第30話 激昂
放課後、セナを呼び出した。
校舎裏、体育倉庫の脇にある、外階段の踊り場。普段はほとんど人が通らない場所だった。錆びた手すりと、コンクリートの階段が、夕方の薄暗い光の中に伸びている。部活の声も、ここまでは届かない。詩子には、先に帰っていてほしいと伝えてあった。今日ばかりは、誰にも聞かれたくない話だった。
「実音、どうしたの? わざわざこんなところまで」
セナが少し不思議そうな顔で、階段を上ってくる。
「ちょっと、二人だけで話したくて」
「なになに、改まって」
セナはいつも通りの調子で、軽く笑ってみせた。その様子に少しだけ、こちらの緊張がほぐれる。踊り場の手すりに寄りかかりながら、私は口を開いた。
「まずはおめでとう。吉野先輩のこと」
まず、そう伝えた。
「うん、ありがとう」
セナは少し照れくさそうに笑った。その笑顔を見ていると、なんだか無性に、全部打ち明けてしまいたくなった。ずっと胸の中にしまい込んでいたことを、ここで初めて、誰かに話す。この機会を逃したら、きっとまた言えないままになる。そんな気がした。
「ここだけの話さ、私、吉野先輩のこと好きだったんだよね」
言ってしまってから、少しだけ肩の力が抜けた気がした。誰にも言わずにいた分、口にした瞬間、なんだか身体が軽くなるような感覚があった。セナになら、笑って聞いてもらえると思っていた。「え、まじで!」とか、「早く言ってよ!」とか、そんな反応を勝手に想像していた。
「うん、知ってる」
その返事に、頭の中が一瞬、真っ白になった。想像していたどんな反応とも、違いすぎていた。
「……は?」
聞き間違いかと思って、もう一度、セナの顔を見た。セナは特に動揺した様子もなく、ただ困ったような表情を浮かべているだけだった。まるで、隠すつもりだったことが、うっかりばれてしまったような、そんな顔だった。
「知ってるって、どういうこと」
声が、自分でも驚くくらい、低くなっていた。
「実音、誰にも言ってないよね? 私、家族にも、詩子にも、誰にも言ってないんだけど」
「……」
「なんで、セナが知ってるの?」
セナは、答えなかった。目を逸らして、口をきゅっと結んでいる。その反応が、答えられない何かがあることを、はっきりと物語っていた。その沈黙が、これまでの色々なことと、頭の中で一気につながっていった。
家庭のこと。生活保護のこと。父のパチンコのこと。誰にも話していないはずのことを、セナはいつも知っていた。「なんとなく」と言いながら、体育館の掃除場所を指定してきたこと。真っ直ぐ帰るように言われた日に限って、家で何か起きていたこと。傘を持っていくように言われた日の、あの夕立。全部、全部、偶然にしては出来すぎていた。
あのとき、変だとは思っていた。それでも、深く追及しなかったのは、セナのことを信じていたからだ。セナが悪意をもって私と接しているはずがない、そう思い込もうとしていた。むしろ、なんだかんだ助けられている、と感謝すらしていた自分がいる。それが、今はひどく滑稽に思えた。
そして今、誰にも打ち明けていない吉野先輩への気持ちまで、セナは知っていた。もう、偶然や勘で片付けられる範囲を、完全に超えていた。
「なるほどね」
自分の声が、驚くほど冷たく響いた。
「今まで私に色々言ってきたあれは、私のことを操作したかったの?」
「……え?」
セナはどうやら、私が何を考えているかまるで理解できていないようだった。
「だって、そうとしか思えないじゃない?夕立やゴキブリ、はたまた父がパチンコに大当たりする日……。セナがこうした方が良いよって言ってくれた日には、必ず何かが起きてた。私が吉野先輩に対しての感情を知っているから、私と吉野先輩との距離を置くように、色々画策したんじゃんないの!?」
「操作なんて、そんなつもりは、一度もない。信じてほしい」
「じゃあ、なんで知ってるの」
セナは、口を開きかけて、また閉じた。何かを言おうとして、それでも言葉にならない、そんな表情だった。
「言えないんだ?」
「言えない、っていうか……うまく説明できないんだよ」
「説明できないって、どういうこと。友達なのに?」
「実音、信じてほしい。本当に、悪いことのために使ったわけじゃないんだ」
「使った? 何を?」
セナが、しまった、という顔をした。今、確かに「使った」と言った。何を使ったのか、その一言だけで、余計に疑いが深まっていく。
「セナ、ちゃんと説明して。じゃなきゃ、納得できない」
「……ごめん、それは、本当に言えないの」
「じゃあ、今までのことも、全部そう。理由は言えないけど、なぜか知ってる。都合よく助言してくる。私の家のことも、好きな人のことも、全部知ってる。それの、どこが操作してないと言えるの?」
畳み掛けるように、言葉が止まらなくなった。今まで抱えてきた違和感が、堰を切ったように溢れ出してくる。
「じゃあ、もう何も信じられないじゃん」
