第8話 嵐の前の食卓
国境は静かになった。
セレンの助言をもとに、ヴェルディア側が巡視隊の配置を調整した結果、レーヴェン側の動きも止まった。挑発に反応しない、という対応が功を奏したのか、あるいはディルク殿下の側で別の理由があったのか。どちらにせよ、霜の月の終わりにかけて国境は平穏を取り戻した。
平穏。
この言葉を信じてはいけないと、前の世界で学んだ気がする。でも今は、信じたかった。
昼下がり、東翼の中庭に出た。
子どもたちが走り回っていた。戦災孤児の十四人。到着から一ヶ月以上が経ち、宮殿の生活にも少しずつ慣れてきている。六歳のエーリクが石段を飛び降りて転んだ。泣かなかった。膝を払って、また走り出した。
ベンチにマルテが座っていた。
他の子どもたちの輪には入らず、一人で。いつものことだ。マルテは輪に入るのが苦手らしい。年齢は十歳で、子どもたちの中では年長の部類だが、一番静かだ。
マルテの視線の先を追った。
中庭の隅、石壁の前に、セレンがいた。
しゃがんでいた。手に小刀を持っている。もう片方の手に木の塊。何かを彫っている。
私は少し離れたところから見ていた。
セレンの横顔は集中している時の顔だった。書類の修正をしている時と同じ、眉間にわずかなしわ。ただし手元は書類の時ほど正確ではないらしい。何度か小刀を止めて、首をかしげて、また彫り直している。
しばらく見ていると、セレンが木の塊を持ち上げた。
馬だった。
小さな木彫りの馬。四本の脚と、たてがみと、尻尾。
出来は——正直に言えば、あまり上手くなかった。脚の太さが揃っていないし、鼻先が少し欠けている。たてがみは溝が浅くて毛の流れが見えない。
セレンはその馬を手のひらに載せて、しばらく眺めた。
それから立ち上がって、マルテのほうを向いた。
マルテの肩が少し強張った。まだ怖いのだ。セレンの気配に。
でも、逃げなかった。
一ヶ月前は壁に張り付いて目を逸らせなかった。今は、強張りながらも座ったままだ。
セレンがマルテの前に来た。一メートルほどの距離を開けて。近づきすぎない。この人は距離の取り方を心得ている。
木彫りの馬を差し出した。
何も言わなかった。
マルテが馬を見た。セレンの顔を見た。馬を見た。
手を伸ばした。
受け取った。
小さな手に、不格好な馬が収まった。鼻先の欠けた馬。
マルテが馬をじっと見ていた。
長い間。
「…………」
口が動いた。声はほとんど聞こえなかった。
「……セレン、様」
聞こえた。
私の場所からでも聞こえた。ほとんど吐息のような小さな声だったけれど。
セレンが固まった。
文字通り固まった。差し出した手をそのまま宙に残して、表情が消えた。この人が驚くとこうなるのだと、三ヶ月一緒にいて初めて知った。
マルテは馬を胸に抱えた。
「……ありがとう、ございます」
それだけ言って、ベンチから立ち上がって、走っていった。他の子どもたちの輪のほうに。馬を抱えたまま。
セレンは固まったまま、マルテの背中を見ていた。
私は笑った。
声に出して笑ったわけではない。口元を手で押さえて、肩が震えるのを堪えた。だって、あのセレンが——あの寡黙で不器用で表情の乏しいセレンが、子どもに名前を呼ばれただけで石のように固まっている。
セレンが私に気づいた。
目が合った。
「……見ていたのですか」
「見ていました」
「…………」
「良かったですね」
「……何がですか」
「マルテが、名前を呼んでくれたじゃないですか」
セレンは視線を逸らした。
「……鼻が欠けました」
「え?」
「馬の鼻です。彫りすぎた」
話を変えた。
私はまた笑いそうになった。堪えた。堪えきれなかったかもしれない。
夕食は四人で取った。
東翼の小さな食堂。私とセレンとヨハンとマルテ。他の子どもたちは別室で世話係と一緒に食べている。マルテだけは最近、こちらの食堂に来るようになった。最初に懐いたのが私だったから、私のそばにいたがる。
食卓にはパンと、根菜の煮込みと、焼いた川魚。パンは昨日の残りで少し硬い。昨日焼いた分が余ったのだろう。厨房もこの人数に慣れていないのだ。
マルテは木彫りの馬をテーブルの隅に置いて、両手で魚をほぐしていた。骨が多い魚だ。私が手を出そうとしたら、セレンが先に自分の皿の魚を骨ごとほぐして、マルテの皿に移した。
自然な動作だった。
マルテがちらりとセレンを見た。セレンは自分の別の魚に手を伸ばして、何事もなかったように食べ始めた。
ヨハンが黙ってパンをちぎっていた。何か言いたそうな顔をしていたが、黙っていた。珍しいことだ。
「ヨハン、どうしたの」
「いえ。なんでもないです。平和だなと思っただけです」
「平和だね」
「ええ」
