表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
買われた王子の忠誠が重すぎる件  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/25

第9話 王室会議


 資料の角が折れていた。


 何度も読み返したからだ。この一週間、条約の全十二条と婚姻法の関連条文を繰り返し読んだ。ページの端が指の油で少し透けている。


 雪の月の、朝。王室会議の日。


 西翼の大会議室。普段は入ることのない部屋だ。天井が高く、窓が大きく、長いテーブルの周りに椅子が並んでいる。椅子は硬い。座面が平らで、背もたれが真っ直ぐで、長時間座ると腰が痛くなるやつだ。窓ガラスが結露していた。雪の月の冷気と暖炉の熱がぶつかって、ガラスの表面に水滴が走っている。


 なぜ宮廷の椅子はどこも座り心地が悪いのだろう。東翼の執務室の椅子は自分で選んだから少しましだが、ここは無理だ。


 ——そんなことを考えている場合ではなかった。


 出席者が揃い始めた。


 父上——国王陛下が上座に着いた。五十代の穏やかな顔。判断は遅いが公正な人だ。迷いながら正しい答えを出す。それが美徳でもあり、もどかしさでもある。


 兄上が隣に座った。ルートヴィヒ。表情は平坦だった。私を見なかった。


 お姉様が向かいに座った。カミラお姉様。薄い微笑み。私と目が合うと、小さく頷いた。頑張ってね、という顔。


 フリードリヒが末席に座った。末の弟。十九歳。政治に関心の薄い子だが、王族として出席義務がある。少し眠そうだった。


 枢密院から長老が三名。ドレッセル卿、ハインツ卿、ヴェーバー卿。三人とも六十代以上。ドレッセル卿はカミラお姉様の社交圏に近い人物だとヨハンが言っていた。


 全員が座った。


 私は末席とその隣の間。フリードリヒの隣。資料を膝の上に置いた。


 父上が口を開いた。


「本日の議題は、第三王女アネリーゼの婚姻について。枢密院より審議の申し立てがあった。まず、申し立ての趣旨を聞く」


 ドレッセル卿が立った。


 白髪の、痩せた老人だった。声は通る。枢密院で三十年以上の経験がある人だ。


「陛下。第三王女殿下が講和条約に基づきレーヴェン公国第二王子を配偶者として迎えられたことは、条約上の手続きとしては有効と認めます。しかしながら」


 間を置いた。


「敗戦国の王子との婚姻は、ヴェルディア王室の品位と国民感情に照らし、適切であるかどうか。枢密院として懸念を表明いたします」


 品位。国民感情。


 予想していた論点だった。


「加えて、当該婚姻がいわゆる名目上のものであり、王室の婚姻として実体を伴っていないとの指摘も聞こえてまいります。王室の婚姻が形骸化することは、制度の信頼性を損ないかねません」


 名目上。形骸化。


 これも予想していた。


 ドレッセル卿が座った。兄上はテーブルの上の書類に目を落としたまま、何も言わなかった。お姉様は少し心配そうな顔をしていた。心配してくれているのだろう。


 父上が私を見た。


「アネリーゼ。反論があれば」


 立ち上がった。


 膝の上の資料を手に取った。角が折れた資料。一週間分の準備。


 深呼吸した。一回だけ。


「まず、品位と国民感情についてお答えします」


 声を保てたのは、練習したからだ。ヨハンの前で三回、鏡の前で二回。セレンには聞かせなかった。聞かせたら余計に緊張する。


「講和条約第七条の二に基づく婚姻条項の書き換えは、陛下のご承認とレーヴェン側外交代表の署名をもって成立しています。これは条約に定められた正式な手続きであり、品位を問うのであれば、条約そのものの品位を問うことになります」


 ドレッセル卿の眉がわずかに動いた。


「条約はヴェルディアが勝者として締結したものです。勝者が自ら締結した条約の手続きを、勝者が品位に反すると主張するのは、自己矛盾ではないでしょうか」


 これは前の世界の知識ではない。条約法の基本原則だ。この世界の法令集にも書いてある。「締約国は自ら署名した条約の条項を援用しつつ、同時にその条項の正当性を否認することはできない」。一週間かけて見つけた条文だ。


「国民感情については、復興事業の成果をもってお答えします」


 資料をめくった。数字を読み上げた。物資の輸送量。北部三郡への食糧支援。旧街道の修繕。教会区との連携。戦災孤児十四名の受け入れ。


 数字を読みながら、この数字の後ろに人がいることを忘れないようにした。マルテの顔が浮かんだ。木彫りの馬を抱えた小さな手。


「復興義務は条約第八条に定められた我が国の義務です。この義務を果たすうえで、セレン殿下の協力は不可欠でした。レーヴェンの地理、兵站の知識、現地の実情に通じた助言なしには、この成果は出ていません」


