第18話 古高セナ
「詩子!」
セナだった。息を切らしながら、まっすぐにこちらへ向かってくる。わざわざ走ってきてくれたのか、頬が少し赤くなっていた。
「セナ……」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「久しぶり、元気だった? って、聞くのもなんか変か」
いつも通りの、軽い調子だった。それが今は、なんだかありがたかった。近くまで来ていたついでに寄ってみた、というようなことをセナは話していたけれど、本当は、心配して様子を見に来てくれたのだろうと思う。荷物になるからと言って、途中のスーパーで買ったらしいアイスまで持ってきてくれていた。
学校の様子や、来月の体育祭の話、セナが最近ハマっているという動画の話。特別なことなんて何もない、普通の会話が、しばらく続いた。他愛のないやり取りが、こんなにも心地よく感じられるなんて、思ってもいなかった。
セナが気を遣っているのか、千夏先生の話が何もなかった。
「ね、家に上がっていい?」
「え、うん。いいよ」
セナは、特に気負う様子もなく、当たり前のように家へ上がってきた。
「おじゃましまーす」
「!?ああ、セナさん、だったかな?」
「はい、お久しぶりです!お父さん」
「お父さん、私の部屋でちょっとだべるだけだけど、いいかな」
「もちろん」
作り笑顔だった。少し怒っているのかな。セナが帰った後の言い訳を少し考えておかなきゃな。
自分の部屋に通すと、セナはベッドの縁に腰かけて、部屋の中をぐるりと見渡した。カーテンがまだ薄暗く閉め切られたままだったことに気づいて、少し気まずくなる。
「一週間も休むとか珍しくない? 詩子、皆勤賞狙ってるタイプでしょ」
「あー、うん……ちょっと、色々あって」
誤魔化そうとしたけれど、うまく言葉が続かなかった。セナは、しばらく黙って私の顔を見ていた。その視線は、いつものからかうような目つきとは、少し違っていた。
「……なんかあったんでしょ」
短い一言だったけれど、そこには、深く踏み込みすぎないようにという、セナなりの気遣いが感じられた。
「詩子の顔、見ればわかるよ。ずっと一緒にいるんだから」
その言葉に、抑えていたものが、少しずつ緩んでいくのがわかった。ここ数日、誰にも言えずに、一人で抱え込んでいたことだった。父にも言えなかった。話せば、もっと父を心配させてしまう気がして。
でも、セナになら、話してもいいのかもしれない。そんな気持ちが、静かに胸の中で膨らんでいった。
「……千夏先生が、死んじゃってさ」
自分でも驚くくらい、あっさりと言葉が出た。一度口にしてしまうと、堰を切ったように、あの日から考えてきたことが、次々と溢れてきた。
「……交差点で、車に轢かれて。私を庇って」
セナの表情が一瞬固まった。千夏先生のことは、セナにとっては「詩子が親しくしてる先生」くらいの認識でしかなかったはずだ。それでも、その反応は真剣だった。
「私ってこういう星のもとに生まれちゃったのかなってさ。お母さんも私を産んで死んじゃったし、身の回りの大切な人たちが、みんな死んでいくのかなって思っちゃった」
言葉にした瞬間、目の奥が熱くなった。
「分かってる。偶然なんだって分かってる。どうしようもないことで、私なんかが変えられるはずのないことだって。けど、それでも、それでも…」
堪えていたものが、限界を迎えていた。視界の端から、世界が水滴の向こうへと滲み、歪んでいく。縁から溢れ出した雫が、顎の先から零れ落ちた。次第に肺から空気がうまく吐き出せず、喉の奥をヒューヒューと鳴らしていた。両手で顔を覆っても、指の隙間から押し殺せない嗚咽が漏れ出している。
「詩子……!」
セナは、それ以上何も聞かなかった。ただ黙って、私をそっと抱き寄せていた。私はセナの胸に顔をうずめ、子どものように泣きじゃくっていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「あ、りがと、う、、グズッ、セナ…」