ヨハンの声には、少しだけ別の色があった。平和だ、と言いながら、平和が続くとは思っていない声。長い付き合いで、そういうことが分かるようになった。
煮込みをすくった。温かい。
隣でセレンがパンをちぎった。硬いパンを力で割る。ぱき、と小さな音。その破片を——煮込みの皿に浸して、柔らかくしてから口に運んだ。
そのあと。
テーブルの上の果物の鉢に手を伸ばした。林檎が三つ、梨が二つ入っている。
セレンは梨を一つ取った。小刀で皮を剥いた。木彫りの馬を彫った時よりずっと手際がいい。薄い皮が途切れずに剥ける。切り分けて、私の皿に載せた。
黙って。
「あ」
声が出た。
梨。私の好きな果物。
覚えていたのだ。いつだったか——二週間前の食事で、梨が出た時に「これ好きなんです」と何気なく言った。それだけ。それを覚えていて、黙って皿に載せた。
セレンは知らん顔で自分の林檎を剥き始めた。
「……ありがとう」
「何がですか」
「梨」
「余っていたからです」
余っていたから。鉢には梨がもう一つ残っている。余っていたという言い訳が成り立たないこともないが、私の皿に載せる必要はなかった。
マルテが鼻先の欠けた馬をテーブルの隅から取って、膝の上に置いた。
四人の食卓。
名目上の夫と、その書記官と、戦災孤児の少女。家族ではない。何と呼べばいいのか分からない関係。でもこの食卓は、暖かかった。
このまま、ずっと続けばいいのに。
——続かない。
前の世界の知識がささやいた。政略結婚の平穏は、利害が一致している間だけ成り立つ。利害がずれた瞬間、すべてが動く。
余計なことを考えるな。今は梨を食べればいい。
甘かった。
食事が終わり、マルテを世話係に預け、ヨハンが下がった後。
私は執務室に戻った。セレンも一緒だった。最近は夜の仕事もセレンがいることが多い。
書類を広げたところで、侍従が来た。
「姫殿下にお届けものです」
封書を受け取った。宮廷の正式な書式。枢密院の印。
開けた。
読んだ。
読み返した。
「……セレン」
「何ですか」
「王室会議が召集されます。議題は——」
声が少し詰まった。
「第三王女の婚姻について、王室会議にて審議する」
セレンの手が止まった。
「誰が」
「枢密院から。でも——これはお姉様だと思います。枢密院にお姉様と近い方がいるから」
お姉様。
茶会の帰り際に聞いた声が蘇った。あの子の事業、もう少し調べておいて。
あれは情報収集だったのだ。興味ではなく。
——いや、分からない。お姉様が関与しているとは限らない。枢密院が独自に判断した可能性もある。
でもヨハンの声が頭の中で鳴っていた。心配されたのか、観察されたのか。
「殿下」
セレンの声は静かだった。
「対策を」
「うん。——うん。そうだ。対策を立てないと」
封書をテーブルに置いた。手が少し震えている。怖い。王室会議で婚姻を否決されたら、セレンは——条約第七条の三。婚姻が無効になれば、人質条項に差し戻される。鎖に戻る。
それだけは。
「条約の条文と、婚姻に関する法規を確認します。兄上が何を根拠に反対するか、予測しておかないと」
書棚に向かった。法令集を引き抜いた。今度は脚立に乗らなかった。低い棚にあったから。
「何を調べているのですか」
「条約と婚姻法。王室会議で問われるとしたら、婚姻の正当性か、復興事業との関連性か、どちらかだと思う。条約側は準備してあるから、婚姻法の側を固めないと」
法令集を開いた。ヴェルディア王国婚姻法。分厚い。なろうの文庫本五冊分くらいある。
——なろうの文庫本、というのは前の世界の単位だ。こちらでは通じない。
ページをめくった。婚姻の成立要件。国王の立会い。宣誓。既に満たしている。
婚姻の解消。離縁の要件。国王の承認と枢密院の同意。
婚姻の無効。
このあたりを詳しく読まなければ。どういう条件で無効を申し立てられるのか。
分厚い法令集の、細かい条文を追い始めた。今夜中に全部は読めない。でも関係しそうな箇所だけでも目を通しておきたい。
セレンが黙って隣に座った。自分の分の書類を片づけながら、時々私の手元を見ていた。
「殿下」
「うん?」
「……大丈夫ですか」
「大丈夫。負けるつもりはないから」
笑った。大丈夫なふりをした。セレンは信じていないだろう。この人は、私の強がりを見抜く。
でもいい。見抜かれても、やることは同じだ。
法令集のページをめくった。
婚姻無効の条文。第何条だろう。まだ見つけられない。条文の番号が飛んでいたり、但書が長かったりして、読みづらい。今夜中に全部は無理だ。明日も読む。会議までに間に合わせる。
隣でセレンが、冷めた茶をすすった。
苦い茶。私が入れすぎた茶葉の味。文句は言わなかった。
窓の外で、霜の月の最後の風が吹いていた。




