第7話 心の準備
九月に入り、我が校・桜ヶ峰高校には様々なイベントが待ち構えていた。
九月末には文化祭がある。準備は有志団体や部活動なら六月末には案が出され、七月から八月にかけて調整が行われる。クラス内にも文化祭係があり、総務・イベント・会計・製作・食品・清掃の各部門に分かれて動く。
十月には運動会。百メートル走や障害物走、綱引きに加えて、棒倒しなどの競技もある。
十一月は定番の京都修学旅行。二泊三日、自由行動がメインで、班分けも自由。今からとても楽しみだ。
もちろん、これらのイベントは時期が来てから慌てて準備するものじゃない。夏休み前や夏休み中に、人間関係の構築や下準備を進めることで、より充実したものになる。
でも、それが問題だった。
私こと本木詩子は、あのストーカーの一件のせいで、そういう準備が一切できていなかったのだ。
運動会は雰囲気でなんとかなりそうだし、修学旅行も同じくらいなんとかなるだろう。私にはセナと実音がいる……と思う。うん。
問題は文化祭だ。四月からずっと気持ちに余裕がなくて、話し合いがあったことすらも、夏休みが明けてクラスの出し物を聞くまで思い出せなかった。
私のクラスは、演劇「ロミオとジュリエット」をやることになっていた。しかも、クラスの生徒がイベント部門の副部門長ということもあって、体育館というかなり広い会場で上演することになっている。
私は裏方の雑務担当。セリフを覚える必要もなく、少し前まで何をするか忘れていても大丈夫な役回りだったのは、正直ありがたかった。反面、退屈というか、あまり面白味のない役回りをもらってしまったような気もする。
「ロミオとジュリエット」のような物語は、あまり好きじゃない。ただ、少しだけ興味がある。
仮死状態のジュリエットを見たときのロミオ。自ら命を絶ったロミオを見て、後を追ったジュリエット。二人はどんな心境だったんだろう。
それを知るために、実際に演じてみる必要はない。ジュリエットにはジュリエットの、ロミオにはロミオの背景があって、その積み重ねの果てに、あの結末があったはずだ。深く突き詰めていけば、演じることをしなくても、その一片くらいは知ることができるだろう。
個人的に、脚本のセリフだけでも読んでみることにしよう。
「あーそこ、少しずれてるからもっと動かして」
「もっと腹から声出して。練習でできてないと本番でもできないよ」
「ひぃぃ、まだ全員分の衣装できてないよ……」
うちの学校って、部活も文化祭準備もかなり本気なんだな、と改めて思う。というより、うちのクラスに一生懸命な人が多いだけなのかもしれない。
普段はあまり声を出さない小山内や中森さん、山城さんが、めちゃくちゃ頑張っているのがわかる。
小山内は演劇好きだけあって、練習を見る目が確かで、セリフ回しや動き、表情への指示がとても的確だ。いつもは物静かな彼が、この準備期間だけはとてつもないリーダーシップを発揮していて、意外な一面を見せている。
山城さんは衣装担当。彼女の作る衣装は目を見張るもので、今の裁縫や縫製の腕前でも、アパレルの仕事やネットブランドを展開できるんじゃないかと思うほどだ。
中森さんは脚本と台本の監督。文芸部の彼女にとって初めての舞台脚本で、夏休み中はそのために勉強し、同じ文芸部でクラスメイトの喜田さんに台本を頼んだりしていたらしい。たぶん、クラスで一番忙しい人だ。
ちなみに脚本と台本の違いを聞いてみたら、「台本は役者のためのもの、脚本は裏方のためのもの」とのことだった。台本には役の心情や情景の説明があり、脚本には照明や舞台配置の指示がある、ということらしい。それにしても、周りのレベルの高さに唖然としてしまう。
「うちの高校って、結構すごかったのね……」
「なーに言ってんの。去年もすごかったでしょ?」
「去年は食品部門だったから、こういう裏方の作業ってあんまりやらなかったんだよね」
「そうだったんだ」
そういえば、去年セナとはクラスが違った。
「どんな仕事だったの?」
「注文受けたら作って出す、みたいな感じかな。あとは鉄板出したり、食材買い出しに行ったりとか。力仕事は男子がやってくれたから、そこまで大変じゃなかったよ」
「へー、結構楽そう」
「まあね。売れ残り食べられるのが最高だったなあ……」
「そんなこと言ってると太るぞー」
「たしかに……気をつけないと」
そう言って、私はお腹周りに腕を回すようにして触った。
女性らしい丸みが、腕を組むとどうしても強調されてしまう。それをいじらしそうにセナが見ていて、
「お前は本当に気をつける気があるのかこの野郎!」
そう言って、セナは私の胸を揉みしだき始めた。
そういえば、この一年で三サイズ大きくなったんだった。私の身体の変化は、いつも見ていてくれる親友だからこそ気になってしまうくらいの成長だったらしい。
でも、こういうことをすると男子の視線が集まる。それを感じた瞬間、咄嗟に、
「やめて!」
セナを突き放してしまった。
「いっ……何すんの、よ」
気づけば私は膝から崩れ落ち、肘を抱えるように腕を組んで震えていた。どうしようもなく、怖かった。
頭ではわかっている。百七十センチ前後の男性なんて、いくらでもいる。平均身長くらいなんだから。それでも、怖くて、怖くて仕方がなかった。
ストーカーが捕まってから二週間が経っていた。あの男は保釈金を払っていったんは釈放されたものの、その後姿をくらましてしまったらしい。警察は捜索を続けているけれど、まだ見つかっていない。半年近くも警察を出し抜いてきた用心深さを思えば、それも無理はないのかもしれない。
多少の怒りはある。でも今は、それより「あのストーカーが自分の身近にいるかもしれない」という事実の方が、ずっと怖かった。
だから、視線が怖い。自分を見る、すべての視線が。
クラスが少しざわついた中、実音が私を抱きかかえるようにして、
「小山内、詩子がお腹痛いみたいだから、保健室まで連れてくね」
「あ、ああ……わかった。気をつけて」
「……待って。私も行く」
こうして、教室から私と実音、セナがあとにした。




