第4話 それは瞬く間に
屋上には、〝ヤツ〟がいたのだ。
震えが止まらない。怖い。どうしてここにいるの。やだ、やめて。来ないで。私をこれ以上荒らさないで。早く逃げなきゃ。でも、どうやって。足が固まって動かない。どうしよう、どうしよう。
気がつけば、私はその場に崩れ落ち、泣いていた。もうどうしようもない。ここまで〝ヤツ〟はついてきてしまっていたのだから。
その男が、パーカーを脱いだ。
そこにいたのは、ゆうきちゃん――千夏先生だった。
え。なんで。どうして。
さっきまでの恐怖に、今度は苛立ちが混ざり始める。どうして生徒を教える立場の人間が、私をこんなふうに苦しめるのか。どうしてそこまでの執着を見せるのか。
わけがわからなかった。けれど、次の瞬間。
「申し訳ないです」
「……何がですか」グズッ。
「理由はわからないにせよ、本木さんはここに相談しに来たんですよね。それを、こんな形で怖がらせてしまった。だから、その、本当に申し訳ない」
どういうことなんだろう。でも、一つだけわかったことがある。この人はたぶん、ストーカーじゃない。
千夏先生は、簡単に謝るようなタイプの人間じゃない。これまでのこの人は、不思議なほどに非がない人だった。
もし千夏先生がストーカーじゃないとしたら、私がただ勘違いしただけだったのかもしれない。
こんな簡単に信じていいんだろうか。根拠は薄い。自分でもそう思う。それでも、私の中の何かが、大丈夫だと告げている気がした。
それに、教員がパーカーを着ているところなんて、修学旅行の夜回りをしている先生以外で見たことがない。だから、この勘違いについては、少しは許してほしい。
疑いが拭いきれないまま、私は一つだけ、千夏先生に確認した。
「……信じて、いいんですよね?」
「そのための私です。だから、よかったら話してほしいです。ここに来るまでに至った経緯、これまで辛かったこと、抱えきれなかったことを」
私は、ストーカーのことをすべて話した。
学校からの帰り道、いつも一人のときに現れること。警察を頼っても、なぜかその場に現れず、あてにならなかったこと。それが怖くて夏休みに外へ出られず、友達と遊べなかったこと。最近では、似たような格好の男性を見るだけで恐怖を感じるようになったこと。
こんなことを人に話すのは初めてだった。大切な人たちを巻き込みたくなかったし、信頼の薄い人に話しても信じてもらえるかわからなかったから。
この感覚を、なんて言葉で表せばいいんだろう。今まで人に言えなかったことを言えた、安心感? それとも高揚? 高揚とは何か違う気がする。話しているうちに泣きそうになるから、たぶんそれじゃない。
じゃあ、何?
私は今、悩みを話している。それも、必ず解決してくれると噂の千夏先生に。普通なら、安心とか、嬉しいとか、そういう感覚があるはずなのに。
ひとしきり話し終えたあと、千夏先生はこう言った。
「……大変でしたね。その悩み、どうにか解決してみせましょう」
多くは語らなかった。それでも、この人はなんとなく信用できる。そんな気がした。
「……お願いします、ありがとうございます」
「ただ、二つほど言わせてもらいますね」
「はい」
報酬か、条件か。そういうものだろうか。でも、もうなんでもいい。これを解決できるなら、差し出せるものは何でも差し出そう。
そう思っていたけれど、それほど重いものではなかった。
「そんなに、張り詰めなくてもいいんですよ」
ちょっと何を言っているのかわからない。
「……どういうことですか?」
「……伝わらないなら大丈夫です。今後、そのことについて考えてくれればいいので」
一体何のことなんだろう。千夏先生は、どこか窮屈そうな顔をしながら、よくわからないことを言っている。それでも、何か助言のようなものを伝えようとしていることだけは、伝わってきた。
「それともう一つ。今日話したことは、誰にも言わないでください。絶対に、ね」
「わかりました」
そのタイミングで、昼休み終了前のベルが鳴った。次の世界史の準備、まだしてなかったような……。
「それでは、このへんで失礼します。ありがとうございました」
「いってらっしゃい。ちゃんと顔洗って、涙目どうにかしてから戻るんですよ」
ハッとした。たしかにこのまま帰ったら、何か勘違いをされてしまうかもしれない。
千夏先生って、口調はあれだけど、なんやかんや優しいんだよなぁ……そんなことを少し思いながら、教室へ戻った。
*
