第2話 雨の国境
第2話 雨の国境
夜会の大広間は光に満ちていた。
何百本もの蝋燭が巨大なシャンデリアを照らし、磨き上げられた大理石の床には金色の光が揺れている。
楽団の奏でる優雅な音楽。
甘い果実酒の香り。
焼きたての肉料理の匂い。
華やかな笑い声。
だがエルサだけは別の世界にいるようだった。
薄いクリーム色のドレスは何年も前に仕立てられたものだ。裾は何度も繕われ、袖口のレースも少し黄ばんでいる。
周囲の令嬢たちは新作のドレスに身を包み、宝石を競うように輝かせていた。
エルサは壁際で静かに立っていた。
体調は最悪だった。
朝から何度も眩暈がする。
胸の奥は空っぽだった。
魔力が底をつきかけている。
それでも聖女として出席しないわけにはいかなかった。
突然、楽団の演奏が止まった。
ざわり、と会場が揺れる。
階段の上にレナードが現れた。
その隣にはミリア。
深紅のドレスに身を包み、まるで勝者のような笑みを浮かべている。
嫌な予感がした。
胸が冷たくなる。
「皆の者、聞いてほしい」
レナードの声が響いた。
貴族たちが一斉に注目する。
「本日、私は重大な決断を下した」
レナードはエルサを見た。
冷たい瞳だった。
「聖女エルサとの婚約を破棄する」
静寂。
ほんの一瞬だけ。
次の瞬間、大広間はどよめきに包まれた。
「まあ!」
「婚約破棄ですって?」
「ついにか」
囁きが飛び交う。
エルサは立ち尽くした。
分かっていた。
いつかこうなると。
それでも胸は痛かった。
「理由は簡単だ」
レナードは言う。
「この女は無能だからだ」
笑い声が上がった。
「結界は弱まった」
「魔獣は増えた」
「王国は危機に陥っている」
「聖女として失格だ」
誰も反論しない。
誰も庇わない。
エルサはゆっくり会場を見回した。
そこには父もいた。
継母もいた。
家族がいた。
しかし目が合った瞬間、彼らは顔を背けた。
そして笑った。
まるで他人事のように。
胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
レナードはミリアの肩を抱く。
「そして新たな聖女を紹介しよう」
ミリアが一歩前へ出た。
誇らしげな笑顔。
「ミリア・フォン・ルーベンス」
「彼女こそ真の聖女である」
拍手が起きる。
会場は祝福ムードに包まれた。
エルサだけが取り残される。
まるで最初から存在しなかったかのように。
ミリアが近づいてきた。
香水の甘い匂いが鼻につく。
「お姉様」
耳元で囁く。
「全部、私のものになりましたわ」
エルサは何も言わなかった。
怒る気力も残っていない。
「婚約者も」
「聖女の座も」
「未来も」
ミリアは楽しそうに笑った。
「お姉様にはお似合いですもの」
「追放が」
その言葉に周囲の貴族たちまで笑った。
誰も止めない。
誰も。
レナードが告げる。
「エルサ」
「はい」
「本日をもって国外追放とする」
まるで罪人に言い渡すような口調だった。
「異論は?」
エルサは静かに首を振った。
「ございません」
それだけだった。
もう何も残っていない。
拍手が響く。
誰かが乾杯を叫んだ。
その音を最後に、エルサは大広間を後にした。
夜空には黒い雲が広がっていた。
王城の外へ出た瞬間、雨が降り始めた。
冷たい雨だった。
まるで世界そのものに拒絶されているような雨。
荷物は小さな鞄一つ。
中には着替えが一着。
母の形見のハンカチ。
それだけだった。
馬車に押し込まれる。
御者は一言も話さない。
馬車は夜の街を走った。
雨粒が窓を叩く。
王都の灯りが遠ざかる。
胸が苦しい。
熱い。
息が上手く吸えない。
結界を支え続けた反動。
魔力枯渇。
高熱。
視界が揺れる。
それでも誰も気づかない。
誰も心配しない。
数時間後。
馬車が止まった。
「降りろ」
国境だった。
雨はさらに激しくなっている。
雷鳴が轟く。
エルサは泥だらけの地面に降ろされた。
馬車はそのまま去っていく。
一度も振り返らず。
たった一人。
闇の中に残された。
足が震える。
歩こうとしても力が入らない。
膝をつく。
冷たい泥水がドレスを汚した。
雨が頬を打つ。
涙なのか雨なのか分からない。
「はは……」
笑いが漏れた。
おかしかった。
国のために生きてきた。
誰かのために祈ってきた。
眠れない夜も。
苦しい日々も。
全部耐えた。
なのに最後はこれだった。
ふと、幼い頃を思い出す。
父に頭を撫でてもらいたかった。
母に抱きしめてもらいたかった。
婚約者に愛されたかった。
ただそれだけだった。
それだけだったのに。
「少しだけ……」
声が震える。
「少しだけ……愛されたかったな……」
意識が遠のく。
身体が倒れる。
泥水の冷たささえ感じなくなる。
もういい。
もう疲れた。
その時だった。
遠くから馬の足音が聞こえた。
誰かが駆けてくる。
複数の人影。
「殿下!」
「人が倒れています!」
低い男の声。
次の瞬間。
誰かがエルサを抱き上げた。
広い胸だった。
濡れた外套から革と雨の匂いがする。
温かかった。
驚くほど。
ぼんやりと視界を開く。
銀色の髪。
鋭い瞳。
知らない男。
だがその目には軽蔑も嘲笑もなかった。
ただ心配そうな色だけがあった。
「ひどい熱だ」
男が呟く。
「医師を呼べ」
「すぐに城へ戻る」
誰かが慌てて動き出す。
エルサは震える唇で言った。
「……だいじょうぶ……です」
「大丈夫なものか」
男は眉をひそめた。
そして不器用な声で言う。
「まだ死ぬな」
その言葉は不思議なほど温かかった。
まるで凍えた心に灯る、小さな火のように。
エルサの意識はそこで途切れた。
だが最後に感じた温もりだけは、消えずに胸の奥へ残っていた。