「そんな……信じてよ、実音のこと大事に思ってるのは、本当だから」
「大事に思ってるなら、なんで隠すの? 大事な相手になんで説明できないの?」
「それは……」
「それは、何?」
セナは俯いたまま、何も言えずにいた。その姿に、余計に苛立ちが募った。
「ねえ、答えてよ! いつもみたいに、なんとなくなんとなくって言ってごまかすんじゃなくて、ちゃんと言葉にしてよ!」
思わず声が大きくなった。狭い踊り場に、自分の声が反響する。
「実音こそ、そんな言い方しなくても」
セナが初めて、少し強い口調で言い返してきた。
「私だって、隠したくて隠してるわけじゃないし、実音のためを思ってやったことなのに、そんな言われ方されたら」
「私のため? 勝手に人のプライベート覗いておいて、それのどこが私のためなの?」
「覗いたとかじゃなくて……」
「じゃあ何なの! はっきり言ってよ!」
「言えないものは言えないの! 私だって、これでも一生懸命考えて、実音のためになるようにって……!」
「一生懸命? 勝手に人のこと調べておいて、一生懸命?」
「調べたとかじゃない、そんな言い方しないでよ!」
セナも声を荒げ始めた。今まで見たことのない、余裕のない表情だった。
気づけば、セナの肩を強く掴んでいた。
「実音、痛い」
「痛いのはこっちだよ! ずっと、ずっと、知らないところで見られてたんだよ!? それがどれだけ気持ち悪いことか、わかる!?」
セナの手が、私の手首を振り払おうとする。その拍子に、お互いのバランスが崩れた。
「私の人生は、私のものなの! 故意だろうが事故だろうが、それを他人に曲げられる道理はない!」
「ちょっと、離してよ!」
「離さない! ちゃんと説明するまで、離さないから!」
もみ合いになる。セナの手が、私の肩を強く押し返してきた。踊り場の狭さも忘れて、お互い、感情の赴くまま、腕を掴み合っていた。
「実音、落ち着いて!」
「これが落ち着いていられる!?」
気づけば、お互いの腕を掴み合い、引っ張り合っていた。踊り場は狭く、後ろにはすぐ階段が続いている。そのことに、頭が回っていなかった。頭の中は、怒りと悲しみと、説明できない何かでいっぱいで、周りを見る余裕なんて、まったくなかった。
「なんで、なんでこんなことになるの!」
セナの声にも、涙が滲んでいた。それでも、掴んだ手を離す気にはなれなかった。
「実音、危ないってば!」
セナがそう叫んだ、次の瞬間だった。
強く引っ張り合った反動で、セナの身体が、大きく後ろによろけた。
「あっ――」
手すりを掴もうとした手が、空を切る。
セナの身体が、階段の方へ、傾いていく。まるでスローモーションのように、その光景だけが、やけにはっきりと目に焼きついた。
「セナ!」
とっさに手を伸ばしたけれど、間に合わなかった。指先が、セナの袖をかすめただけだった。
セナの身体が、階段を転がり落ちていく。鈍い音が、何度か続いた。
一瞬、時間が止まったような感覚があった。耳鳴りだけが、頭の中に響いていた。
階段の下、踊り場から折れ曲がった先で、セナが倒れていた。頭のあたりから、じわりと血が広がっていくのが見えた。
「……え?」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。何が起きたのか、頭が理解することを拒んでいるみたいだった。
「セナ?」
階段を駆け下りる。足がもつれて、何度も転びそうになった。手すりを掴む手が、震えて力が入らない。
セナは目を閉じたまま、動かなかった。呼びかけても、まったく反応がない。
「セナ、起きて」
肩を揺すってみる。それでも、目を開けない。手の下で、セナの身体がだらりとしていて、いつもの温かさとは違う何かを感じて、余計に怖くなった。
「ねえ、セナ」
何度も、その名前を呼んだ。それ以外に、何をすればいいのか、まったくわからなかった。頭が、真っ白になっていた。ケガ、ましてや殺しかねないようなことをするつもりなんて、なかった。ただ、揉み合っていただけだった。それだけのはずだったのに。
震える手で、スマホを取り出す。指が滑って、うまく操作できない。何度も失敗しながら、それでも、通報しなければという思いだけが、頭の中でぐるぐると回っていた。
「大丈夫、大丈夫だから」
誰に言っているのかもわからない言葉を、口の中で繰り返す。セナの手を握った。まだ、少しだけ温かい気がした。それが、かえって現実を受け入れられなくさせた。
遠くから、犬の鳴き声と、誰かの足音が近づいてくる気配がした。それでも私には、目の前のセナしか見えていなかった。
「セナ、お願い、目を開けて」
声が、掠れていた。校舎の向こうの空に、夕焼けが、赤く広がっていた。それが、まるで血の色のように見えて、余計に恐ろしくなった。
「誰か、誰か来て!」
叫んだつもりだったけれど、うまく声が出ていたのかもわからない。喉の奥が、からからに渇いていた。




