第6話 お姉様の微笑み
「久しぶりにお茶でもしましょう」
お姉様からの手紙が届いたのは、霜の月に入ってすぐのことだった。
薄桃色の便箋に、丸い字。お姉様の字はいつもきれいだ。私の字は右に流れる癖があるけれど、お姉様の字は真っ直ぐで、一文字一文字が揃っている。
「久しぶりにお茶でもしましょう。最近忙しいでしょうけれど、姉妹の時間も大事よ」
断る理由がなかった。
というより、断ろうと思わなかった。お姉様とは昔からこうだ。半年に一度くらい、ふと思い出したように声をかけてくれる。私が東翼に引きこもって書類にまみれていると、お姉様が「たまには出てきなさい」と言ってくれる。優しい人だ。
「殿下、行かれるんですか」
ヨハンが聞いた。
「うん。お姉様だし」
「……そうですか」
ヨハンの返事が少し間を置いたのは気になったが、深くは考えなかった。ヨハンはお姉様のことをあまり好いていない。理由は知らないが、子爵家の三男と第二王女では社交圏が違うから、単に接点がないだけだろう。
お姉様の居室は南翼にある。
日当たりの良い、広い部屋だ。窓際に小さなテーブルが置かれ、茶器が並んでいた。白地に金の縁取り。揃いの一客。カップもソーサーもポットも、すべて同じ窯のもの。こういうところに、お姉様の美意識が出る。
私の執務室にある茶器は、ヨハンが適当に揃えたばらばらのものだ。カップの柄が二つとも違う。気にしたことはなかったが、こうして見ると差が分かる。
「いらっしゃい、アネリーゼ」
お姉様が微笑んだ。蜂蜜色の巻き髪。白い肌。母上に似た顔立ち。二十五歳の姉は、いつ見ても綺麗だった。
「お招きありがとうございます、お姉様」
「堅いわね。座って座って」
向かい合って座った。侍女が茶を注いでくれた。香りの良い、花の茶。お姉様の好みだ。
菓子が出された。焼き菓子と砂糖漬けの果物。一口かじった。甘い。私にはちょっと甘すぎた。でもお姉様はこういう味が好きなのだ。
「元気にしている? 最近、全然顔を見ないから」
「すみません。東翼にこもりきりで」
「聞いてるわよ。復興事業でしょう? 忙しいのね」
「ええ、まあ。物資の輸送計画を作ったり、予算を申請したり」
「大変ね」
お姉様の声は柔らかかった。本当に心配してくれているのだと思った。
「あの方——セレン殿は、元気にしている?」
「はい。元気ですよ」
「大変でしょう。敵国のお方と暮らすの」
「大変ではないです。むしろ助かっています。仕事もできる方で」
「仕事?」
「復興事業の計画を手伝ってくれているんです。物資の輸送ルートとか、現地の地理に詳しくて。私が三日かかる修正を、十分で終わらせてくれるんですよ」
言ってから、少し喋りすぎたかもしれないと思った。お姉様に復興事業の話をしても退屈だろう。お姉様の世界は社交界で、条約の条文や輸送ルートの計算とは遠い。
だがお姉様は微笑んだまま聞いていた。
「そう。使えるのね、あの方」
「使えるというか……頼りになります」
「頼りに」
お姉様が茶碗を口に運んだ。ほんの少し間があった。一口飲んで、カップをソーサーに戻す。磁器が触れる、かすかな音。
「他にはどんなお仕事をしているの? あの方」
「子どもたちの受け入れも手伝ってくれています。戦災孤児の。まだ少し距離がありますけど、時間をかけて」
「孤児も? あなた、そんなことまでやっているの」
「条約第八条に復興義務がありますから」
お姉様が小さく笑った。
「あなたは昔からそうね。誰もやりたがらないことを拾って、条約だの義務だの言いながら、一人で抱え込む」
「一人ではないです。ヨハンもいますし、セレンも——セレン様も」
「あら、セレン。様なしで呼ぶこともあるの?」
しまった。
「時々、つい」
「ふうん」
