第4話 壊れた玩具
荷馬車が二台、東門から入ってきた。
収穫の月の、曇った朝だった。風がない。空気が重い。荷馬車の幌がだらりと垂れて、中が見えなかった。
俺は中庭の回廊から見ていた。アネリーゼ殿下とヨハンが東門の前に立っている。殿下は上着を一枚羽織っただけで、寒くないのだろうか。収穫の月とはいえ朝は冷える。
荷馬車が止まった。
幌が開いて、子どもたちが降りてきた。
十四人。
それが最初に見えたものだった。数を数えたのは軍人の癖だ。人数を確認し、年齢を推測し、健康状態を見る。六歳くらいの男の子。八歳か九歳の女の子。十二歳くらいの少年。
荷物が少なかった。
十四人の子どもが、それぞれ片手で持てる程度の包みしか持っていなかった。着の身着のままに近い。服はどれも洗い晒しで、繕った跡がある。一人の少女の靴底がすり減っているのが、回廊の上からでも見えた。
戦災孤児。
レーヴェン北部の教会区から、条約第八条に基づいてヴェルディアに引き渡された子どもたちだ。殿下が受け入れを決めた。名簿は数日前に届いていたはずだ。
俺は名簿を見ていない。見る理由がなかった。
殿下が子どもたちに近づいていった。しゃがんで、目線を合わせて、何かを話している。声はここまで届かない。だが子どもたちの何人かが頷いた。一人が泣き出した。殿下がその子の背中に手を置いた。
俺はそれを見ていた。
見ているだけだった。
昼前に、ヨハンが俺のところに来た。
「セレン殿」
「何か」
「孤児の受け入れ名簿です。殿下が、セレン殿にも共有しておきたいと」
書類を差し出された。
受け取るつもりはなかった。俺には関係がない。名目上の夫であっても、復興事業の正式な担当者ではない。南回りルートの件は口が滑っただけだ。
だが断る理由も見つからず、受け取った。
十四人の名前。年齢。出身地。
文字の羅列を目で追った。
三人目で、手が止まった。
マルテ、十歳、エルスト郡ホルン村。
エルスト。
知っている名前だった。
三年前。俺はまだ二十歳で、レーヴェンの第三遊撃隊を率いていた。ヴェルディア軍がエルスト峠の南側から侵攻してきた時、俺の部隊は峠の北側に展開した。峠を守るために。
守れなかった。
ヴェルディア軍の兵力は俺たちの三倍で、峠は二日で突破された。俺の部隊は撤退しながら、後方の村々に避難を呼びかけた。呼びかけたが、全員が逃げられたわけではない。
ホルン村。
その名前を、戦場報告書で見た記憶がある。被害のあった集落のひとつとして。
俺の部隊がホルン村を直接攻撃したわけではない。
だが峠を守れなかったから、ヴェルディア軍が通過した。村が焼かれたのか、戦闘の巻き添えだったのか、報告書の記載は曖昧だった。前線が動いている最中の報告書は、いつも曖昧だ。正確な被害が分かるのは、すべてが終わった後だ。
すべてが終わった後、俺は敗軍の王子として鎖をつけられ、この国に送られた。
そしてここに、ホルン村の子どもがいる。
確定ではない。俺の部隊のせいだとは限らない。ホルン村の被害がどの程度で、この子の両親がどう亡くなったか、俺は知らない。名簿に書いてあるのは名前と年齢と出身地だけだ。
だが、そんな区別に意味があるだろうか。
峠を守れなかった。それだけで十分だった。
午後、殿下が子どもたちを東翼の空き部屋に案内するのに、俺はなぜか同行していた。
なぜかというのは正確ではない。殿下が「セレン様もいらっしゃいますか」と言い、断る理由を見つけられなかっただけだ。
子どもたちは緊張していた。知らない国の、知らない建物。大人たちも知らない顔ばかりだ。何人かは怯えた目をしていたが、殿下が話しかけると少し和らいだ。
この人は、子どもの扱いが上手いわけではない。
上手いのではなく、怖がらせない。声が柔らかいとか、笑顔がいいとか、そういうことではなく——たