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ジュリエットにはなれなかった  作者: まぎこ


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17/31

第17話 一週間、一歩

土曜日の朝、目が覚める前に、夢を見ていた。


誰かが、息を吐きながら、坂道を駆け上がっていく。何不自由のない家族に囲まれて、勉強もスポーツも、大抵のことは思い通りになる。そんな、輝かしいくらい順調な子供時代の景色だった。それが誰の記憶なのか、自分自身のことなのか、それとも別の誰かのことなのか、目を開けたときにはもう、はっきりと思い出せなくなっていた。ただ、妙に胸の奥に残る夢だった。夢の中の景色は、自分が経験したこともないはずなのに、なぜか懐かしいような、奇妙な感覚だけが残っていた。



*



――変な夢。


そう思いながら、しばらく天井を見つめたまま動けなかった。


千夏先生が死んでから、もう何日経っただろう。あの日以来、ずっと学校には行っていない。曜日の感覚すら、あやふやになっていた。日曜も、月曜も、火曜も、大して変わらない一日として、過ぎていった気がする。父には「体調が悪い」とだけ伝えていた。父は心配そうな顔をしながらも、それ以上は何も聞いてこなかった。話したくないことがあるのだと、たぶん察してくれているのだと思う。


毎朝、父はそっと朝食を運んできてくれた。トーストや、卵焼き、時には好物のハンバーグまで。それでも、半分も食べられないまま、皿の上で冷めていくことがほとんどだった。


「無理に食べなくていいから」


そう言って、父はそっとドアを閉めて出ていく。その足音が遠ざかっていくのを、布団の中でじっと聞いていた。


制服は、クローゼットにかけたまま、一度も袖を通していない。歯を磨くことすら、今日はまだしていなかった。それどころか、昨日磨いたかどうかさえ、思い出せなかった。カーテンは閉め切ったまま。部屋の中は薄暗く、時計の秒針が動く音だけが、やけにはっきりと聞こえた。


セナと実音からは、何度もメッセージが届いていた。〈大丈夫? 心配してる〉〈無理しないでね、待ってるから〉。優しい言葉の一つ一つが、今はどうしてか、うまく受け止められなかった。返信を打とうとしても、指が止まってしまう。結局、既読すらつけないまま、画面を閉じることも多かった。


スマホの画面には、学校からの連絡や、クラスの連絡網の通知がいくつも届いていた。見る気になれず、また画面を伏せる。ベッドの脇に置いたまま、何時間も放置していることもあった。


千夏先生が死んだ。


その事実は、もう頭ではわかっている。目の前で、先生が動かなくなったのを、この目で見た。


それなのに、実感が全然湧かなかった。


つい一週間前には、屋上で一緒に踊っていたのに。手を取られた温かさを、今でもはっきり覚えているのに。


「先生は死んだ」ということと、「一週間前は生きていた」ということが、頭の中でどうしても噛み合わなかった。


枕元に置いた懐中時計に、視線を落とす。木製の、古びた時計。文字盤の針は、今もゆっくりと時を刻み続けていた。


先生は、もう動かないのに。


この時計だけが、当たり前のように動いていることが、なんだかひどく不自然に感じられた。捨ててしまいたいとは、思わなかった。かといって、触れるのも怖かった。ただ、じっと見つめることしかできなかった。何度も手に取ろうとしては、指先が触れる直前で止まる。そんなことを、この一週間、何度も繰り返していた。


先生が最後に伝えようとしていた言葉を、思い出す。電池切れのない、未来を見る時計。幸せになるとは限らない。使いこなしてほしい――意味のわからない言葉だった。あのときはそれどころではなかったし、今になって思い返しても、やっぱり意味がわからない。ただの譫言だったのかもしれない。それとも、何か大事なことだったのかもしれない。考えようとしても、頭の芯がぼんやりして、うまく像を結ばなかった。


