第16話 雨
開いたままの目は、何も映していない。
冷たい雨に打たれながら、私はその身体を、ただ抱きしめることしかできなかった。
周りで誰かが何かを叫んでいる。
それでも、何も聞こえなかった。
あの屋上で手を取られてから、まだ一週間しか経っていなかった。
手の中の懐中時計だけが、かすかに、まだ温かかった。
文化祭から一週間が経った。あの日から降り出した秋雨が、今日もしとしとと制服を濡らしている。傘を差しながら、私はいつもの帰り道を歩いていた。
思えば、色々なことがあった一年だった。ストーカーの恐怖に怯えていた春から夏。屋上で千夏先生と出会い、その悩みが解決したこと。急遽ジュリエット役を任された文化祭。台詞を必死に覚えた夜、リハーサルでの緊張、本番の高揚感。あの屋上でのダンス。
セナや実音との、他愛のないやり取りの数々も、頭の中を次々によぎっていく。高校三年間の間、ずっと一緒に過ごしてきた二人と、これからも変わらず笑い合っていられたら、それだけで十分だと思った。運動会の応援旗のこと。来月に迫った京都の修学旅行のこと。班をどうするか、まだちゃんと決めていなかった気がする。
来年は、もう三年生になる。その先には、卒業が待っている。セナや実音と、この学校で過ごせる時間にも、いつか終わりが来るのだと思うと、少しだけ寂しくなった。当たり前のように続いていくと思っていた毎日も、本当は限りあるものなのかもしれない。
残りの高校生活を、もっと大切に生きよう。ふと、そんなことを思った。今までより少しだけ前向きに、色々なことに挑戦してみてもいいかもしれない。文化祭を経験して、自分の中で何かが変わり始めている気がした。母の分まで、精一杯生きよう。柄にもなく、そんなことまで考えていた。明日からは、もう少し積極的に、色々なことに関わっていこう。そんな決意を、雨音を聞きながら、静かに胸の内で固めていた。
そんなことを考えながら歩いているうちに、いつもの交差点に差しかかっていた。信号はまだ赤だった。雨音に紛れて、車の走行音がやけに遠く聞こえる。傘を打つ雨粒の音を聞きながら、ぼんやりと、赤信号の光を見つめていた。
そのときだった。
背中に、強い力を感じた。
「え――」
体勢を崩し、身体が前のめりに投げ出される。とっさに支えようとした手が空を切り、視界が大きく傾いた。傘が手を離れ、くるくると宙を舞う。目の前を、水しぶきを上げながら、車が通り過ぎていく。
心臓が凍りついた。今の一瞬で、何かとんでもないことが起きたのだと、頭より先に身体が理解していた。
振り返ると、そこに千夏先生がいた。
先生は、車道に倒れ込んでいた。私を突き飛ばした反動のまま、避けきれなかったのだろう。雨で濡れたアスファルトの上、身体の一部が、明らかにおかしな角度に折れ曲がっている。降り続ける雨が、その周りをゆっくりと赤く染めていくのが見えた。
「――先生?」
声が、うまく出なかった。頭が真っ白で、何が起きているのか、うまく飲み込めない。
「詩子、さん……無事、ですか」
その声は、いつもよりずっと掠れていた。
「せ、先生! 大丈夫ですか、しっかりしてください!」
震える手で、先生の身体に触れる。雨に濡れているのか、それとも別の何かなのか、指先に伝わる感触に、うまく現実感が持てなかった。これは夢だ、次の瞬間には目が覚める、そんな都合のいい考えが頭をよぎるくらい、目の前の光景が信じられなかった。
「だれか! 誰か救急車を!」
叫ぶ私の声に、周りから人が集まってくる気配がした。誰かが携帯電話を取り出す音、悲鳴のような声。「大丈夫ですか」「動かさない方がいい」――そんな言葉が、あちこちから飛び交っている。それでも、すべてが遠くにしか聞こえなかった。目の前の先生の顔しか、見えていなかった。
「う、詩子さん……これを」
先生の手が、震えながら胸ポケットを探る。指先がうまく動かないのか、何度か失敗しながら、それでも取り出したのは、木製の懐中時計だった。震える手で、それを私の手に押しつける。硬く、それでいてどこか温かい手触りが、掌に伝わってきた。
「……この時計を」
「先生、何言ってるんですか。そんなことより、先生を助けなきゃ……! お願いだから、喋らないで」
「聞いて、ください」
先生は、それでも言葉を継いだ。息を吸うたびに、苦しそうに肩が震えている。それでも、必死に何かを伝えようとしているのが、痛いほど伝わってきた。
「この時計は……電池切れのない、未来を見る時計です。ただ、幸せになるとは、限りません。どうか、これを、使いこなし――」
その先の言葉は、続かなかった。
「先生? 先生、何の話ですか、意味わかんない、それより早く……」
先生が何を言っているのか、私にはまったく理解できなかった。未来を見る時計。そんな言葉だけが、頭の中に空虚に響いていた。
「先生っ……先生っ!」
何度呼びかけても、返事はなかった。目を開けたまま、先生はもう、何も答えてくれない。
「なんで、目、開けたままなのに……先生、聞こえてますよね? ねえ、返事してください」
膝の上で、先生の身体から、力が抜けていくのがわかった。それでも、まだ信じられなかった。眠っているだけだ、少し休めばまた、いつものように喋り出すはずだ。そんな根拠のない考えだけが、頭の中をぐるぐると回り続けていた。
サイレンの音が、雨の中を近づいてくる。誰かが私の肩に触れ、何かを言っている。それでも、うまく耳に入ってこなかった。
冷たい雨が、髪から頬を伝って落ちていく。それが雨なのか、それとも別のものなのか、自分でもわからなかった。私の手の中の懐中時計だけが、まだかすかに温かかった。
信号は、いつの間にか青に変わっていた。誰も、そこを渡ろうとする人はいなかった。




