第28話 予感
「実音、今日の掃除時間、体育館の手前側で雑巾がけするといいよ」
朝のホームルーム前、セナがそんなことを言ってきた。
「なんで?」
「なんとなく!」
いつものセナだ。特に気にせず、本来体育館を掃除する人と交代して、体育館の掃除をすることにした。
掃除の時間、体育館の手前側で雑巾がけをしていると、これから部活の吉野先輩が来た。
吉野先輩とは、実はまったくの初対面というわけじゃない。特待生には、学期に一度、まとめて呼ばれる面談や勉強会がある。吉野先輩も、バスケの実力だけでなく特待生としてこの学校に入っていて、その集まりで何度か顔を合わせたことがあった。
「あ、立華さん、お疲れ」
「吉野先輩、お疲れ様です」
「掃除、いつもここなんだっけ」
「いえ、今日はたまたまです」
「そうなんだ。この前の特待生面談のとき、成績表見えちゃったけど、相変わらずすごいよな」
「そんな、先輩ほどじゃないです」
「いやいや、俺は運動の方の枠だから、正直勉強はカツカツだよ。今度、コツ教えてよ」
「先輩がそう言うなら、いつでも」
「マジで頼りにしてる。また会ったら声かけるよ」
たったそれだけのやり取りだったけれど、内心では、ちょっとしたラッキーだと思っていた。声をかけてもらえるなんて、思ってもみなかったから。特待生の集まりでは、いつも遠くから見かける程度で、そこまで踏み込んだ話をしたことはなかった。バスケ部のエースとして校内でも人気のある先輩に、名前と成績のことまで覚えてもらえているというだけで、少し浮かれた気分になった。
翌日。
「セナ、なんで今日あそこがいいってわかったの?」
「んー、なんとなく? 勘だよ、勘」
そのときは、それで納得した。セナの勘は、たまに変に当たることがある。それくらいの認識だった。
数日後、また別の日。
「今日、真っ直ぐ帰った方がいいよ」
「なんで?」
「だから、なんとなく!」
またか、と思いながらも、言われた通り、寄り道せずに帰った。
家に着くと、珍しく機嫌のいい父がいた。パチンコで大勝ちしたとかで、上機嫌のまま、夕飯用にお惣菜をたくさん買ってきていた。普段は質素な食卓が、その日だけ、少し豪華になった。唐揚げに、天ぷら、いつもは買わないデザートまで並んでいる。
「実音、今日はご馳走だぞ」
「……うん、ありがとう」
久しぶりに、温かい食卓を囲んだ。それ自体は嬉しかったけれど、頭の片隅で、何かが引っかかっていた。父の機嫌がいい日と、セナの助言のタイミングが、なんだか重なりすぎている気がした。
翌日、教室でセナに、それとなく聞いてみた。
「セナ、昨日のあれも、なんとなく?」
「うん、なんとなく!」
明るく笑うセナに、それ以上突っ込む隙はなかった。
またセナが変なこと言ってる。
最初は、その程度にしか思っていなかった。セナは昔から、突拍子もないことをよく言う。今回も、そのうちの一つだと思えば、納得できなくもなかった。
それでも、こういうことが、一度や二度じゃなくなってきた。雑巾がけの位置。帰り道のタイミング。他にも、「今日は傘持ってった方がいいよ」と言われた日に限って、下校時に急な夕立が降ったこともあった。ちょっとした助言が、なぜか、いつも的確に当たる。
……なんで?
