第15話 後夜祭
体育館の外の広場では、集客数の発表や、アンケート結果に基づく催しの表彰が行われていた。夕闇の中、簡易ステージの上に立てられた照明が、暖かい橙色の光を辺りに広げている。生徒たちの熱気と、片付け途中の屋台から漂ってくる匂いが混ざり合って、独特の空気を作っていた。
「今年一番人気があったのはダンス部の『Dream in』でした!」
アナウンスに、周囲がわっと沸く。
「よっしゃー! さすが高月先輩!」
「二位はMr.FinEだって!」
「マジで? めちゃくちゃ盛り上がってたもんね」
続けて、司会の生徒が声を張り上げた。
「そして、演劇部門で来場者投票一位に選ばれたのは……二年D組『ロミオとジュリエット』です!」
「詩子、聞いた? 一位だって!」
セナが興奮した様子で私の腕を掴んでくる。
「え、うそ、ほんとに?」
「ほんとほんと! すごいじゃん!」
「詩子の演技のおかげだって、みんな言ってたよ」
「そんな、私だけじゃなくて、みんなで作った舞台だから」
「そういうとこも詩子らしいよね」
実音がそう言って笑った。
壇上では、代表として小山内と立石くんがトロフィーを受け取っていた。
「小山内、めっちゃ嬉しそうな顔してる」
「そりゃそうでしょ、あんなに頑張ってたんだから」
「あとで写真撮ろうよ、みんなで」
「いいね、それ」
周りではしゃぐセナと実音の声を聞きながら、私も嬉しいはずだった。それなのに、頭の中では、さっき見たドラムの音が、繰り返し鳴り続けていた。
先生、かっこよかったな。
「詩子、聞いてる? 打ち上げどうする、って話してたんだけど」
「あ、ごめん、なに?」
「もう、上の空じゃん」
「ごめんごめん、なんの話だっけ」
「打ち上げ、来週の土曜どうかって。詩子の予定聞いてたんだけど」
「あ、大丈夫、空いてると思う」
「ならよかった。ちゃんと話聞いてよね、もう」
そろそろキャンプファイヤーが始まる頃だった。周りは誰と踊るかで盛り上がっている。
「詩子はキャンプファイヤー行く?」
「うーん、ちょっと考える。先に少し、用事済ませてきていい?」
「用事? こんな時間に?」
「うん、すぐ戻るから」
セナと実音が不思議そうな顔をしたけれど、それ以上は聞いてこなかった。
一言だけ、伝えておきたかった。かっこよかった、と。それだけのことのはずだった。ただそれだけ伝えたら、すぐに戻ってくるつもりだった。
人混みを抜けて、屋上へ続く階段に向かう。一段一段、上るたびに、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。別に会いたいわけじゃない、ただ一言お礼を言いたいだけだ――そう自分に言い聞かせながら、それでも足取りは、思っていたよりずっと速かった。階段の踊り場から見える窓の外には、もうすっかり日が落ちた空が広がっていた。
文化祭中も、鍵は閉まっているはずだった。それでも、扉を押すと、思いのほかあっさりと開いた。
屋上に出ると、千夏先生が一人、夜空を見上げて立っていた。街の明かりと、下から響くキャンプファイヤーの炎の色が、遠くで滲むように輝いている。
「先生」
声をかけると、先生はゆっくりとこちらを振り向いた。少し驚いたような、それでいてどこか予期していたような、そんな表情だった。
「おや、本木さん。お疲れ様でした」
「かっこよかったです。ドラム、本当に、すごかったです」
先生は少し驚いたような顔をしたあと、目を細めた。
「ありがとうございます。本木さんこそ、あのジュリエット、見事でしたよ。一位に選ばれたのも、頷けます」
夜風が吹き抜ける。下からキャンプファイヤーの太鼓の音が、遠く小さく響いていた。
「今年も、終わっちゃいましたね」
「そうですね。準備は大変でしたけど……いい文化祭でした」
「大変だったの、先生も知ってるんですか」
「まあ、ドラムの練習も含めて、ここ二日は色々ありましたからね」
「先生も、楽しかったですか」
「ええ。ドラムなんて久しぶりだったので、少し緊張しましたけど、楽しかったですよ」
