声をかけられたのは、四日目の夕暮れだった。
薪を抱えて廊下を歩いていたエリーゼの前に、大柄な男が立ちはだかった。ヴァルターの右腕と呼ばれる男で、人懐こい笑顔と鋭い目を使い分けることを、エリーゼは知っていた。今はその目の、鋭い方を向けられていた。
「アンナ、だったか」
「……はい」
「どこから来た」
「北の方の、小さな町から」
「そうか」とクラウスは言った。それから少し間を置いて、「お前の目、奥様と同じだ」と呟いた。
エリーゼは薪を抱え直して、「存じません」と答えた。
「奥様は三日前から、別人みたいだ」
クラウスの声が低くなった。「笑い方が違う。目の奥が違う。旦那様の話を聞くときの、あの静かな息の止め方がない。——俺だけがおかしいと思っているのか?」
エリーゼは答えられなかった。
答えたら、全部崩れる気がした。
「……お仕事中に申し訳ありません」と頭を下げて、その場を離れた。クラウスは追いかけてこなかった。ただ背中に、「お前が何者かは知らんが」という声だけが届いた。「旦那様が「通せ」と言ったのには、理由があるはずだ」
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その夜、エリーゼは見てしまった。
眠れなくて廊下に出たのが、いけなかった。
ヴァルターがリディアの部屋の前に立っていた。
背中だけが見えた。大きくて、硬くて、エリーゼが何度もその広さを測るように見つめた背中。それが今、リディアの扉の前にある。
扉が、開いた。
——もう見ていられなかった。
エリーゼは踵を返した。荷物は少ない。この部屋に未練はない。もう十分だ。自分の負けだ。同じ記憶を持って、同じ愛し方を知っていて、しかも元の顔と声まで持っているなら——私に勝てる要素など、何もない。
城の裏口まであと数歩というところで、手首を掴まれた。
「どこへ行く」
振り返れなかった。声だけで、誰かわかった。
「放してください、私はこの城の者では——」
「お前、その目のままで俺の前から消えるな」
低く、押し殺したような声だった。怒りと、焦燥と、もう一つ——エリーゼには名前のつけられない何かが、混ざっていた。
手首を掴む指が、かすかに震えていた。
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(第3話へつづく)