涙が止まらなくて、うまく喋れなかった。セナも、無理に言葉をかけようとはしなかった。ただ、背中をさすってくれる手の温かさだけが、そこにあった。
少し落ち着いてから、私は、懐中時計のことを思い出した。
「そういえばさ、先生がよく分からないこと言っててさ」
「落ち着いて、言ってみてね」
セナは私の頭を撫でながらそう言った。
少し恥ずかしくて、撫でる手を払った。
「先生が死んじゃう直前にこれを貰ってね。なんか電池が切れなくて壊れない、未来の見える時計だとか」
「めちゃくちゃハイテクじゃん」
「でもね、これ見ていると、あの時のことを思い出しちゃうんだ。せっかく私が貰ったものだから、私が持っておくべきなんだろうけど」
ぽつりぽつりと話す私の言葉を、セナはただ静かに聞いていた。
ポケットから、木製の懐中時計を取り出す。
「……これ」
セナは、じっとそれを見つめた。
「なんか、変な時計だね」
「確かに、今時珍しいね。先生の、大事なものだったみたい」
セナは、しばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。
「これ、持ってるの辛いなら、私が預かろうか?」
「えっ……」
思いがけない申し出に、一瞬迷った。これは、先生が最後に、私に渡してくれたものだ。簡単に手放していいものなんだろうか。
でも、同時に、この時計を見るたびに、あの日の光景が蘇ってしまう。膝の上で力を失っていく先生の身体。冷たい雨。かすれた声。
それを思い出すと、セナの提案はとても魅力的だった。
「……お願いしてもいい?」
「うん。任せて」
セナは、あっさりとそう言って、時計を受け取った。その手つきに、ためらいはなかった。
「さっきスルーしたけど、これ本当に未来が見えるの?」
「うん、さっき使ってみたけど本当だったよ」
「へー。え、まじ?」
セナは、興味深そうに時計を色んな角度から眺めていた。
「まあ、使うかどうかは考えるけど。とりあえず預かっとくね」
そう言って、セナは時計をポケットにしまった。
「詩子、今日はもう休みな。無理して外出たんでしょ」
その通りだった。数日ぶりにまともに外へ出て、あちこち歩き回った疲れが、今になってどっと押し寄せてきていた。
素直に頷くと、セナは少し安心したように微笑んだ。また明日様子を見に来る、何かあったら連絡して――そう言い残して、セナは、少し照れくさそうに笑いながら部屋を出ていった。玄関のドアが閉まる音が、静かに響いた。
一人になった部屋は、いつもより広く感じられた。窓の外は、もうすっかり暗くなり始めている。カーテンの隙間から差し込んでいた朝の光は、今はもうどこにもなかった。
手元に、もう懐中時計はない。ずっと肌身離さず持っていたわけじゃないのに、それでも、少しだけ寂しかった。あの木の感触が、まだ手のひらに残っている気がする。先生が最後に握らせてくれたものが、もう自分の手元にないという事実に、改めて胸の奥が締め付けられた。
でも、同時に、こう思う自分もいた。
これでいいんだ、と。
私一人で抱えるには、あまりにも重すぎたから。あの時計を見るたびに、あの日の光景が蘇る。それに耐え続けるには、私はまだ、あまりにも弱すぎた。セナに預けたことで、少しだけ、肩の荷が下りたような気がした。
もちろん、これで千夏先生のことを忘れられるわけじゃない。悲しみが消えたわけでもない。それでも、今日一日で、色々なことがあった。
久しぶりに外に出て、あの交差点を渡って、コンビニで買い物をして、セナと話して、時計を渡した。あとセナが帰った後に、お父さんから「いきなり友達を呼ぶんじゃない!」的な小言を言われたりしたり。
考えてみれば、随分と長い一日だった。
ベッドに横になると、久しぶりに、身体の力が抜けていくのを感じた。瞼が、自然と重くなっていく。明日のことは、まだわからない。それでも、今日という日を、なんとか乗り越えられたことだけは、確かだった。
眠りに落ちる直前、ふと、先生の顔が頭に浮かんだ。悲しみとは少し違う、穏やかな気持ちで、その顔を思い出せたことに、自分でも少し驚いた。




