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第3話 蚊の王国

第3話 蚊の王国


 鉄の王国へ追放されてから二週間が過ぎていた。


 朝の光が離宮の大きな窓から差し込んでいる。


 エルサは柔らかな寝台の上で目を覚ました。


 白い天蓋。


 清潔なシーツ。


 窓辺には薄紫色の花。


 ほんのりと甘い香りが漂っている。


 最初は夢だと思った。


 だが何日経っても夢は覚めない。


 使用人たちは優しい。


 食事は温かい。


 誰も怒鳴らない。


 誰も命令しない。


 それが逆に落ち着かなかった。


「エルサ様、おはようございます」


 侍女のマリアが笑顔で入ってくる。


「おはようございます」


「今朝は蜂蜜入りのミルク粥と焼きたてのパンをご用意しております」


「ありがとうございます」


 食堂へ向かう。


 テーブルには白いクロスが敷かれていた。


 黄金色のパン。


 苺のジャム。


 半熟卵。


 香草入りのスープ。


 湯気が立ち上り、良い香りが鼻をくすぐる。


 以前の王国では冷えた残り物ばかりだった。


 エルサは戸惑いながらパンをちぎった。


 ふわりと湯気が立つ。


 柔らかい。


 思わず目を閉じる。


「美味しい……」


 その時だった。


 耳元で嫌な羽音がした。


 ぶぅん。


「きゃっ」


 反射的に肩をすくめる。


 小さな黒い虫が飛んでいた。


 蚊だった。


 鉄の王国へ来て初めて見る。


「蚊?」


 エルサは驚いた。


 マリアも困った顔をする。


「最近増えているんです」


「増えている?」


「はい」


 そこへ離宮の執事が慌てて入ってきた。


「殿下がお呼びです」


 嫌な予感がした。


 執務室へ向かうとアルベルトが地図を広げていた。


 黒い軍服姿。


 銀色の髪が朝日に光っている。


「体調はどうだ」


「もうだいぶ良くなりました」


「そうか」


 アルベルトは少しだけ表情を緩めた。


 それから地図を指差す。


「南部の村で問題が起きている」


「問題?」


「蚊だ」


 エルサは目を瞬かせた。


「蚊……ですか?」


「笑い事ではない」


 アルベルトは真面目だった。


「高熱を出す病が流行っている」


 騎士の一人が口を開く。


「村人の話では、異常な数の蚊が発生しているそうです」


 エルサは地図を見つめた。


 ふと気づく。


 その場所は昔、結界の端が存在していた地域だった。


 胸がざわつく。


「案内してください」


 馬車で向かった村は悲惨だった。


 湿った空気。


 草むらから響く羽音。


 村人たちは長袖を着込み、顔色が悪い。


 腕には赤い腫れが無数にあった。


「聖女様!」


 老人が駆け寄ってくる。


「助けてください」


「どうされましたか」


「子どもたちが熱を出して……」


 案内された家の中。


 幼い少女が汗だくで横になっていた。


 額は熱い。


 苦しそうな呼吸。


 窓辺には数匹の蚊が止まっている。


 エルサは眉をひそめた。


 異常だった。


 あまりにも多い。


 村の井戸へ向かう。


 その途中でアルベルトが聞いた。


「何かわかったのか」


「結界です」


「結界?」


「私のいた王国では結界が弱まっていました」


 エルサは空を見上げた。


「結界には魔物を防ぐだけではなく、生態系を安定させる力もあったのです」


 井戸の横には水の溜まった桶。


 放置されたバケツ。


 割れた壺。


 そこに大量の幼虫がいた。


 ぞっとするほど。


「ひどい……」


 エルサは呟いた。


 結界が弱まり、環境の均衡が崩れた。


 結果として蚊が爆発的に増えている。


 アルベルトが腕を組む。


「対策はあるか」


「あります」


 エルサは即答した。


 そして村人たちを集めた。


「皆さん、聞いてください」


 不安そうな顔が並ぶ。


「まず、水たまりをなくしましょう」


「水たまり?」


「植木鉢の受け皿、桶、壺、空き容器。蚊はそういう場所で増えます」


 村人たちは顔を見合わせた。


「そんなことで?」


「はい」


 エルサは優しく微笑む。


「小さなことが大切なんです」


 子どもたちも手伝い始めた。


 桶をひっくり返す。


 壺を片付ける。


 溜まった水を流す。


 アルベルトまで手伝っていた。


「殿下、軍服が汚れます」


「構わん」


 騎士たちが目を丸くする。


 王子が泥だらけになりながら作業していた。


 夕方になる頃には村の景色が変わっていた。


 そして最後にエルサは祈った。


 両手を組む。


 胸の奥にわずかな光が灯る。


 以前ほどではない。


 だが確かに存在する。


 温かい光。


 アルベルトが見守っていた。


 その視線には信頼があった。


 軽蔑も疑いもない。


 その瞬間だった。


 エルサの身体を淡い光が包む。


 空へ向かって広がる。


 優しい風が吹いた。


 村中を巡る光。


 羽音が消える。


 草が揺れる。


 村人たちが息を呑んだ。


「すごい……」


「蚊がいなくなった」


「本当に聖女様だ」


 歓声が上がる。


 感謝の言葉が飛び交う。


 その一つ一つがエルサの胸へ流れ込んでくる。


 温かい。


 優しい。


 忘れかけていた感覚。


 胸の奥の枯れた泉に、少しずつ水が戻ってくるようだった。


 帰り道。


 夕焼けが空を赤く染めていた。


 馬車の窓から黄金色の麦畑が見える。


「疲れたか」


 アルベルトが聞いた。


「少しだけ」


「無理をするな」


 短い言葉。


 だがそこには本当の心配があった。


 エルサは思わず笑った。


「ありがとうございます」


 アルベルトは少し照れたように視線を逸らす。


「礼を言われるほどのことではない」


 その横顔を見ていると、不思議と胸が温かくなる。


 窓の外では夏の風が吹いていた。


 そしてエルサはまだ知らない。


 その温かさこそが。


 失われた聖女の力を再び目覚めさせる、最初の光であることを。



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