明日、学校に行けば、先生がいるような気がした。数学の授業があって、廊下を歩けば会って、屋上に行けば、いつものように立っている。そんな錯覚が、頭から離れなかった。


でも、本当は、もういない。


布団から出られないまま、昼が過ぎていくのを、ただ天井を見上げて感じていた。


そんな日々が、何日も続いた。曜日の感覚はとっくに失われていたけれど、カレンダーを見ると、いつの間にか一週間近くが経とうとしていた。


食事は残すことが多くなった。父が心配して、好物ばかりを作ってくれるのに、箸をつける気力すら湧かない日もあった。歯を磨くことを忘れて、夜中にふと気づいて洗面所に立つこともあった。鏡に映る自分の顔は、いつもよりずっと血色が悪く見えた。時計を見ることさえ、いつからか怖くなっていた。


セナと実音からのメッセージは、それでも毎日届き続けていた。既読をつける勇気が出ないまま、通知だけが増えていく。心配をかけていることはわかっていた。それでも、どんな言葉を返せばいいのか、まるでわからなかった。


カーテンは、あの日からずっと閉め切ったままだった。外の光を見るのが、なんとなく怖かった。世界は、先生がいなくなっても、変わらず回り続けている。そのことを、実感として突きつけられるのが、嫌だったのかもしれない。


いつものように布団の中で天井を見上げていたとき、ふと、カーテンの隙間から、細い光が差し込んでいるのに気づいた。


しばらく、その光をぼんやりと眺めていた。


やがて、身体を起こし、カーテンにそっと手を伸ばす。指先で少しだけ隙間を広げると、思っていたよりもずっと眩しい朝の光が、部屋の中に差し込んできた。外では、いつも通りの町の景色が、変わらずそこにあった。


「……外、出ようかな」


誰に言うでもなく、そう呟いていた。


枕元の懐中時計を、そっと手に取った。


先生は、これを使いこなしてほしいと言っていた。試しに使ってみようか。そんな考えが頭をよぎる。指先が文字盤に触れる。


その瞬間、頭の中に一気に情報が流れ込んできた。


リビングで父と出会う。玄関を出て、日差しに目を細める自分。制服姿の学生たちとすれ違う、何度も通った住宅街。信号が赤に変わる、見慣れた交差点。コンビニの棚の前で、飲み物を選びながら悩む自分。紅茶とカフェオレを一本ずつレジに置く、自分の手。


それだけだった。断片的で、脈絡のない光景の羅列。まるで、早送りの映像を無理やり頭に流し込まれたような感覚だった。


息が、うまくできなかった。何が起きたのか、すぐには理解できなかった。ただ、頭の芯が、じんと痺れている。


これが、先生の言っていた、未来を見る力なのだろうか。


しばらく呆然としたあと、懐中時計を、そっと制服のポケットにしまった。試したくせに、答え合わせをするのが少し怖かった。それでも、部屋に置いていくことはできなかった。


一週間ぶりに、部屋のドアを開けた。廊下の空気が、やけに新鮮に感じられる。


リビングにいた父が、驚いたようにこちらを見た。


「詩子」

「……うん」

「どこ行くんだ?」

「ちょっと、外に」


それだけ答えると、父はしばらく私の顔を見つめたあと、小さく頷いた。


「そうか。気をつけてな」


少し朗らかにそう言って、それ以上、何も聞いてこなかった。理由も、行き先も。ただ、見送るように、静かに頷いてくれただけだった。その優しさが、今はありがたかった。


知っている。


玄関を開けると、眩しい日差しが飛び込んできた。目を細めながら、しばらくその場に立ち尽くす。こんなに強い光を浴びるのは、いつ以来だろう。


外の世界は、何事もなかったかのように動いていた。


道の向こうを、制服姿の学生たちが、笑いながら歩いていく。誰かの家からは、洗濯物を取り込む物音。宅配便のトラックが、路肩に停まっている。車が行き交い、犬の散歩をする人がいる。