この日、この時間、僕は理解した。いや、理解してしまった。あの張り詰めた表情を、僕はよく知っている。
そして、これから僕がするべきことは、すでに見えていた。
それでも、こうも性急に決めてしまっていいものなのだろうかとも思う。
彼女にこれを託すべきなのか。それとも、こんなものは海の底深くに沈めてしまうべきなのか。
見えている限り、あまり時間は残されていない。だから僕は考える。どうすればこの残り時間を延ばせるのか。そして何より――彼女は、相応しい人間なのだろうか。
時間が惜しい。経過観察と、何をすれば回避できるのか。僕はそのことに頭を巡らせていた。
*
「詩子~、どうだった?」
セナが尋ねてくる。おそらく、家で話したことを、彼女なりに気にかけてくれていたのだろう。
「大丈夫だったよ! どうにかなりそう」
「よかった……ほんとよかった」
「次の授業始まっちゃうよ~」
実音はやっぱり、あまり深く考えていない様子だった。
「……実音って残念すぎるわ」
「もっとデリカシーというか何というか……」
「? ? ? ? ? ? ?」
*
「じゃあねー」
「また明日」
学校が終わり、いつもの帰り道に差しかかる。
住宅街が並ぶこの通りは、私の通学路でありながら、夏の暑さを嫌う人が多いのか人通りが少ない。
だからこそ、私は気づいてしまったんだと思う。人が多い場所だったら、誰がどう自分を見ているかなんて、気づけないだろうから。
そして今日も、やっぱり気づいてしまう。
……〝ヤツ〟がいる。
そう思い、走る準備をした。
『その悩み、どうにか解決してみせましょう』
そう言われはしたけれど、さすがに今日中は無理だろうと思っていた。一日で対策できるようなものじゃない気がする。警察にすら捕まえられない相手が、そう簡単に捕まるはずがない。
そう思った次の瞬間、話し声が聞こえてきた。
「お兄さん、ちょっといいかな?」
「……? はい、なんでしょう」
「令状が出ておりますので、署までご同行願います」
「!?」
振り返ると、私服警察と思しき人物が二人と、フードを目深にかぶった男が、そんなやり取りを交わしていた。
展開が急すぎて、理解が追いつかなかった。私が千夏先生に相談したのは今日だ。それからまだ三時間と少ししか経っていない。警察への手配にしても、あまりに早すぎる。
これが千夏先生の噂の正体か。たしかにこれは噂になるはずだ。ありがたいことにはありがたいけれど、少し怖くもある。
「待ってくれ、弁護士を呼ばせてくれ!」
「それくらいなら待つけど、とりあえず来て来て」
男は何か言いたげだったけれど、フードを深くかぶっていて顔までは見えなかった。いや、見なくてよかったのだと思う。もし見てしまっていたら、似た顔を見るたびに怯えながら生きていくことになっていただろうから。フードを目深にかぶった人間なんて、そう多くはいない。
男は連行され、警察官が私に声をかけてきた。
「君が本木詩子さんかな?」
「はい」
「そうか……大変だったね」
「大変だったね」――その一言で片付けられた気がして、腹立たしさが込み上げたけれど、今はぐっとこらえた。
「それにしても、生徒思いな先生もいるもんだね。先生のこと、大事にしなよ」
「え、ちょっと待ってください。千夏先生が通報してくれたんですか?」
「千夏先生かどうかまではわからないけど、学校の先生から通報があったとは聞いたな。急に呼び出されてこっちも驚いたよ」
やっぱり理解が追いつかない。私が相談したときは、警察はほとんど動いてくれなかった。犯人も捕まえられなかった。
それが今日は、千夏先生が何か報告か通報のようなことをして、あっという間に犯人を捕まえてしまった。決して悪いことじゃない――むしろ私にとってはとてもいいことなのに、この変わりようは一体何なんだろう。
先生は一体、何者なんだろう。そんな疑問だけが、ただひたすらに浮かんできた。
「では、本件は警察がしっかり預からせていただきます。令状も出ておりますので、念入りに調べさせていただきます」
「わかりました、お願いします」
今の私では、考えてもわからないことだらけだ。それでも、一つだけわかることがある。
長年私を悩ませてきた問題が、一つ解決したという事実。そしてそれは、たぶん千夏先生が動いてくれたことによるものだということ。
今は気持ちよく家に帰って、一刻も早く冷房をつけて涼もう。明日もどうせ学校に行くのだから、そのとき先生に問い詰めればいい。
父の好物でも、久しぶりに作ってあげよう。




