第5話 名ばかりの夫の仕事
翌朝、執務室の扉を開けたら、セレン様がいた。
机の前ではない。窓際の椅子に座って、背筋を伸ばして、腕を組んで、こちらを見ていた。朝の光が斜めに差し込んでいて、銀灰色の髪に明るい筋が入っている。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
「……おはようございます」
「おはようございます、殿下」
「あの、なぜ私の執務室に」
「ヨハンに言われた」
ヨハン。
振り返ると、当のヨハンが廊下の向こうから書類を抱えて歩いてきた。目が合った。ヨハンは肩をすくめた。
「殿下、昨日セレン様にお願いしました。復興事業の手伝いを」
「え、本当に?」
「暇だと言われたので」
セレン様がぼそりと言った。少し不機嫌そうに聞こえたが、不機嫌なのか照れているのか、この人の場合は区別がつかない。
「ありがとうございます。でも、無理にとは言っていませんよ?」
「無理ではない。暇だったのは事実です」
暇だったから来た。それだけの理由。
——たぶん、それだけではないのだろうけれど。昨日の夕方、執務室で寝落ちした私のことをヨハンが話したのかもしれない。あるいはヨハンが「殿下が体を壊す前に」とか何とか言ったのかもしれない。ヨハンはそういう人だ。
まあいい。理由は何であれ、人手は欲しかった。
セレン様が仕事を始めた。
最初に渡したのは、物資輸送の詳細計画だった。南回りルート。リンベルク経由。セレン様自身が提案してくれたルートの、具体的な積荷量と日程の計算。
私が書いた計算を、セレン様は黙って読んだ。
ペンを手に取った。
赤い線が引かれた。
「ここ」
「はい?」
「荷馬車の台数が足りていない。この積荷量で二十台と書いてあるが、リンベルクの道幅を考えると一回の通行で並走できるのは二台まで。二十台を一列で通すと隊列が伸びすぎて、後方の荷が遅れる。十台ずつ二回に分けたほうがいい」
「……なるほど」
「それから、ここ。ヴァルデ河の渡河点。橋の補修が終わるまでの仮設渡河計画がない。筏を組むなら材木の調達が先で、それには最低五日は見ないと」
「五日」
「川幅と流速から逆算して。この季節なら水量は多くない。材木は対岸の林から切り出せるが、人手がいる」
淡々と話すセレン様の声を聞きながら、私はペンを走らせた。赤い線のあとを追いかけて、修正点を書き留めていく。
すごい。
単純にそう思った。
前の世界で物流の基礎概念は学んだ。でもそれは教科書の知識だ。道幅を考慮した隊列の組み方、渡河点の仮設計画、材木の調達にかかる日数。こういう判断は実地の経験がなければ出てこない。
「セレン様、すごいですね」
口に出た。考えるより先に。
セレン様の手が止まった。
ペンを持ったまま、少し固まった。
「……何がですか」
「今の全部です。私が三日かけても気づかなかった問題を、十分で全部見つけた」
「……地図を読めるだけです」
「地図を読めるだけの人は、材木の調達に五日かかるとは言いません」
セレン様が視線を逸らした。窓のほうを向いた。耳が——少し赤い気がしたが、光の加減かもしれない。
「過大評価です」
「適正評価です」
「……殿下は、人を褒めるのが好きなのですか」
「好きというか、すごいものをすごいと言っているだけです」
セレン様は何も答えなかった。
ペンに視線を戻して、次の修正点に赤い線を引いた。筆跡が几帳面だった。書類の欄外に走り書きした数字も整っている。軍の報告書を書き慣れた人の字だ。
ヨハンが隣室から覗いた。セレン様の書いた修正点を見て、眉を上げた。何か言おうとして、やめた。代わりに茶を淹れに行った。
午後、物資輸送の第一便の手配を進めていた。
問題が起きたのは、輸送許可の書類だった。
ヴェルディアから国外へ物資を運ぶには、通商省の輸送許可が必要になる。申請は一週間前に出してある。通常なら三日で下りる。
