表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/12

第2話 雨の国境

第2話 雨の国境


 夜会の大広間は光に満ちていた。


 何百本もの蝋燭が巨大なシャンデリアを照らし、磨き上げられた大理石の床には金色の光が揺れている。


 楽団の奏でる優雅な音楽。


 甘い果実酒の香り。


 焼きたての肉料理の匂い。


 華やかな笑い声。


 だがエルサだけは別の世界にいるようだった。


 薄いクリーム色のドレスは何年も前に仕立てられたものだ。裾は何度も繕われ、袖口のレースも少し黄ばんでいる。


 周囲の令嬢たちは新作のドレスに身を包み、宝石を競うように輝かせていた。


 エルサは壁際で静かに立っていた。


 体調は最悪だった。


 朝から何度も眩暈がする。


 胸の奥は空っぽだった。


 魔力が底をつきかけている。


 それでも聖女として出席しないわけにはいかなかった。


 突然、楽団の演奏が止まった。


 ざわり、と会場が揺れる。


 階段の上にレナードが現れた。


 その隣にはミリア。


 深紅のドレスに身を包み、まるで勝者のような笑みを浮かべている。


 嫌な予感がした。


 胸が冷たくなる。


「皆の者、聞いてほしい」


 レナードの声が響いた。


 貴族たちが一斉に注目する。


「本日、私は重大な決断を下した」


 レナードはエルサを見た。


 冷たい瞳だった。


「聖女エルサとの婚約を破棄する」


 静寂。


 ほんの一瞬だけ。


 次の瞬間、大広間はどよめきに包まれた。


「まあ!」


「婚約破棄ですって?」


「ついにか」


 囁きが飛び交う。


 エルサは立ち尽くした。


 分かっていた。


 いつかこうなると。


 それでも胸は痛かった。


「理由は簡単だ」


 レナードは言う。


「この女は無能だからだ」


 笑い声が上がった。


「結界は弱まった」


「魔獣は増えた」


「王国は危機に陥っている」


「聖女として失格だ」


 誰も反論しない。


 誰も庇わない。


 エルサはゆっくり会場を見回した。


 そこには父もいた。


 継母もいた。


 家族がいた。


 しかし目が合った瞬間、彼らは顔を背けた。


 そして笑った。


 まるで他人事のように。


 胸の奥で何かが音を立てて崩れた。


 レナードはミリアの肩を抱く。


「そして新たな聖女を紹介しよう」


 ミリアが一歩前へ出た。


 誇らしげな笑顔。


「ミリア・フォン・ルーベンス」


「彼女こそ真の聖女である」


 拍手が起きる。


 会場は祝福ムードに包まれた。


 エルサだけが取り残される。


 まるで最初から存在しなかったかのように。


 ミリアが近づいてきた。


 香水の甘い匂いが鼻につく。


「お姉様」


 耳元で囁く。


「全部、私のものになりましたわ」


 エルサは何も言わなかった。


 怒る気力も残っていない。


「婚約者も」


「聖女の座も」


「未来も」


 ミリアは楽しそうに笑った。


「お姉様にはお似合いですもの」


「追放が」


 その言葉に周囲の貴族たちまで笑った。


 誰も止めない。


 誰も。


 レナードが告げる。


「エルサ」


「はい」


「本日をもって国外追放とする」


 まるで罪人に言い渡すような口調だった。


「異論は?」


 エルサは静かに首を振った。


「ございません」


 それだけだった。


 もう何も残っていない。


 拍手が響く。


 誰かが乾杯を叫んだ。


 その音を最後に、エルサは大広間を後にした。


 夜空には黒い雲が広がっていた。


 王城の外へ出た瞬間、雨が降り始めた。


 冷たい雨だった。


 まるで世界そのものに拒絶されているような雨。


 荷物は小さな鞄一つ。


 中には着替えが一着。


 母の形見のハンカチ。


 それだけだった。


 馬車に押し込まれる。


 御者は一言も話さない。


 馬車は夜の街を走った。


 雨粒が窓を叩く。


 王都の灯りが遠ざかる。


 胸が苦しい。


 熱い。


 息が上手く吸えない。


 結界を支え続けた反動。


 魔力枯渇。


 高熱。


 視界が揺れる。


 それでも誰も気づかない。


 誰も心配しない。


 数時間後。


 馬車が止まった。


「降りろ」


 国境だった。


 雨はさらに激しくなっている。


 雷鳴が轟く。


 エルサは泥だらけの地面に降ろされた。


 馬車はそのまま去っていく。


 一度も振り返らず。


 たった一人。


 闇の中に残された。


 足が震える。


 歩こうとしても力が入らない。


 膝をつく。


 冷たい泥水がドレスを汚した。


 雨が頬を打つ。


 涙なのか雨なのか分からない。


「はは……」


 笑いが漏れた。


 おかしかった。


 国のために生きてきた。


 誰かのために祈ってきた。


 眠れない夜も。


 苦しい日々も。


 全部耐えた。


 なのに最後はこれだった。


 ふと、幼い頃を思い出す。


 父に頭を撫でてもらいたかった。


 母に抱きしめてもらいたかった。


 婚約者に愛されたかった。


 ただそれだけだった。


 それだけだったのに。


「少しだけ……」


 声が震える。


「少しだけ……愛されたかったな……」


 意識が遠のく。


 身体が倒れる。


 泥水の冷たささえ感じなくなる。


 もういい。


 もう疲れた。


 その時だった。


 遠くから馬の足音が聞こえた。


 誰かが駆けてくる。


 複数の人影。


「殿下!」


「人が倒れています!」


 低い男の声。


 次の瞬間。


 誰かがエルサを抱き上げた。


 広い胸だった。


 濡れた外套から革と雨の匂いがする。


 温かかった。


 驚くほど。


 ぼんやりと視界を開く。


 銀色の髪。


 鋭い瞳。


 知らない男。


 だがその目には軽蔑も嘲笑もなかった。


 ただ心配そうな色だけがあった。


「ひどい熱だ」


 男が呟く。


「医師を呼べ」


「すぐに城へ戻る」


 誰かが慌てて動き出す。


 エルサは震える唇で言った。


「……だいじょうぶ……です」


「大丈夫なものか」


 男は眉をひそめた。


 そして不器用な声で言う。


「まだ死ぬな」


 その言葉は不思議なほど温かかった。


 まるで凍えた心に灯る、小さな火のように。


 エルサの意識はそこで途切れた。


 だが最後に感じた温もりだけは、消えずに胸の奥へ残っていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