第26話 拒絶
その日、なんとなく、教室の空気がいつもと違う気がした。
「実音、お弁当少しいる? 多めに作ってきちゃって」
「え、いいの? ありがとう」
「全然、遠慮しなくていいから」
クラスメイトの一人が、実音にそう声をかけていた。別に、珍しい光景じゃないはずなのに、何か引っかかるものがあった。
「実音、シャー芯余ってるからあげようか?」
「あ、うん……ありがとう」
「困ったらいつでも言ってね」
また別の子が、そんな風に声をかけている。実音は、「大丈夫」「ありがとう」と、いつも通りの調子で返していた。それでも、その返し方のどこかに、微妙な硬さがあるように感じた。
なんだろう、この感じ。
普段の実音は、そこまで気を遣われるタイプじゃない。むしろ、周りが実音を頼ることの方が多いくらいだ。それなのに、今日は妙に、みんなが実音に気を配っている。
「実音、大丈夫? なんか疲れてる?」
私も、思わずそう聞いてみた。
「別に、普通だけど」
「そう? ならいいんだけど」
昼休み、いつもの三人でお弁当を広げても、実音の口数は、心なしか少なかった。セナが冗談を言っても、いつものような軽快な返しがなく、笑顔もどこかぎこちない。
「実音、なんか機嫌悪い?」
「別に、悪くないよ」
「ならいいんだけど、なんか元気なさそうだったから」
「気のせいだよ、たぶん」
そう言われてしまうと、それ以上は聞けなかった。セナも、私と同じことを感じたのか、ちらりとこちらに視線を送ってきた。何か言いたげだったけれど、結局、それ以上は何も言わなかった。
何かあったのかな。
そう思いはしたものの、何が原因なのか、まったく見当がつかなかった。実音の様子は、その日一日、ずっと少しだけ、いつもと違ったままだった。周りの生徒たちの気遣いも、放課後まで、ぽつぽつと続いていた。
その違和感の正体を、私はまだ、何も知らなかった。
○
「実音、ちょっといい?」
「え、なに、改まって」
実音は、少し戸惑った様子だった。今日一日、様子がおかしかったことは、私も薄々気づいていた。もしかして、と思う予感が、胸の奥でずっと燻っていた。
深呼吸してから、口を開く。
「ごめん、私のせいかも」
「……何が?」
言葉に詰まりながら、カラオケでのことを話した。
「昨日バスケ部とバレー部でカラオケに行ったんだけどさ。吉野先輩に話しかけられてちょっと緊張しちゃって、つい実音のことを話しちゃった」
「うん、どんなことを?」
「その、実音の父がパチンコによく行っていることとか」
実音の表情が一気にかたくなる。私もそれを感じて言い淀んでいるのを察したのか、実音は冷静を装う。
「うん、続けて」
「実音の家庭が生活保護だとか、そんなことを話しました」
話しているうちに、自分の声が、どんどん小さくなっていくのがわかった。
実音の顔から、みるみる表情が消えていった。目の前にいる実音が、いつもの実音じゃなくなっていくのが、はっきりとわかった。
「なんで?」
声が、震えていた。
「なんで知ってるの?」
その問いに、答えないわけにはいかなかった。
「最近、色々お悩み相談してたけど……」
言葉を選びながら、続ける。
「詩子と実音にも何かできないかなって思って、その経緯で知ったというか……」
正確には言えなかった。時計を使って、勝手に未来を覗いたことなんて、口にできるはずがない。それでも、伝えなければいけない気がして、曖昧なまま言葉を重ねた。
実音は、しばらく黙っていた。長い沈黙だった。廊下の向こうから、部活動の掛け声がかすかに聞こえてくる。それが、やけに遠くの世界の音のように感じられた。
「……なんで話しちゃうの?」
その一言が、今までのどんな言葉よりも重く響いた。
答えられなかった。
助けたかった。力になりたかった。そう思っていたはずなのに、結局は、自分が知ったことを、軽々しく口にしてしまっただけだった。実音が、ずっと誰にも言わずに抱えてきたことを、私が、勝手に外に漏らしてしまった。取り返しのつかないことをしてしまった、という感覚だけが、ゆっくりと胸の中に広がっていく。
私は何をしてしまったんだろう。
言い訳の言葉なんて、一つも出てこなかった。ただ、実音の顔を、まともに見ることができなかった。
「セナは考えなしに動くことがあるのは知ってるけど、最低限のラインみたいなのはきっちり守ってたと思うし、そういうことができるって思ってた」
黙りこくっていた私に続けて言う。
「セナがどういう経緯で知ったのかはこの際なんでもいいけど、私は今までの私の人生を不幸だとかは思ってない。それこそ、今日みたいに周りから気を遣われるような生活だとも思ってない。だからね」
俯いている私の顔を実音は覗き込む。
「こういうことは、ほんとにやめてほしい」
実音は、それだけ言って、私に背を向けた。感情を抑えたような、静かな声だった。それが、かえって胸に突き刺さった。
その背中に、私は、何も返せなかった。謝ることさえ、今はもう、意味のないことのように思えた。
実音の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。それを見送りながら、私は、その場から動くことができなかった。夕日に染まった廊下だけが、いつまでも、静かに私を照らしていた。