 一息ついた。


「国民感情に照らし不適切、というご指摘ですが、復興事業は条約上の義務の履行であり、その成果が国の信用を高めることはあっても、損なうことはないと考えます」


 座った。


 手が少し震えていた。テーブルの下で握りしめた。


 会議室が静かだった。


 ドレッセル卿がしばらく黙っていた。反論を準備している様子だったが、言葉を選んでいるように見えた。


 兄上が口を開いた。


「復興事業の成果は認める」


 予想外だった。兄上が成果を認めるとは思わなかった。


「だが、復興事業と婚姻は別の問題だ。事業の成果があるからといって、婚姻の妥当性が証明されるわけではない」


 正論だった。兄上はいつも正論を言う。


「婚姻は王室の制度であり、国益に資するかどうかで判断されるべきだ。この婚姻が国益に資するという証明が、復興事業の数字だけで十分とは思えない」


 反論を探した。兄上の論理に穴はない。婚姻と復興事業を結びつけているのは私の側であって、制度上は別の話だ。


「兄上のおっしゃる通り、婚姻と復興事業は制度上は別の問題です。ですが実態として、セレン殿下を人質のまま留め置くよりも、配偶者として迎えたことで、レーヴェンとの外交関係に安定化の兆しが見えています。国境の最近の沈静化も、この婚姻が一因です」


「それは推測だ」


「推測ではありますが、国境が不安定化するリスクと、婚姻を維持するコストを比較した場合、現時点では婚姻の維持が合理的です」


 兄上が黙った。


 反論がないのではなく、ここで続けても不毛だと判断したのだろう。兄上は無駄な議論をしない。


 お姉様は一言も発しなかった。心配そうに私を見ていた。少し唇を噛んでいるように見えた。妹のために心を痛めている姉の顔。


 フリードリヒが小さく頷いた。爪の端をかじっていた手を膝の下に隠した。私の主張に同意しているのか、単に頷く癖なのか分からなかったが、少しだけ心強かった。


 父上が場を見渡した。


「意見は出揃ったようだ」


 しばらく考えていた。


 長い間。


「婚姻は当面維持する」


 息を吐いた。止めていたことに気づいた。


「条約に基づく正式な手続きであること、復興事業に一定の成果があること、現時点で国益を損ねているとは認められないこと。以上の理由から、婚姻の解消は不要と判断する」


 勝った。


 ——いや。


「ただし」


 父上の声が続いた。


「婚姻が名ばかりであるという声は、陛下として無視できない。アネリーゼ」


「はい」


「ヴェルディアの婚姻法に則り、婚姻の実質を示してもらう必要がある。これは王室の制度を守るための条件だ。理解できるな」


「……はい、陛下」


 婚姻の実質。


 婚姻法を一週間読んだが、まだ全部は読み切れていない。「婚姻の実質」という言葉が何を意味するのか、正確には把握できていなかった。同衾のことか。それとも公式な宣誓か。条文の何条に該当するのか。


 聞き返すべきだった。でも、この場で「婚姻の実質とは何ですか」と問えば、自分の準備不足を露呈する。


 頷いた。


 あとで調べよう。ヨハンに頼めば、婚姻法の該当条文を見つけてくれるだろう。


「以上で本議題を閉じる」


 椅子が引かれる音が重なった。会議が終わった。


 西翼の廊下に出た。


 足が重かった。緊張が解けて、代わりに疲労が来ている。資料を抱えた手が少し痺れていた。ずっと握りしめていたからだ。


 廊下を東翼に向かって歩いた。


 角を曲がったところで、人影が見えた。


 セレンが壁に寄りかかっていた。


 腕を組んで、窓の外を見ている——ふりをしていた。こちらに気づいて、即座に体を起こした。待っていたのだ。ここで。会議の間ずっと。


「……結果は」


「維持です」


「そうか」


 短い返事だった。


 表情は変わらなかった。いつもの、感情の読めない顔。


 でも手が——。


 腕を組んでいた手を解いた時、拳が白くなっていた。爪が掌に食い込むほど握りしめていた跡。


 私は気づかなかった。


 気づかなかったのは、自分の疲労でいっぱいだったからだ。もう少し余裕があれば、セレンの手を見ていただろう。でも今は、自分が立っているだけで精一杯だった。


「ただ、条件がつきました」


「条件?」


「婚姻の実質を示せ、と父上が」


「……婚姻の実質」


 セレンの声が少し変わった気がした。低くなった。いつもの低さとは違う種類の。


「まだ正確に調べていないんです。婚姻法の何条に該当するのか。あとで確認します」


「……そうですか」


「大丈夫。条件をつけられただけで、否決はされなかったから。時間はあります」


 セレンが何か言いかけた。


 口を開いて、閉じた。


 何を言おうとしたのだろう。


「……殿下」


「はい?」


「お疲れでしょう。今日は早めに休んでください」


「セレンこそ」


「私は疲れていません」


 嘘だ。あの拳を見れば分かる。握りしめ続けた手が疲れていないはずがない。


 でも追及しなかった。私も嘘をついているから。大丈夫なんて、半分くらいしか本当ではない。


「じゃあ、また明日」


「……ええ」


 セレンが先に歩き出した。東翼へ向かう背中。背筋が伸びている。いつもの姿勢。肩に重さが乗っている——ように見えるのは、私の気のせいかもしれない。


 一人になった。


 廊下の窓から、雪の月の空が見えた。曇り。明日は冷えるだろう。


 婚姻の実質。


 帰ったら調べなくては。セレンに余計な心配をかけたくない。


 資料を抱え直した。角の折れたページが指に当たった。一週間分の準備。足りたのか足りなかったのか、まだ分からない。


 でもとりあえず、今日は終わった。


 セレンは、まだここにいる。


 それだけで、今は十分だと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