お姉様の微笑みが、少しだけ深くなった気がした。からかわれたのだろうか。姉妹の会話ではよくあることだ。
「仲が良いのね」
「仲が良いというか、仕事仲間として」
「名目上の夫婦で、仕事仲間。面白い関係ね」
面白い、と言われた。確かに面白いかもしれない。普通の政略結婚とは形が違う。
お姉様がもう一口、茶を飲んだ。
「ねえ、アネリーゼ」
「はい」
「無理しすぎないでね。あなたは頑張り屋だから、倒れるまで気づかないでしょう。お姉ちゃんは心配なの」
優しい声だった。
こういう時、お姉様は本当に姉だと思う。四つ年上の、綺麗で、社交が上手で、私とは全然違う姉。でも時々こうして心配してくれる。
「ありがとうございます、お姉様」
「復興事業がうまくいくといいわね」
「頑張ります」
「あなたなら大丈夫よ。昔から、変わったことばかりするけど、ちゃんと形にする子だったもの」
褒められた。素直に嬉しかった。
お姉様に褒められることは多くない。社交界のことでは何も教わらなかった。ドレスの選び方も、扇の使い方も、私は全部ヨハンに聞いた。お姉様は教えてくれなかった。忙しかったのだろう。
でも今日は、ちゃんと話を聞いてくれた。復興事業の話まで。退屈だったかもしれないのに。
茶会は一時間ほどで終わった。
お姉様が「またいらっしゃい」と言ってくれた。頷いて、部屋を出た。
南翼の廊下を歩いて東翼へ戻る途中、お姉様の居室の角を曲がったあたりで声が聞こえた。
お姉様の声だった。少し離れた場所。扉の向こうか、隣室か。
「——あの子の事業、もう少し調べておいて。どこまで進んでいるか。予算がいくらついているか」
穏やかな声だった。お姉様の声はいつも穏やかだ。
「あと、あの王子のこと。何ができて、何をしているか。分かる範囲で」
侍女への指示だろう。返事の声は聞こえなかった。
私は少し立ち止まって、それからまた歩き出した。
お姉様が私の事業に興味を持ってくれたのだと思った。茶会で話したことが気になったのだろう。嬉しい。お姉様は社交の世界の人だから、実務の話にはあまり関心がないと思っていた。でも、聞いてくれた。調べてくれるとまで言っている。
足取りが軽くなった。
東翼に戻った。
執務室の前に、セレンがいた。
壁に寄りかかって、廊下の窓から外を見ている。もう見慣れた姿だ。この人は廊下にいることが多い。部屋より廊下のほうが落ち着くのかもしれない。
「ただいま戻りました」
「…………」
セレンがこちらを見た。
少し間があった。
「何かあったのか」
唐突な質問だった。
「え?」
「何かあったのかと聞いています。殿下の顔が」
「私の顔が?」
「……いえ」
セレンが言いかけて、やめた。視線を逸らした。窓の外へ。
「何でもない」
何でもない、と言う人は大抵何かある。でもそれはセレンに限った話ではないか。
「何もありませんよ? お姉様とお茶をしてきただけです。楽しかったです」
笑った。
セレンは窓の外を見たまま、少し眉を寄せた。
「……そうですか」
信じていない声だった。
なぜ信じないのだろう。本当に楽しかったのに。お姉様に復興事業の話を聞いてもらえたし、褒められたし、また来なさいと言ってもらえた。何も問題はない。
「セレン、何か気になることでも?」
「いいえ。何も」
二人とも「何もない」と言い合って、それで終わった。
執務室に入った。机の上にセレンが朝のうちに整理してくれた書類が積んであった。赤い修正線の入った輸送計画と、ヨハンが書き足した予算の注釈。
仕事に戻った。
椅子に座って、ペンを取って、書類を開いた。
何も問題はない。
なのに、セレンの「何かあったのか」がすこし引っかかっていた。私の顔が、何だったのだろう。言いかけて、やめた。
窓の外で、霜の月の風が木の葉を散らしていた。
お姉様の菓子の甘さが、まだ舌の奥に残っていた。




