第21話 日常と運動会
運動会当日は、朝から気持ちよく晴れていた。
グラウンドには、色とりどりの応援旗と、テント、放送席から流れる軽快な音楽。校門をくぐった瞬間から、学校中がいつもと違う空気に包まれているのがわかった。
「詩子、はやく着替えよ! 開会式始まっちゃう」
セナに急かされて、慌てて体操服に着替える。教室に戻ると、実音がクラス旗の最終チェックをしていた。
「これで完璧でしょ。うちのクラス、旗だけは自信あるから」
「たしかに、力作だよね」
文化祭と同様、私のクラスは小道具に本気を出すタイプのようだ。
三人でグラウンドに出ると、他クラスの応援団の声や、開会式を待つ生徒たちのざわめきが、あちこちから聞こえてくる。開会式の選手宣誓、準備体操。定番の流れが、粛々と進んでいった。
午前中の種目が始まると、私たちは日陰のテントに陣取って、次々に応援した。二人三脚は、実音のペアが転びかけながらも二位でゴール。綱引きは、うちのクラスが圧勝。そのたびに、テントの中は歓声で沸いた。
「実音、さっきの二人三脚、危なかったね」
「もう、途中で転びそうになったの、あれ絶対詩子のせいだから」
「いや、実音のペースが遅すぎたんじゃない?」
「そんなことないもん!」
そんな軽口を交わしながら、日差しの下で汗をかいている他クラスの生徒たちを眺めた。応援の声、笛の音、審判の旗が振られるたびに沸き起こる歓声。グラウンド全体が、一つの大きな生き物みたいに騒がしかった。
私自身も、クラス対抗のリレーに一区間だけ出場した。バトンを受け取って走り抜けるだけの、短い時間。それでも、走り終えた後の心地よい疲労感は、久しぶりに味わうものだった。
昼前には、部活対抗リレーが始まった。
「セナ、なにその格好!」
実音が、素っ頓狂な声を上げる。それもそのはず。セナは、バレーボールの球体のような着ぐるみを着て、スタートラインに立っていた。それなのにおでこから見えるタオル、おそらく頭にタオルをハチマキのように巻いており、真顔で気合十分といったところか。
「位置について。ヨーイ、ドン!」
それぞれの部活メンバーが飛び出す。
意外にもセナがリードするも、案の定セナは張り切りすぎて途中で転び、立ち上がれないながらも球体のままゴロゴロと、ほかの部活の走りを妨害しつつ、なんとか立て直して次走者へバトンをつないだ。もはや何でもありである。大爆笑不可避。
その後、バスケ部とサッカー部が横に並びレッグスルーとリフティングをするという舐めプをやりだしたのに加え、バレーボール部のまさかの猛追により、結果はまさかの三位だった。
「なにあれ、ほんと詩子、見た? あの走り方」
「見た見た、面白すぎ。というか走り方じゃなくて転がり方ね」
二人でひとしきり笑ってから、ふと、視線が先生の席の方に向いた。
そこに、いつもなら千夏先生がいたかもしれない。生徒たちの様子を、少し離れたところから眺めているような。
そういえば、先生がいないんだ。
そんな当たり前のことに、今さらのように気づいて、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「詩子、どうしたの? ぼーっとして」
「あ、ううん、何でもない」
実音の声に、意識がすっと引き戻される。次の種目のアナウンスが流れ、クラスメイトたちが一斉に立ち上がった。私も、それにつられるようにして立ち上がる。
寂しさは、まだそこにあった。それでも、ずっと立ち止まっていることは、もうなかった。
午後、種目一覧の紙をなんとなく眺めていたとき、あることに気づいた。
「あれ? セナ、借り物競争出ないの?」
去年、変な仮装まで用意して張り切っていたのを覚えている。セナはこの手の競技が、誰よりも好きなはずだった。
「あ、それもう詩子に言ったっけ。今回はパスするんだった」
軽い調子でそう返されて、私は「そうだったっけ」と、曖昧に頷いた。前にも同じようなやり取りをした気がする。それでも、それが正確にいつのことだったか、うまく思い出せなかった。頭の中に、ぽっかりと小さな空白があるみたいだった。
珍しいな、とだけ思って、それ以上は気にしなかった。放送席から、次の種目を呼びかけるアナウンスが響いていた。私たちは、テントの日陰から立ち上がって、また新しい歓声の中へと戻っていった。
○