五日経っても下りなかった。
「遅いですね」
ヨハンが通商省に問い合わせた。返ってきた答えは「審査中」。
「審査中って、何を審査しているんですか。穀物と建材の輸送許可ですよ」
ヨハンが苛立っている。珍しい。この人は大抵のことには動じないのに。
「ルートヴィヒ殿下の息がかかった文官が通商省にいます」
セレン様が言った。低い声で、淡々と。
「妨害ですか」
「許可を遅延させれば、物資は出ない。物資が出なければ復興事業は止まる。正面から反対すると条約違反になるが、手続きの遅延なら言い訳が立つ」
言われてみれば、その通りだ。兄上は予算部会では直接止めなかった。「勝手にしろ」と言った。正面からは止めない。だが側面から——手続きの遅延という形で。
「……どうしましょう」
「ルートを変えます」
セレン様が地図を引き寄せた。
「通商省の輸送許可が必要なのは、公用街道を使う場合です。リンベルク経由の南回りルートは公用街道を通ります。だが、ヴァルデ河の西岸に沿って下る旧街道は公用指定されていない。旧街道を使えば、通商省の許可ではなく地方行政官の通行許可で済む」
「地方行政官の許可なら——」
「東翼の管轄です。殿下の復興事業室が直接出せる」
ヨハンが地図を覗き込んだ。
「旧街道。道の状態は」
「悪い。だが通れなくはない。荷馬車の速度は落ちるが、許可を待つよりは速い」
私はセレン様を見た。
この人は地図を引き寄せてから答えを出すまでに、三十秒もかかっていない。代替ルートの存在を知っていて、管轄の違いまで把握していて、即座に判断した。
軍人だ。前線で補給路を絶たれた時に、代替路を探す判断。それと同じことをしている。
「セレン様」
「何ですか」
「助かりました」
「……地図を読めるだけです」
また同じことを言った。
ヨハンが小さく笑った。「地図を読めるだけの人が、管轄の違いまでは把握していませんよ、セレン様」
様。
ヨハンがセレン様を「セレン殿」ではなく「セレン様」と呼んだ。いつから変わったのだろう。気づかなかった。でもヨハンは言葉の使い方に敏感な人だ。敬称を上げたということは、認めたということだ。
旧街道経由の通行許可を、その日のうちに私が発行した。翌日には第一便が出発する手配が整った。
通商省の文官が、後日「なぜ許可を通さなかった」と問い合わせてきた。ヨハンが「旧街道は公用街道ではありませんので、通商省の管轄外です」と丁寧に返した。文官は黙った。
夕方、廊下を歩いた。
セレン様が隣にいた。
執務室から食堂に向かう道だ。特に意味はない。同じ方向に歩いているだけだ。
すれ違った貴族が二人、足を止めた。こちらを見ている。声は聞こえなかったが、口の動きで何を言っているか、だいたい分かった。
あの人質を使っているのか。
いや、あれは夫だろう、名目上は。
セレン様も気づいているだろう。この人は周囲の視線に敏感だ。だが何も言わなかった。歩く速度も変えなかった。
「気にしますか」
聞いてみた。
「何をですか」
「宮廷の人たちの目」
「……慣れています」
慣れている。レーヴェンでも似たようなものだったのだろうか。
「私も慣れています」
「殿下が?」
「変わり者の王女ですから。昔からこうです」
セレン様が少しだけこちらを見た。横顔だけが見えた。何か言おうとして、やめた。
廊下の角を曲がった。夕日が窓から差し込んでいた。二人の影が石畳に伸びた。並んで歩いている影。
名目上の夫婦の影。
——でも、影だけ見たら、普通の夫婦に見えるかもしれない。
そんなことをぼんやり考えて、自分で少しおかしくなった。何を考えているのだろう。
夜が更けた。
セレン様がまだ執務室にいた。
第五稿の物資計算を手伝ってくれていた。ヨハンは先に下がった。「私は人間なので、日付が変わる前に寝ます」と言い残して。
