第1話「目が覚めたら、私が私の外にいた」
最初に気づいたのは、天井の色だった。
漆喰の白ではなく、節の浮いた木の板。ヴァルターと暮らす侯爵邸の天井は、いつも朝日を受けてかすかに金色に染まる。これは違う。
次に気づいたのは、手だった。
自分の手のはずなのに、細すぎる。関節が目立って、皮膚の色も違う。ヴァルターに「お前の手は骨太だな」と言われて拗ねたあの手ではない。
鏡を、探した。
粗末な小部屋の壁に、曇った小さな鏡がかかっていた。近づいて——息が、止まった。
知らない顔がいた。
地味な茶色の瞳。癖のある暗い髪。どこにでもいる、何の変哲もない令嬢の顔。エリーゼ・ハルトマンの顔では、ない。
なのに。
*記憶は、全部ある。*
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ヴァルターと初めて会った日のことを、覚えている。
政略結婚の挨拶で向かい合い、彼が終始無言だったこと。気まずさに耐えかねて持ち出した窓の外の話——あの日の空が妙に赤くて、二人でしばらく黙って眺めたこと。
新婚の夜、布団の端と端に別々に眠ったこと。ヴァルターが夢の中で苦しそうな声を上げて、思わず手を伸ばしたこと。朝、彼が目覚めて「……触っていたか」と聞いたから「触れていません」と嘘をついたこと。
彼が初めて笑いかけてくれた夜のことも、覚えている。
厨房で失敗した焼き菓子を二人で黙々と食べながら、「……不味いな」とヴァルターが呟いて、エリーゼが「存じております」と答えたら、彼が小さく——本当に小さく笑ったあの瞬間も。
*全部、ある。全部、私の記憶だ。*
なのに身体だけが、別人だ。
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窓から外を見たのは、泣くのを堪えるためだった。
城の中庭が、見えた。
朝の光の中に、二人の人間が立っていた。
エリーゼは息を、飲んだ。
片方は——自分だった。
エリーゼの顔をした女が、エリーゼのドレスを纏い、エリーゼの立ち方で立っていた。朝の風に亜麻色の髪が揺れる。見慣れた、のに——*見知らぬ*女。
そのすぐ隣に、ヴァルターがいた。
*ヴァルターが、笑っていた。*
エリーゼと暮らした一年で、エリーゼが両手の指で数えられるほどしか見せなかった——あの、硬い顔が溶けるような笑みで。
床が傾いたような気がした。
頭の中が、白くなった。
*あれは、私だ。でもあそこにいるのも、私だ。どちらが本物なのか——どちらが、ヴァルターの妻なのか。*
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城の門の前に立ったのは、それから小一時間が経った頃だった。
考えたことは一つだった。近くで見なければならない。あの女が何者なのか、ヴァルターに何をしているのか、確かめなければならない。
そのためには——城に入らなければならない。
「没落男爵家の遠縁の娘です。奉公のお話を伺いたく」
門番は胡散臭そうな顔をした。当然だ。出し抜けに現れた地味な娘など、どう見ても怪しい。「話など聞いておらん。出直せ」と手をひらひらさせた。
引き下がるしかない——と思った瞬間。
後ろから、声がした。
「…………通せ」
低い声だった。静かなのに、空気を変えるような声。
エリーゼは振り返った。
ヴァルターが、立っていた。
中庭で笑っていた男と同じ人間とは思えないほど、その顔は硬かった。琥珀色の瞳が、まっすぐにエリーゼを——いや、この知らない身体を——見ていた。
一瞬だけ。
*ほんの一瞬だけ、何かに気づいたような顔をして。*
それから視線を門番に移し、繰り返した。
「通せ、と言った」
門番が慌てて道を開ける。エリーゼは俯いて、震えそうになる膝を叱りつけながら、一歩踏み込んだ。
ヴァルターがすれ違いざまに、小さく息を吐くのが聞こえた。
——「探していた」と、聞こえた気がした。
気のせいだと、思うことにした。
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(第2話へつづく)




