第2話 気のせいじゃない
「いやー、今日も暑いねぇ」
「そだね……ただ、元気なセナちゃんの方がすごいわ」
「今そのテンションはもうなんか暑苦しい」
「二人ともひどいよぉ!」
そんなありきたりな会話を交わしながら、まだ暗さを見せ始めたばかりの太陽の下を歩いていく。夏休みは明け、始業式は昨日終わったばかり。今日から授業が再開された。
シャツが汗でぺたりと肌にくっつく、少し気持ちの悪い感覚。日陰が見えると、思わず吸い寄せられ
るように入りたくなる。そんなことを考えながら、いつもの分かれ道に着いた。
「バイバーイ」
「じゃーねー」
「また明日!」
いつものように、親友の古高セナと立華実音と別れ、それぞれの帰路につく。
今日は八月二十九日。もうすぐ九月になり、季節としては秋のはずなのに、依然として猛暑が居座っている。こんな時期にどうして夏休みを終えてしまうんだろう。せめて九月下旬まで休みでいいじゃ
ないか。そう思えてならない。
家までは徒歩十分ほど。そう遠くない場所に冷房の効いた部屋が待っているのだから、暑さにやられた身体を引きずるようにダラダラ帰っていくのが普通なのだろう。
でも、私にそんな余裕はなかった。
この時間、この帰り道――〝ヤツ〟が現れる。
視線を感じて振り返ると、何もいないように見える。けれど、塀の上からのぞくフードを、私は見逃さなかった。
その場から逃げ出す。脱兎のごとく走る。背後から何かが追ってくるような音がした気がしたけれど、確かめる余裕なんてなかった。五十メートル走ギリギリ七秒台という、平均より少し速いくらいの脚で、ただひたすらに走る。
幸い道を阻むものはなく、一直線に家まで辿り着き、震える手で伴を開け、中に入って、すぐに施錠する。
心臓がバクバクと鳴っている。ただ走ったからというだけじゃない。生命の危機を感じたときの、生存本能そのものの緊張感が、鼓動をなかなか収めさせてくれない。
しばらくして、ようやく鼓動が落ち着いてきた頃、自分がとんでもない量の汗をかいていることに気づいた。床にぽたぽたと汗が垂れる。この時期ならよくあることのはずなのに、原因が原因なだけに、ひどく気持ち悪く感じられた。
私はストーカーをされている。
いつからかは正確にはわからない。この視線を感じ始めたのは、たぶん今年の春頃だ。
ふと振り返ったり、スマホでこっそり後ろを撮ったりすると、同じくらいの身長で、フードや帽子をかぶった男が必ずそこにいた。
昔は「ストーカーなんて股間を蹴れば一発KOでしょ」くらいに思っていた。けれど、実際にされてみると、想像を絶する恐怖がある。いつ襲われるかわからない。かといって警察に駆け込んで逆上されたら――そんな恐れもあった。
だから直接ではなく、電話で相談し、通学路のあいだだけ私服警官に二人ついてもらうことになった。
けれど、その男は妙に勘がいい。あるいは間が良すぎた。私服警官がついている間だけ、一度も姿を現さなかったのだ。
その後、警官を説得しようとしても、
「本当に被害に遭っているんですか?」
「遭っています。いつもこの時間、この通学路で妙な視線を感じるんです……本当なんです」
「……わかりました。次に相談される際は、証拠の提示をお願いします」
「写真を見せたじゃないですか。あれじゃダメなんですか?」
「あれは、たまたま似た体格の人が立っていただけかもしれません。顔が映っていないので、断定は難しいです」
「……はい。またお願いします」
そんなやり取りが続くばかりで、ストーカーは今も続いている。警察を信用できずにいた。
夏休みはセナや実音と遊ぶ約束をしていたのに、塾が忙しいなどと理由をつけて何度もキャンセルした。結局一緒にいたのは、自分の家で宿題をやったときくらい。怖くて、あまり外に出られなかった。
二人に相談したかった。でも、巻き込んでしまいそうで怖かった。それに、家にいるときも〝ヤツ〟が家の周りをうろついているかもしれないと考えると、正直、来てほしくなかった。それでも二人の押しに負けて、結局家に呼んでしまったのだけど。ちゃんと断るところは断ろうよ、私。
ただ、その日には思わぬ収穫があった。
*
「そういえばさ、ゆうきちゃんの噂、知ってる?」
「え、もしかして本当は女性だった、みたいな?」
「えっまじ?」
「たしかに名前はそれっぽいけど……いや、そうじゃなくてね」
実音の冗談を真に受けそうになる私と、それに呆れ笑いしながらセナが続ける。
「あの先生に何か相談すると、なぜか大体の悩みがどうにかなるっていう噂よ」
「知らないけど、なんかそれっぽいなぁ。あの人、変わってるし」
「へぇ……」
千夏悠生先生。愛称、ゆうきちゃん。二十八歳、男性、独身。中性的な顔立ちで、身長は日本人男性の平均より少し高いくらい。甘いもの好き、落雷が苦手、修学旅行の夜も化粧水や美容液でスキンケアを欠かさない――などなど。数学教師らしい偏屈さを持ちながらも、謎の女子力の高さが評判で、裏では「ゆうきちゃん」と呼ばれている。
それだけでも十分変わった先生だが、何より特徴的なのはその授業スタイルだ。毎回の授業ごとに、補助・補足のプリントを必要な生徒に配る。しかも、生徒ごとに内容が違う。
おかげで、千夏が担当するクラスは他科目のテストや、担当しないクラスと比べて平均点が高いのだとか。
ゆうきちゃん曰く、
「なんとなーく生徒がつまずきそうなところを、わかりやすくまとめて渡してるだけですよ」
とのこと。エスパーか、よほど生徒をよく理解している教師か、そのどちらかなんだろう。
*
正直、もう限界だった。
世間的には「JK」と呼ばれる、特別なはずの夏休み。それなのに、私は一度も外で遊ぶことができなかった。
それだけじゃない。フードや帽子をかぶった、同じくらいの身長の男性とすれ違うたびに、恐怖がこみ上げる。もしかしたらこの人がストーカーなんじゃないか。そう考え始めると、意識して我慢しないと身震いしてしまうほど怖い。
最近では、カーテンを開けるのすら怖くなってきた。開けたらあの男がいるんじゃないか。恐怖は募る一方で、消えることはない。
精神はすり減り、逃げるために走ることが増えて、身体も疲弊していた。
そんなとき、ふとゆうきちゃんの話を思い出す。
たしかに私はストーカーのことで悩んでいた。でも、親友たちを巻き込みたくなくて、誰にも相談していなかった。そもそもセナや実音には言ってすらいない。
そんな私の中の遠慮のようなものを、セナは見抜いていたのかもしれない。実音は天然というか、抜けているところがあるからそこまで考えていなかったんだろうけど、セナはそういう細やかなところまでちゃんと見てくれる人だ。
セナ、ありがとう……今度何か奢らせて。
警察は信用できない。友達は巻き込みたくない。でも、この問題は解決したい。そんな都合のいい話があるのだろうかと思いつつも、ゆうきちゃんならもしかして――という、根拠のない期待が芽生えていた。
八月二十九日。日が沈んでいく部屋の中、私は一つ決意をした。
ゆうきちゃんに相談する、と。