私は茶を淹れに行った。
厨房はもう閉まっていたが、東翼の小さな給湯室にお湯は残っている。茶葉を入れて、二人分。
執務室に戻った。
セレン様は書類に向かっていた。燭台の明かりが横顔を照らしている。伏せた睫毛の影が頬に落ちていた。この人は明かりの下だと少し印象が変わる。昼間の鋭さが薄れて、ただ疲れた青年に見える。
茶を置いた。
「旦那様も休んでください」
言ってから、あ、と思った。
セレン様の手が止まった。
「……旦那様と呼ぶな」
低い声だった。怒っているのではない。だが、明確な拒否だった。
「名目だけの夫に、旦那様は不要です」
確かに、旦那様は少し踏み込みすぎたかもしれない。普段は「セレン様」と呼んでいる。旦那様、は食卓で冗談めかして使ったことがあるだけで、二人きりの夜の執務室で言う言葉ではなかった。
「すみません。じゃあ、セレン様。休んでください」
セレン様がこちらを見た。
少し間があった。
耳が赤かった。今度は光の加減ではない。燭台一つの暗い部屋で、確かに赤かった。
「……ありがとうございます」
茶を手に取った。
飲んだ。
「……苦い」
「あ、すみません。茶葉を入れすぎたかもしれません」
「いえ。苦いほうが目が覚める」
そう言って、もう一口飲んだ。
飲みながら書類に目を戻した。赤い耳のまま。
私も自分の茶を飲んだ。確かに苦い。入れすぎた。
二人で苦い茶を飲みながら、書類を片づけた。
会話はほとんどなかった。「ここの数字」「直しました」「次の頁」「はい」。それだけ。
でも、嫌ではなかった。
誰かと一緒に仕事をするのは久しぶりだった。ヨハンはいつも隣にいてくれるけれど、ヨハンとの仕事は「私が決めて、ヨハンが処理する」という流れだ。セレン様との仕事は違う。「私が見落としたものを、セレン様が見つける」。補い合うという言い方が近い。
気づいたら、日付が変わっていた。
「セレン、もう今日は——」
言いかけて、止まった。
セレン様。
様を落とした。無意識に。
セレン様が顔を上げた。
「…………」
「あ。すみません、セレン様」
「……いえ」
視線を逸らした。
耳が、まだ赤かった。
「……もう遅いです。殿下も休んでください」
「はい。セレン様も」
「……ええ」
セレン様が立ち上がった。茶碗を卓に置いた。空になっていた。苦い茶を全部飲んだらしい。
扉に向かいかけて、一度だけ振り返った。
「明日も、来ます」
それだけ言って、出ていった。
執務室に一人になった。
燭台の火が揺れていた。セレン様の筆跡が残った書類が、机の上に並んでいた。几帳面な字。赤い修正線。欄外の計算。
明日も来る、と言った。
それが嬉しかった。
嬉しかった理由は、人手が増えるからだ。そのはずだ。
——そのはずだ。
茶碗を片づけながら、廊下の窓から月を見た。
もう秋の半ばだ。
翌日の午後。
カミラお姉様の侍女とすれ違った。
侍女は私に丁寧に頭を下げて、通り過ぎた。その足が東翼の方角へ向かっていた。東翼には、私の執務室がある。
気にしすぎだろう。お姉様の侍女が東翼を通ることくらい、珍しくない。
夜、ヨハンが何気なく言った。
「そういえば今日、第二王女殿下の侍女が東翼をうろうろしていましたよ。セレン様が書類を運んでいるところを、じっと見ていました」
「……そう」
「殿下のお姉様は情報収集がお上手ですからね。気にすることではないと思いますが」
ヨハンの「気にすることではない」は、だいたい「気にしたほうがいい」の意味だ。
長い付き合いで、それくらいは分かる。
でも今は、お姉様のことより第五稿を仕上げるほうが先だ。
明日もセレン様が来る。
その前に、見落としを減らしておきたかった。あの人に修正されるのは助かるけれど、全部直されるのはさすがに少し悔しい。
ペンを取った。指先にインクがついた。
いつもの場所。右の中指。




