第31話 狼狽
「セナ、セナってば!」
何度呼びかけても、返事はなかった。息はしている。それだけは、かろうじてわかった。でもそれ以上、何をどうすればいいのか、まったくわからなかった。
さっきまでの怒りも、悲しみも、疑念も、全部どこかに吹き飛んでいた。頭の中にあるのは、ただセナに目を開けてほしいという、それだけの一つの願いだった。
動かしていいのか、動かしちゃいけないのか。頭を抱えているべきなのか、そのままにしておくべきなのか。知識なんて、何一つ持ち合わせていなかった。授業で習った応急処置の記憶をたどろうとしても、頭の中が真っ白で、何一つ思い出せなかった。
震える手で、スマホを操作する。何度も指が滑って、目的の画面にたどり着けない。パニックになればなるほど、指先の震えがひどくなっていく。それでも、なんとか電話をかけた相手は、詩子だった。頭で考えたわけじゃない。気づいたときには、もう発信していた。
「もしもし、実音?」
「詩子、詩子、セナが、セナが」
うまく言葉にならなかった。喉が引きつって、まともに息が吸えなかった。
「落ち着いて、何があったの」
「階段から落ちて、頭打って、動かなくて、私、私……」
「今どこ? 場所教えて」
詩子の声は、こちらの動揺とは対照的に、ぎりぎりのところで、しっかりとしていた。その落ち着きに、少しだけ、正気を取り戻せた気がした。
「体育倉庫の裏、外階段のところ」
「わかった、すぐ行く。実音、聞いて」
短く、鋭い声だった。
「今すぐ救急車呼んで。119番。セナの意識と呼吸の状態、聞かれたら答えられるようにして。それと、頭を強く動かしちゃだめ。首の下にタオルとかあれば入れて、そのまま安静にさせて」
矢継ぎ早に指示が飛んでくる。頭が真っ白なままだったけれど、詩子の声に従うようにして、なんとか手だけは動かした。人間は極限状態になると、誰かの指示にすがるようにしか動けないものなんだと、このとき初めて知った。
「わかった、やる」
「私もすぐ向かうから」
電話が切れる。震える手で、今度は救急に電話をかけた。
「119番です、火事ですか、救急ですか」
「救急です、友達が階段から落ちて、頭を打って、意識が」
自分でも何を話しているのか、うまく把握できないまま、それでも聞かれたことには、なんとか答え続けた。年齢、場所、状態。一つ一つの質問に答えるたびに、現実の重さが、少しずつ胸にのしかかってくる。
「救急車は向かっています。それまで、患者さんのそばを離れないでください」
電話越しの落ち着いた声に、少しだけ、すがるような気持ちになった。
通話を切って、セナの上着を脱いで、丸めて、首の下に入れる。手が震えて、うまくできなかった。何度もやり直して、ようやく形になった。
「セナ、大丈夫だから。今、助け呼んだから」
声をかけながら、セナの手を握り続けた。
どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。
「実音!」
詩子が、階段を駆け下りてくる足音がした。顔を上げると、詩子が、青ざめた顔で、こちらに走ってくるところだった。息が上がっていて、走ってきたことがすぐにわかった。
「詩子……」
「セナ、セナ!」
詩子は、セナの様子を見た瞬間、大きく息を呑んだ。手が、明らかに震えている。
「え、なんで、こんな……」
言葉が、途切れる。詩子も、目の前の光景を、うまく受け止められずにいるのがわかった。それでも、詩子は、すぐに膝をついて、セナの状態を確認し始めた。
「呼吸は? まだしてる?」
「うん、たぶん、してる」
「セナ、聞こえる? セナ」
詩子が震える声で呼びかける。それに反応するように、セナの瞼が、かすかに動いた。
セナの目が、うっすらと開く。焦点の合わない瞳が、ゆっくりと、こちらを捉えた。
「せ、セナ、聞こえる? しっかりして」
セナの唇が、小さく動いた。声にならない、かすかな呼吸だけが漏れる。何かを伝えようとしているのは、はっきりとわかった。それでも、言葉として届く前に、その息は、また消えていく。
セナの右手が、ゆっくりと持ち上がった。何かを探すように、宙をさまよう。
「セナ?」
詩子が、その手を取った。セナの手が、詩子の手に、何かを握らせようとしている。木製の懐中時計だった。ポケットから震える指先で、必死に取り出したのだとわかった。
「これ……」
詩子が戸惑いながらも、それを受け取る。その手も、小刻みに震えていた。
セナのもう片方の手が、今度は、私の方へ伸びてきた。力の入らない指先が、私の頬に、そっと触れる。
温かかった。いつもと変わらない、セナの手の温もりだった。ついさっきまで、掴み合っていた手だ。あんなに強く握っていたはずのその手が、今は、驚くほど優しく、頬を撫でていた。
「セナ……」
声が、震える。涙が、止めどなく溢れてきた。せめて何か言葉を返したいのに、喉が詰まって、うまく声にならなかった。
セナの唇が、もう一度、動いた。今度は、かすかに、声になった。
「ごめんね」
それだけだった。何に対しての「ごめんね」なのか、聞き返す間もなかった。あの喧嘩のことなのか、時計のことなのか、それとも、もっと別の何かなのか。今となっては、確かめる術もなかった。
セナの手から、すっと力が抜けた。頬に触れていた指先が、力なく落ちる。
「セナ? セナ!」
呼びかけても、もう、瞼は動かなかった。半開きのまま、その目は、どこも見ていなかった。
遠くから、サイレンの音が近づいてくる。さっきまで、あんなに遠く感じられていたその音が、今はやけに現実味を持って耳に届いた。
救急隊員が、階段を駆け上がってくる足音。担架。慌ただしい声。それらすべてが、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
「どいてください、処置します」
隊員の一人が、てきぱきとした動作で、セナの容態を確認していく。もう一人が、酸素マスクのようなものを取り出す。無線で、何かを本部に伝えている声も聞こえた。
処置が始まる。詩子が、私の肩を、強く抱き寄せた。二人とも、その場から動けないまま、ただ、祈るような気持ちで、セナの様子を見守っていた。手を握り合って、言葉もなく、ただじっと立ち尽くしていた。
けれど、救急隊員の表情が、すべてを物語っていた。テキパキとした動きの中に、どこか諦めにも似た色が混じっているのが、素人目にもわかってしまった。
担架に乗せられ、運ばれていくセナの顔を、私はただ、見つめることしかできなかった。
小学校からずっと一緒だった。他愛のない話をして笑い合って、時には喧嘩もして、それでもいつも隣にいてくれた。ついさっきまで、あんなに言い争っていたのに。あんなに、腹が立っていたのに。今はもう、そんな感情はどこにもなくて、ただ、あの明るい笑い声を、もう一度聞きたいという気持ちしかなかった。
セナの意識は、戻ってこなかった。