運動会前日。時計の力の対象は、自分。期間は明日一日。悩みごとの相談で使うときとは、また違う緊張感があった。自分のことを見るのは、実はこれが4回目だった。
吉野先輩と近づけるかもしれない可能性を感じてから、これまでに3回使った。
1回目で吉野先輩が運動会で借り物競争と部活対抗リレーに出るのを確認した。
私が借り物競争に出てしまったら、先輩に「借りられる」役はできない。あくまで、走る側じゃなくて、借りられる側でいなきゃいけない。だから今回は、参加希望を出さなかった。詩子には「珍しいね」って言われたけど、理由なんて話せるわけがない。
2回目では吉野先輩が岩本先輩を連れて、ゴールに行ったのは確認した。多分岩本先輩なら、面白い人とか変わり者とか、そうじゃない可能性もあるけれど、先輩たちから相談を受けた際に聞いた岩本先輩は、そのような人柄だと感じられた。
3回目、吉野先輩が部活動の休憩で偶然出くわすようにして接点を増やしていったし、その際に吉野先輩に笑ってもらえるような会話をしていった。部活対抗リレーでバレーボールの着ぐるみを着ることが出来るように手配もした。
私が出来る最大限の行動はできたように思える。その結果が、この時計の使用で明らかになる。
流れ込んできた光景は、グラウンドの生徒用観客席、いすに座って応援している自分。そこへ、ジャージ姿の吉野先輩が駆け寄ってくる。手には、小さな紙切れ。借り物競争だ。
先輩が引いた紙に書かれているのは、たぶん「面白い人」とか、そういう類のお題。それで、先輩は私のところまで走ってきて、手を差し出す。周りがちょっとどよめいて、私は照れながらも先輩と一緒にゴールまで走る。
そこまで見えたところで、頭の芯がじんと痺れて、映像が途切れた。
――やった、これじゃん。
布団の中で、思わずガッツポーズをしてしまった。
当日は、朝から最高の天気だった。
部活対抗リレーでは、思いっきり張り切って転んだ。詩子と実音には笑われたけど、まあ、それはそれで楽しかったからいい。未来を見ていたら、あんな気合の入れ方も、もっと格好つけてやったかもしれない。でも、それはそれ、これはこれだ。
問題は、午後の借り物競争だった。
種目が始まると、私はテントの近くをうろうろしながら、それとなくグラウンドの様子を窺っていた。心臓が、朝からずっとそわそわしている。せっかく未来を知っているのに、こんなに緊張するなんて、我ながら現金なものだと思う。
「セナ、なにキョロキョロしてるの」
「いや、なんでもない、なんでもない」
実音の質問を適当にかわしながら、走者の列に、吉野先輩の姿を見つけた。バスケ部のジャージを着た、あの背の高い後ろ姿。間違いない。
スタートの合図と同時に、先輩が走り出す。中間地点で、紙を一枚引く。
私は、思わず息を止めていた。
先輩は、紙を見て、一瞬固まった。それから、辺りをきょろきょろと見渡し始める。私は、あえて視線を逸らさずに、その場に立っていた。
先輩と、目が合った。
心臓が、ドクンと跳ねる。知ってるはずなのに、こういうところは、ちゃんとドキドキするんだから困る。
先輩は、少し照れたような顔をして、まっすぐこちらへ走ってきた。
「あの、悪いんだけど、ちょっと一緒に来てもらえる?」
「え、私ですか?」
台本通りのセリフを、それでも初めて言うみたいに言ってみせる。周りの生徒たちから、小さなどよめきが起こった。
「やった、来た。この展開、知ってた!」
心の中で、思いっきりガッツポーズをする。表には出さないように、精一杯すました顔を作りながら。
先輩に手を引かれて、ゴールまで一緒に走った。周りの歓声が、いつもより遠くに聞こえた。手を握られたときの感触が、想像していたよりずっと大きくて、少し骨ばっていた。
ゴールした後、先輩は少し照れくさそうに「ありがとう、助かった」「いえいえ、また学校で!」と話して、他の走者と合流していった。それだけのやり取りだったけれど、私にとっては十分すぎるくらいの出来事だった。
未来を知っている私なら、こういうときも、変に緊張せずにちゃんと振る舞える。時計って、本当に便利すぎる。
これからも、こうやって、少しずつ、望んだ通りの未来に近づいていけたらいいな。そんなことを、ゴールテープを切りながら、ぼんやりと考えていた。
こんなに簡単に、望んでいたことが叶うなんて。この時計さえあれば、この先も、きっと大丈夫。そんな根拠のない自信だけが、胸の中でどんどん膨らんでいった。