「意外です。先生、緊張なんてしてなさそうだったのに」
「そう見えているなら、それはそれで悪くないですね」
先生はそう言って、くすりと笑った。
「生徒たちも、みんな楽しそうでしたね」
「そうですね。本木さんも、含めて」
そう言われて、なんだか胸の奥がくすぐったくなった。二人とも、それ以上は言葉を継がずに、しばらく遠くの光を眺めていた。
下の広場から、太鼓を打つ音が響いてきた。薪が組まれた中央に火が入り、赤い炎がゆらゆらと立ち上っていく。屋上からでも、生徒たちの歓声がはっきりと聞こえてきた。夜風に乗って、煙のにおいがかすかに漂ってくる。
「始まりましたね、キャンプファイヤー」
「そうですね」
先生と並んで、しばらくその光景を眺めていた。誰かが音楽をかけたのか、下から賑やかな曲が流れてくる。踊りの輪ができているのが、ここからでも見えた。
「みんな楽しそうですね」
「ええ。ああいうの、私も学生の頃は好きでしたよ」
「先生も踊ったりしてたんですか」
「まあ、それなりに。若かったので」
先生はそう言って、懐かしむように目を細めた。
「今も十分若いと思いますけど」
「二十八ですから、もう若いとは言えないですよ」
「そんなことないと思いますけど」
「本木さんにそう言われると、少し照れますね」
そんなやり取りに、少しだけ肩の力が抜けた。
「先生は、誰かと踊らないんですか?」
なんとなく気になって、そう尋ねてみた。
「私を誘ってくれるような人は、生憎いませんね」
「そうなんですか、意外です」
「意外ですか?」
「なんとなく、先生ならすぐ誘われそうな気がしてました」
「買いかぶりすぎですよ」
先生はそう言って、少し困ったように笑った。
「本木さんは、踊らなくていいんですか?」
「私も、特に誘われてなくて」
「そうですか」
「はい」
しばらく、二人とも黙って下の光景を眺めていた。太鼓の音と、遠くの笑い声だけが、屋上まで届いていた。沈黙は気まずいものではなく、むしろ、このままずっと続いてほしいと思えるくらい、心地よいものだった。
「じゃあ」
先生が、少し間を置いてから続けた。
「私と、踊ってくれませんか?」
自分でも驚くくらい、素直に頷いていた。
「……喜んで」
そう答えると、先生は私の手を取った。手のひらから伝わる体温に、心臓が跳ねる。思っていたより大きくて、少し骨ばった手だった。それでも、不思議と怖くはなかった。
音楽なんて何もない、夜風だけが吹く屋上で、私たちはゆっくりと身体を揺らした。下から響くキャンプファイヤーの音も、遠くの喧騒も、いつの間にか意識の外に消えていた。世界に、この屋上と、二人だけしかいないような、そんな感覚だった。
「ちゃんと踊れてますかね、これ」
「大丈夫だと思います。誰も見てませんし」
「それもそうですね」
「音楽もあまり聞こえてこないのに、変な感じです」
「たしかに。でも、これはこれで、悪くないですね」
「はい、悪くないです」
くすりと笑い合う。何気ない会話なのに、その一つ一つがいつまでも覚えていたいと思えるくらい、大切に感じられた。手を握る力が、少しだけ強くなった気がした。それが自分の手なのか先生の手なのか、わからなかった。
夜空を見上げると、いつもより星がよく見える気がした。文化祭の照明もキャンプファイヤーの炎も、この屋上まではあまり届かない。だからこそ、二人だけの静かな世界にいるような、そんな錯覚を覚えた。
「星、綺麗ですね」
「本当ですね。こんなにゆっくり空を見たの、久しぶりかもしれません」
「私も、です」
「毎日忙しくしてると、こういう時間、案外取れないものですね」
「そうですね……今日は、取れてよかったです」
このまま時間が止まってしまえばいい。今日という日が、終わってほしくない。
そんな、柄にもないことを思うくらい、ただこうして隣にいることが、嬉しかった。手を離したくないと思う自分に、少しだけ戸惑いながら。
けれど、文化祭は、いつか必ず終わる。
そのときの私はまだ、そのことの本当の意味を、知らなかった。