そんな疑問が、少しずつ、胸の中に積もっていった。
セナの助言自体は、何も間違っていない。むしろ、いつも私にとって、都合のいい結果につながっている。だからこそ、余計に気味が悪かった。ただの偶然で片付けるには、あまりにも回数が多すぎる気がした。
なんでセナは、こんなことを知っているんだろう。
答えは、わからないままだった。ただ、確かめる勇気も、今の私にはなかった。もしセナに直接聞いたところで、きっとまた「なんとなく!」で返されるだけだろう。それに、これまでのところ、セナの助言のおかげで、嫌な思いをせずに済んだことばかりだった。文句を言う筋合いなんて、本当はないのかもしれない。
それでも、教室でいつも通り笑っているセナの顔を見るたびに、ほんの少しだけ、心のどこかがざわつくようになっていた。理由のわからない語感の違和感というのは、こんなにも落ち着かないものなんだと、このとき初めて知った気がする。
○
夢を見た。
小学校六年生の自分。塾のカバンを背負って、毎日、遅くまで机に向かっている。志望校は、地域でも名の知れた進学校。模試の判定は、いつも安定してA判定だった。両親も祖父母も、当たり前のように、僕が第一志望に受かるものだと信じていた。僕自身も、そう疑っていなかった。
「努力すれば、大抵のことは上手くいく」
そんな言葉が、当たり前のように、頭の中にあった。今まで、そうやって生きてきたから。勉強も、スポーツも、友達関係も、大きくつまずいたことなんて一度もなかった。この先もずっと、そうやって物事がうまく進んでいくものだと、根拠もなく信じ切っていた。
でも、受験の一か月前、急に熱が下がらなくなった。
最初は、ただの風邪だと思っていた。それが、日に日に悪化していく。咳が止まらず、息をするたびに胸の奥がひどく痛んだ。夜、布団の中で、呼吸が浅くなっていく感覚に、恐怖すら覚えた。病院に運び込まれて、診断されたのは肺炎だった。入院。点滴。何日も続く高熱。もうろうとする意識の中で、受験当日が過ぎていったことだけは、なんとなく覚えている。
天井の白い模様を、ぼんやりと数えていた記憶がある。両親の心配そうな顔。看護師さんの慌ただしい足音。それら全部が、ひどく遠いところで起きているみたいだった。
結局、第一志望には進めなかった。滑り止めで受けていた、それほど熱心に対策もしていなかった学校に、なんとなく流れ着くようにして進学することになった。
「努力すれば、大抵のことは上手くいく」――それまで信じていた言葉が、初めて、自分自身に対して嘘をついていたことに気づかされた瞬間だった。誰のせいでもない。ただ、身体が、思い通りにならなかっただけだった。それでも、その事実を受け止めるのには、少し時間がかかった。
それだけなら、まだよかった。
肺炎の治療は長引き、中学に上がってからも、しばらく通院が必要だった。週に何度も、同じ病院に通う日々。同級生たちが部活や友達付き合いに忙しくしている間、私は、消毒液の匂いがする待合室で、順番を待っていた。窓の外を歩いていく制服姿の中学生たちを、ガラス越しにぼんやり眺めることも多かった。自分だけが、みんなとは違う速度で、時間を過ごしているような気がした。
ある日、診察までの時間が空いて、病院の庭に出た。少し外の空気を吸いたい気分だった。
小さな中庭にはベンチがいくつかと、季節外れの花壇があった。誰もいない、静かな場所だった。木漏れ日が敷石の上に細かい模様を作っていた。
そこに、車椅子に乗った女の子がいた。
看護師さんがゆっくりと車椅子を押している。女の子はベンチの近くまで来ると、看護師さんに何かを言って、車椅子を止めさせた。
「ここでいいです、ありがとうございます」
そう言う声は、思っていたよりずっとしっかりしていた。年齢は、私と同じくらいだろうか。頬はやつれていたけれど、目だけは、やけに澄んで見えた。まるで、その目だけが、身体の他の部分とは違う時間を生きているみたいだった。
視線が、合った。
「あなたも、通院?」
そう声をかけられて、僕はなんと答えていいかわからず、ありのまま答えた。
「いえ、通院です」
「…そう。私は通院じゃなくて、入院してるの。もうずいぶん長く」
彼女はそう言って、少しだけ笑った。それは悲しそうな笑い方ではなく、むしろすべてを受け入れているような、不思議な穏やかさをたたえた笑顔だった。
「ここの庭、好きなんだ。季節が変わるのが、よくわかるから」
そう言って、花壇の方に目をやる。何を言えばいいのかわからず、私はただその横顔を見ていた。同い年くらいのはずなのに、彼女はまるで僕よりもずっと多くのことを知っているように見えた。
「私は、詩乃。よろしくね」
その名前だけがやけにはっきりと、頭の中に響いた。それから何を話したのかは、もう思い出せない。ただ、彼女の澄んだ目とあの声だけが、鮮明に焼きついていた。
*
そこで、目が覚めた。
天井を見つめながら、しばらく動けなかった。
また、変な夢を見た。
セナに渡してから、時計はもう手元にない。それなのに、こんな夢を見るのは、どうしてなんだろう。前に見た夢と同じ、誰かの記憶をなぞっているような、あの感覚がまだ残っていた。あのときは、もっと幼いころの夢だった。今回は、病院の庭。バラバラの光景のはずなのに、どちらも同じ誰かの人生の一部を覗き見ているような、そんな確信めいた感覚があった。
詩乃という名前が、頭から離れなかった。誰なのかまったく見当もつかない。それなのになぜか、とても大切な意味を持つ名前のような気がしてならなかった。
嫌な予感が、胸の奥にじわりと広がる。うまく言葉にできないけれど、この夢の続きを知ることがなんだか怖いような、そんな気持ちもあった。
理由のわからないその予感を抱えたまま、私はいつも通り制服に着替えて、家を出た。




