第3話 どうして
朝六時半起床。いつものように洗面台に立ち、ヘアバンドをつけ、ぬるま湯で顔を洗い、スキンケアをしていく。
父は五時半に起きて、私の朝ごはんとお弁当を作ってくれている。お弁当は、前日の夕飯の残り物やレンチンの具材が中心だから、正直私にもできそうな気がしなくもないけれど、朝に弱い私にとっては、それだけでもありがたい。
父が洗い物を終えて家を出たあと、寝ぐせでぼさぼさの髪をとかし、日焼け止めと下地、ファンデーションと、先生にバレない程度のメイクをしていく。
中学の頃、友達とのお泊り会をきっかけに始めたメイクは、最初こそ面倒だと思っていたけれど、自分の顔を自分の好きなようにできるという楽しさに、最近ようやく気づいてしまった。
いつか告白をするときや、大切な人と会うときのために、フルメイクくらいはできるようになっておきたい。
朝の支度を終えて家を出る前に、母の仏壇の前に行き、りんを鳴らして手を合わせる。
母は私を産んで、力を使い果たしてしまった。私は母の顔を、写真でしか知らない。
授業参観や保護者説明会には、いつも父が来てくれた。ただ、父が男親だということもあって、変な噂が立ったこともあった。ヒモだとか、専業主夫だとか、離婚しているんだとか。
父は決してメンタルが強いタイプの人ではなく、そういう噂に弱かった。だからだろうか、たまに酔うと私にこう言う。
「いいか詩子。お前ができない人間だなんてこと、絶対にありえないんだよ。俺の子だから言うわけじゃないけど、母さんはお前を命がけで産んだんだ。その子ができないなんてことはない。周りと比較されることもあるだろうけど、お前はそんなちゃちなもんじゃ測れない、唯一無二の人間なんだ。だから、いつだって、自信を持っていいんだよ」
父はいつも私を見てくれているし、気にかけてくれている。それは本当にありがたいことだ。
ただ、こう言うときの父はいつもどこか心細そうで、私に語りかけるというより、自分自身に言い聞かせているように感じることがある。
だから私はしっかりしなきゃと、いろいろなことを頑張ってきた。でも、メンタルの弱さは父親譲りなのか、その部分だけは似たくなかったのに、ストーカーの件で何か自分が崩れていくような感覚が、たしかにあった。
そんなとき、いつも支えてくれたのはセナと実音だった。この二人と小中高とずっと一緒にいられたのは、本当に幸運だと思う。
大学生になっても、社会人になっても、一緒にいられたらいいな。
今日はやけに昔のことを思い出す気がする。たぶん、いつもより少し気持ちが軽いからだろう。これは、これからゆうきちゃんに相談するからなのだろうか。
もちろん、悩みを解決してくれるなんて、しょせんは噂話だ。解決なんてしないかもしれないし、そもそも「聞いてもらっただけで満足した生徒」がたくさんいるだけかもしれない。
それでも、なぜか期待してしまう自分がいる。それだけ、私は追い詰められているのだろうか。
そんなことを考えても始まらない。何かを変えるには、まず行動すること。大体のことは、それに尽きる気がする。
いつもより少し軽い足取りで、私は家を出た。
「いってきます」
*
昼休み。私とセナ、実音はいつものように昼ごはんを食べていた。
「今日の体育、暑くって無理無理無理! 今日で授業終わらないかな……」
「ねー、ほんとキツいよね。家だったらスカートめくってうちわあおいd」
「それ以上はいけない。一応うち、共学なんだから」
実音の冗談を止めながら、私は思う。これ、共学の教室でする発言じゃないような……。まあ、三年ぶりに三人同じクラスになれたんだし、これくらいは許してくれるよね、うん。そう思っておこう。
他愛のない話をしながら昼ごはんを食べ終え、
「ちょっと用事あるから、また後でね!」
そう言って、私は屋上へ向かった。
*
夏休みに家に集まった、あの日のことを思い出す。
「んでねー、その噂話なんだけど、屋上に行くと、なぜかゆうきちゃんがいるんだって」
「え、屋上? ちょっと話が見えないんだけど……」
うちの学校の屋上は、基本的に施錠されている。生物や地学の実験でたまに使われる程度で、何のために用意されているのかもよくわからない。屋上でサボったり告白したり――学園生活の定番の舞台のはずなのに、どうして開いていないんだろう。
「いやいや、本当にそうなんだって」
「……じゃあ何、まじもんのエスパーなの?」
「そこについてはそうとしか言えないんだよね……まあ、噂話だけどね!」
「都市伝説みたいな感じ? ヤバすぎジョージーに出そうなやつじゃん」
「……自分で話振っておいてなんだけど、怖くなってきたから勉強しよ?」
「そうね、うん」
セナはこのグループの中で一番明るくて、怖いもの知らずみたいな子なのに、ときどきこういう可愛いところを見せる。ほんと好き。
「これから面白くなりそうなところだったのに」
「あっ、実音、そこ間違えてるよ」
「ええええ、めちゃ頑張ったのにいいい」
*
そして今、私は屋上へと続く階段を上っている。一歩一歩の歩みが、私を悩ませてきた――もとい、危機を何とかするための一歩だと思いながら。
屋上は噂通り開いていた。ここに来るのは、地学の授業で日食を観察したとき以来だろうか。少しだけ懐かしい。
そして、噂通り、そこには人がいた。
……でも、それは私が一番望まない形で、そこに立っていた。
パーカーを着た後ろ姿。身長はおよそ百七十センチ前後。
――〝ヤツ〟だ。




