第32話 酷
救急車の中、私はセナの手を握りながら、必死に声をかけ続けていた。
「セナ、しっかりして。お願い、頑張って」
返事はなかった。酸素マスクをつけられたセナの顔は、いつも見ている元気な顔とは、まるで別人のようだった。隊員の人たちが、テキパキと処置を続けている。その合間を縫うようにして、私は、何度も何度も、名前を呼び続けた。
「セナ、聞こえてる? もうすぐ病院だから」
隣で実音は救急隊員に、当時の状況について説明したりなどしていた。その後両手を合わせるようにして、膝の上で握りしめている。声には出さないまま、何かを祈っているのだと、その横顔を見ればわかった。運転手が心配そうにこちらを窺っていたけれど、気にかける余裕なんてなかった。
ポケットの中の懐中時計に、指が触れる。
時計を使えば、何かわかるかもしれない。セナの容態が、これからどうなるのか。せめてそれだけでも知ることができたら。縋るような気持ちで、対象をセナに絞って、文字盤に意識を集中させる。
何も、流れてこなかった。
自分のことなら、いつも通り、断片的な光景が頭に浮かぶ。それなのに、セナに向けようとすると、何も見えない。真っ白な、何もない感覚だけが返ってくる。
なんで。どうして。
混乱したまま、何度も試した。結果は同じだった。セナの未来だけがまるで最初から存在しないみたいに、何も映らなかった。理由なんて、まったくわからなかった。ただ、これまでにない異常な感覚だけが、胸の中に居座っていた。
サイレンの音を聞きながら、私はただ、セナの手を握り続けることしかできなかった。
病院に着くと、セナはすぐに処置室に運び込まれていった。私と実音は廊下の長椅子に座らされ、ただ、待つことしかできなかった。消毒液の匂いと無機質な照明が、余計に不安を煽った。
「セナ、お願い、頑張って」
誰にも届かないとわかっていながら、そう呟いていた。
少し経ってからセナの母が到着した。
「詩子ちゃん!セナはこの奥にいるのね」
「はい、そうです。今頑張っていると思います」
「そう……」
顔面蒼白という言葉が頭に浮かんだ。それほどセナのことを心配しているのだろうと察しはつくが、私と実音の前でなんとか体裁を守ろうとしている。
程なくして処置室から医師と看護師が出てきた。
「古高さんのご家族の方――」
「はい。私は母で、この二人はセナの友達です」
処置室から出てきた医師の表情を見た瞬間、全部を悟ってしまった。あの感情を抑えたような、それでいて隠しきれない疲労の滲んだ顔。前にも、どこかで見た表情だった。
「大変残念ですが、お亡くなりになりました」
その言葉が、どこか遠くから聞こえた。頭では理解しているはずなのに、身体がまったくついていかない。
既視感があった。いつか、同じような言葉を、同じような場所で、聞いた覚えがある。千夏先生のときと、同じだった。あのときと同じ、現実感のない、ふわふわとした感覚。どうして、また、この感覚を味わわなくちゃいけないんだろう。
実音が、その場に崩れ落ちた。
「こんなつもりじゃなかったのに……こんなつもりじゃ……」
嗚咽混じりの声が、廊下に響く。私は、実音の背中をさすることしかできなかった。
しばらくして、警察官が病院にやってきた。制服姿の警官が二人、看護師と何か言葉を交わしたあと、こちらに近づいてくる。事故の経緯を確認する中で、実音が、震える声で口を開いた。
「私が……殺しました」
その一言に、周りの空気が凍りついた。警察官同士が、一瞬、視線を交わすのがわかった。
「殺そうとしたわけじゃない、けど、揉み合ってて、それで、セナが階段から……」
言葉が、途切れ途切れになる。それでも実音は、目を逸らさずに話し続ようとした。
「どうして」
セナの母が実音の向けて歩いている。警察官は事の重大さを感じ取ったのか、セナの母と実音の間にいつでも入り込める体勢をとる。
「どうしてセナを殺したの!あんなに仲良かったのに!」
「落ち着いてください。あとは我々が確認します」
セナの母は泣き崩れた。警察官はそれに付き添う形でなだめている。
警察官が実音をその場で聴取し始める。何が話されているのか、詳しくは聞き取れなかった。ただ実音が、何度も何度も、頭を下げているのだけが見えた。
やがて、実音は、警察官に連れられていった。
さっきまで、三人で笑い合っていたはずだった。それなのにセナは死んで、実音は連れていかれてしまった。
私には、何もできることがなかった。
がらんとした廊下に一人残されて、私は力の抜けた足取りで、病院を後にした。




