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買われた王子の忠誠が重すぎる件  作者: 秋月 もみじ


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第7話 国境の報せ


 報せは、朝食の席で聞いた。


 ヨハンが書類を持って食堂に入ってきた。普段なら食事時には来ない男だ。殿下が食べている間くらいは邪魔をするなという自分のルールがあるらしい。それを破ったということは、緊急だということだ。


「殿下。国境で動きがありました」


 アネリーゼ殿下がパンを置いた。


「動き?」


「レーヴェン側が国境付近で軍の移動を行っています。規模は小さいですが、ヴェルディアの巡視隊と小競り合いがあったと」


 俺の手が止まった。


 フォークを持ったまま、ヨハンの顔を見た。ヨハンは俺を見なかった。殿下だけを見ていた。当然だ。これはヴェルディアの国防問題であって、敵国の王子に報告する内容ではない。


 だが俺にはすぐに分かった。


 ディルクだ。


 兄がやりそうなことだった。国境付近に兵を動かして、ヴェルディア側の反応を見る。全面的な侵攻ではない。挑発だ。賠償金の支払い交渉を有利に進めるための、圧力。


 あるいは——。


 俺の身柄に関する布石かもしれなかった。


 殿下がヨハンの書類を受け取り、読み始めた。眉が寄る。読みながら何かを考えている。唇が小さく動いた。独り言の癖だ。


 俺は食事を続けた。味は分からなかった。


 昼過ぎ、自室に戻った。


 机の上に手紙が置かれていた。


 侍従が届けたのだろう。封蝋が目に入った。赤い蝋に押された紋章。山の稜線を象ったもの。


 レーヴェンの紋章だった。


 ただし王家の正紋ではない。私紋。見覚えのある紋だった。


 リヒト。


 俺の旧部下。第三遊撃隊の副官だった男。年は俺より二つ上で、俺が少年指揮官として前線に出た時から補佐してくれた。寡黙な男で、必要なことだけを言う。文章も同じだ。


 封を切った。


 短い手紙だった。


「殿下。お元気であることを祈ります」


 形式的な書き出し。リヒトらしい。


「レーヴェン国内の状況をお知らせします。ディルク殿下は国境付近の守備隊を増員しています。名目は領土保全ですが、実態は交渉圧力と思われます」


 予想通りだった。


「軍部では、殿下が賠償として差し出されたことに対する不満が根強く残っています。特にヴォルフ閣下は枢密会議の場で、ディルク殿下の判断に公然と異議を唱えられました。『有為の王族を差し出すのは国益に反する』と」


 ヴォルフ。


 老将だ。レーヴェン軍の柱と言っていい。先の戦争では総指揮を執り、敗北の責任を問われたが、軍部の支持が厚すぎて更迭できなかった。ディルクにとっては目の上の瘤だろう。


「帰還の機会があれば、軍部は殿下を歓迎するでしょう。少なくとも、ヴォルフ閣下とその周辺は」


 帰還。


 その言葉を、読み返した。


「以上、ご報告まで。どうかご自愛ください。 リヒト」


 手紙はそれだけだった。


 便箋を膝の上に置いた。封蝋に指を触れた。山の紋章。レーヴェンの山。冬になると雪を被る稜線。峠の風。乾いた空気。ここヴェルディアとは違う、硬い石の感触。


 帰れる。


 ヴォルフが動けば、ディルクの判断を覆すことは不可能ではない。軍部の支持を背景に、俺を呼び戻す政治的な道筋はある。


 だが。


 帰って、どうなる。


 ディルクの下で、再び駒として使われるだけだ。切り捨てた弟を呼び戻すのは、弟が必要になったからであって、弟を大切に思っているからではない。ヴォルフが俺を推すのも、俺が有能だからであって——。


