第4話 冷徹王子の手
第4話 冷徹王子の手
最初に感じたのは、柔らかな温もりだった。
まるで春の日差しの中にいるような暖かさ。
次に鼻をくすぐったのは、清潔なシーツの香りと、かすかに漂う花の匂いだった。
エルサはゆっくりと瞼を開く。
見知らぬ天井。
白い天蓋。
磨き上げられた木製の家具。
大きな窓から差し込む朝の光。
どこかの貴族の屋敷だろうか。
ぼんやりとした頭で考える。
しかし次の瞬間、国境の豪雨が脳裏によみがえった。
婚約破棄。
追放。
泥水。
冷たい雨。
そして――。
「まだ死ぬな」
低い声。
銀色の髪。
知らない男。
そこまで思い出したところで、部屋の扉が開いた。
入ってきたのは年配の女性だった。
「お目覚めですか」
優しい声だった。
「ここは……」
「鉄の王国の離宮です」
エルサは息を呑んだ。
鉄の王国。
隣国最大の軍事国家。
戦場では冷酷無比と恐れられる国。
なぜ自分がそんな場所にいるのだろう。
「殿下があなたをお助けになったのです」
「殿下……」
「第二王子アルベルト様です」
その名前を聞いた瞬間、エルサは驚いた。
冷徹公爵。
鉄の王国最強の将軍。
鬼神のように強く、情け容赦がないという噂の人物だった。
そこへ再び扉が開いた。
部屋の空気が変わる。
長身の男が入ってきた。
銀色の髪。
鋭い青灰色の瞳。
黒い軍服。
まるで剣そのもののような雰囲気をまとっている。
だが不思議と怖くなかった。
「目が覚めたか」
低い声。
国境で聞いた声だった。
「あなたが……」
「アルベルトだ」
短い返事。
彼はベッドのそばへ歩いてきた。
そして医師に視線を向ける。
「状態は」
「熱は下がりました。ただ極度の衰弱状態です」
アルベルトは黙って頷いた。
それから椅子を引いて腰を下ろした。
「話せるか」
「はい……」
エルサは迷った。
だが隠す理由もない。
何もかも失ったのだから。
「私は……光の王国の聖女です」
「知っている」
「婚約破棄されました」
「そうか」
「追放されました」
「そうか」
アルベルトは否定もしない。
同情もしない。
ただ聞いていた。
だから逆に話しやすかった。
「結界が弱くなった責任を押し付けられて」
「……」
「無能だと言われました」
胸が痛む。
言葉にすると余計に苦しい。
「私にはもう力がありません」
「……」
「価値もありません」
沈黙。
窓の外で鳥が鳴いた。
エルサは俯いた。
「国にも必要とされませんでした」
「……」
「家族にも」
声が震える。
「婚約者にも」
涙が落ちた。
みっともない。
そう思った。
だが止まらなかった。
するとアルベルトが静かに口を開いた。
「君は勘違いしている」
エルサは顔を上げる。
「え?」
「価値がないと言ったな」
「……はい」
アルベルトは真っ直ぐに見つめてきた。
その視線から逃げられない。
「君が生きていることに価値がある」
エルサは理解できなかった。
頭が真っ白になる。
「何を……」
「そのままの意味だ」
「でも私は聖女として失格で……」
「だから何だ」
「力もなくて……」
「だから何だ」
アルベルトの声は揺るがなかった。
「人間の価値は能力で決まらない」
そんな言葉。
生まれて初めて聞いた。
エルサはただ呆然と見つめる。
するとアルベルトが立ち上がった。
「今日は休め」
「え?」
「話はそれだけだ」
本当にそれだけだった。
説教もしない。
命令もしない。
ただ部屋を出ていく。
その背中を見送りながら、エルサは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
翌日。
昼前になるとアルベルトがやってきた。
手には木箱を持っている。
「薬だ」
「ありがとうございます」
「飲め」
ぶっきらぼうだった。
だが箱の中には高価な薬草が並んでいる。
さらに翌日。
アルベルトは湯気の立つスープを持ってきた。
「厨房長が作った」
鶏肉と野菜のスープだった。
人参の甘い香り。
香草の爽やかな匂い。
一口飲む。
温かい。
胃の奥まで優しさが染み込んでいく。
「美味しいです」
「そうか」
アルベルトは少しだけ嬉しそうだった。
さらに翌日。
部屋に白い花が飾られていた。
「花?」
侍女が笑う。
「殿下が持ってこられました」
エルサは目を丸くした。
「殿下が?」
「毎朝、市場で選んでおられます」
信じられなかった。
戦場の鬼神と呼ばれる王子が。
花を選ぶ。
その姿を想像すると少し可笑しい。
数日後。
エルサは窓辺の椅子に座れるまで回復していた。
庭では薔薇が咲いている。
風が吹く。
花の香りが流れ込む。
そこへアルベルトがやってきた。
「顔色が良くなったな」
「おかげさまで」
「それは良かった」
彼は窓の外を見た。
少し沈黙が流れる。
だが不思議と居心地は悪くない。
「殿下」
「何だ」
「どうしてそこまでしてくださるのですか」
アルベルトは少し考えた。
それから当然のように答える。
「困っていたからだ」
「それだけですか」
「それだけだ」
エルサは思わず笑った。
本当に不器用な人だ。
だがその言葉に嘘はなかった。
見返りを求めない。
打算もない。
ただ助けたかったから助けた。
それだけ。
だからこそ胸に響く。
その時だった。
胸の奥で小さな光が灯った。
ぽうっと。
まるで消えかけていた蝋燭の火が蘇るように。
温かい。
優しい。
懐かしい。
愛を糧とする聖女の力。
長い間枯れかけていた泉。
そこへ一滴の水が落ちたようだった。
エルサはそっと胸に手を当てる。
まだ小さい。
けれど確かに存在している。
消えかけていた光。
失われたはずの希望。
それが少しずつ戻ってきていた。
窓の外では春風が薔薇を揺らしている。
そしてエルサはまだ知らない。
この小さな光がやがて世界を変えるほどの奇跡へ成長していくことを。
その始まりは。
冷徹だと恐れられた一人の王子の、不器用な手の温もりだった。