知っている。


さっき、頭に流れ込んできた光景と、同じだった。心臓が、どくりと跳ねる。


先生が死んだのに。


世界は、こんなにも普通に、続いていた。誰もが、いつも通りの一日を過ごしている。そのことに、うまく実感が追いつかないまま、それでも足は、勝手に前へ進んでいった。


歩き出す。行く当てなんて、特になかった。ただ、少しでも家から離れたかった。


しばらく歩くうちに、見覚えのある交差点に差しかかった。


足が止まる。


信号が、赤だった。


これも、知っている。


さっきの光景の通りだった。目の前を、車が次々と通り過ぎていく。水しぶきを上げていたあの日の雨は、もう跡形もない。ただの、乾いたアスファルトが広がっているだけだった。


先生が、私を庇って倒れた場所。血が、雨に流されていった場所。


膝が、震えた。指先が、冷たくなっていく。


「詩子さん……無事、ですか」


耳の奥で、あの声が蘇る。息が、うまくできなかった。ここで、先生は死んだ。ここに立っているだけで、身体の芯が凍りついていくようだった。


このまま、帰ろうか。


そう思った、そのときだった。


信号が、青に変わった。


周りにいた人たちが、当たり前のように歩き出す。誰も、この場所で何があったかなんて知らない。ただの、日常の一部として、横断歩道を渡っていく。


私は、動けなかった。


それでも、足を、無理やり前に出した。


一歩。


震えながら、もう一歩。


膝が笑っている。心臓が、痛いくらいに脈打っている。それでも、止まらなかった。止まってしまったら、二度と歩けなくなる気がした。


先生は、この足で、私を助けてくれた。だったら、この足で、前に進むことくらいは、しなくちゃいけない気がした。理由なんて、うまく言葉にできない。ただ、そう思った。


三歩、四歩、五歩――足を止めずに、ただひたすらに前へ。気づけば、横断歩道を渡りきっていた。


振り返らずに、そのまま歩き続けた。行き先も決めずに歩いているうちに、見慣れたコンビニの看板が見えてきた。


自動ドアが開く音。冷房の効いた空気。店内に流れる、聞き覚えのある有線放送。


飲み物の棚の前に立つ。いつも飲んでいた紅茶にしようか。それとも、父の好きな緑茶にしようか。棚をじっと見つめながら、うんうんと悩む。


結局、いつもの紅茶を手に取った。ついでに、父が好きなカフェオレも、一本だけ買うことにした。


これも、知っている。


紅茶と、カフェオレ。さっき頭に流れ込んできた光景と、寸分違わず同じだった。手が、震え始めた。


この懐中時計、本物だ……。


レジに向かう。店員は、いつもと変わらない調子でバーコードを読み取り、袋に入れてくれた。


「ありがとうございました」


その一言に、思わず、


「……ありがとうございました」


と、同じ言葉を返してしまった。店員は、少し不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は何も言わなかった。


先生がいなくなっても、コンビニは変わらず営業している。店員は、変わらず仕事をしている。人は、変わらず飲み物を買っている。


その事実に、少しだけ、胸が痛んだ。世界は、私の悲しみとは関係なく、進んでいく。


でも、同時に、それに少しだけ救われている自分もいた。世界が続いているから、私も、こうしてここに立っていられる。


紅茶とカフェオレの入った袋を提げて、家までの道を歩いた。夕方が近づき、空が少しずつ橙色に染まり始めている。あの交差点をもう一度渡らなければいけないことに気づいて、少しだけ身構えたけれど、行きよりは、幾分か足取りが軽い気がした。


信号が青になるのを待つ間、ふと空を見上げた。夕焼けに染まった雲が、ゆっくりと形を変えていく。こんな景色を、ちゃんと見るのも久しぶりだった。


明日、また朝になるんだろうな。


そんなことを、ぼんやりと思った。学校に行けるかどうかは、まだわからない。先生のいない教室を、想像するだけで、また息が苦しくなる。


でも。


今日よりは、少しだけ、外に出られる気がした。


家の近くまで戻ってきたとき、前方から見覚えのある人影が駆け寄ってきた。


「詩子!」


セナだった。息を切らしながら、まっすぐにこちらへ向かってくる。


「セナ……」


それだけ言うのが、精一杯だった。

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