 有能。


 褒められたことがないわけではなかった。戦場では。だが「有用だ」と「大切だ」は違う。


 ——セレン様、すごいですね。


 殿下の声が頭をよぎった。


 あれは何だったのか。あの時、俺の何を見て「すごい」と言ったのか。地図を読めるだけの人間を、あの女は——。


 手紙を裏返して机に置いた。


 返事は書かないことにした。書けば、どちらの立場で書くのか決めなくてはならない。まだ、決められなかった。


 翌日の午後、殿下が俺の部屋を訪ねてきた。


 珍しいことだった。普段は執務室で顔を合わせる。わざわざ俺の居室に来るのは初めてだ。


 扉を開けると、殿下が立っていた。書類を抱えている。いつものことだ。だが今日は、少し表情が硬い。


「セレン、少しいいですか」


「……どうぞ」


 部屋に入ってもらった。窓際の椅子を勧めた。殿下が座る前に、机の上のリヒトの手紙が目に入った。裏返して置いてある。封蝋の赤が見えている。


 殿下は気づいたかもしれないが、何も言わなかった。


「国境のことで相談があります」


「……はい」


「昨日の報告の続報が来ました。レーヴェン側の軍の移動は、規模は小さいけれど意図的なものらしい。ヴェルディアの巡視隊を試しているようだ、と」


「そうでしょうね」


「セレン」


 殿下が俺を見た。まっすぐに。


「レーヴェン側の事情を教えてほしいのです」


 来た。


 分かっていた。いずれこうなる。俺はレーヴェンの王子だ。国境で動きがあれば、俺に聞くのが最も手早い。殿下は合理的な人間だから、そういう判断をする。


 だが。


「私にそれを聞くのですか」


「あなたに聞かなければ、誰に聞けばいいのか分かりません」


「……私は、レーヴェンの王子です。敵国の情報を、あなたに渡すことになる」


「知っています」


 殿下が膝の上の書類を握りしめた。指先に力が入っている。


「あなたに辛いことを頼んでいるのは分かっています」


 頭を下げた。


 第三王女が、敵国の人質に頭を下げた。


 深く。書類が膝から滑り落ちそうになるほど深く。


「お願いします。私にはレーヴェンのことが分からない。ディルク殿下が何を考えているのか、国境の動きが何を意味するのか。あなたの知識が必要です」


 やめてくれ。


「……頭を上げてください」


 声が掠れた。


「上げてください、殿下」


 殿下が顔を上げた。目が合った。灰色がかった緑の目。真剣で、少し不安で、でも引く気のない目。


「私は」


 言った。


「あなたの、夫です」


 口から出た。考えるより先に。


「名目上は」


 付け加えた。付け加えなければ、自分が保てなかった。


「夫に助言を求めて、何がおかしいのですか。殿下が頭を下げる必要はない」


 殿下の目が丸くなった。


 少し間があった。


「……ありがとうございます」


 声が少し揺れた。殿下は滑り落ちかけた書類を拾い上げて、膝の上に戻した。指先がまだ震えている。この人は緊張していたのだ。俺に断られることを恐れて。


 敵国の王子に頭を下げて、断られたらどうするつもりだったのか。


 そこまでして、この人は何をしようとしているのか。


「ディルク——兄上の動きは、おそらく交渉圧力です」


 話し始めた。自分でも驚くほど自然に。


「全面的な侵攻の意図はない。兵力が足りない。ただ、国境付近に兵を見せることで、賠償金の交渉を有利に進めたい。あるいは——」


 少し迷った。


「あるいは、私の身柄に関して何かを企んでいる可能性がある」


「セレンの身柄?」


「条約第九条。重大な事情変更があれば再交渉を申し入れられる。国境の不安定化を事情変更の根拠にして、私の身柄の返還を要求する——そういう筋書きは、兄上なら考えます」


 殿下の顔が少し青くなった。


「返還」


「可能性の話です。まだ動いてはいない。ただ、備えは必要でしょう」


「……セレン」


「はい」


「帰りたいですか」


 静かな声だった。問い詰めているのではなかった。ただ聞いている。俺がどう答えても受け入れる用意のある声。


 帰りたいか。


 昨日、リヒトの手紙を読んだ時は分からなかった。


 今は——。


「帰る場所はありません」


 そう言った。


 嘘ではなかった。ディルクのもとに戻っても、俺に居場所はない。ヴォルフが推してくれても、それは俺の能力を買っているだけだ。


「では、ここにいてください」


 殿下が言った。


「私が——」


 言いかけて、飲み込んだ。


「この国が、あなたを必要としています」


 この国が。


 この国、と言った。私が、ではなく。


 だがその前に「私が」と言いかけたのを、俺は聞いた。聞き逃さなかった。


「……分かりました」


 それだけ答えた。


 殿下が小さく息を吐いた。安堵の息だ。書類を抱え直して、立ち上がった。


「ありがとう、セレン。国境の件、一緒に対策を考えましょう」


「……ええ」


 殿下が部屋を出ていった。扉が閉まった。


 一人になった。


 机の上の手紙が、裏返しのまま置いてある。赤い封蝋。山の紋章。


 帰る場所はない。


 ではここは何だ。


 ここが俺の場所だとは、まだ言えない。だがここには、俺を夫と呼ぶ人間がいる。頭を下げて助けを求め、俺の答えを待ってくれる人間がいる。


 それだけで十分かどうかは分からない。


 だが、足りないとも言えなかった。


 手紙を引き出しにしまった。返事は書かない。まだ書かない。


 窓の外で風が鳴っていた。レーヴェンの山の風とは違う、湿った低地の風。慣れなかった匂い。


 だが最近、この風の中に一つだけ知っている匂いがある。


 あの執務室の、インクと紙と苦い茶の匂いだ。


 立ち上がった。


 東翼へ向かった。対策を考えると、殿下が言ったのだ。ならば行かなければならない。


 ——行かなければならないから行く。それだけだ。


 それだけのはず、だ。

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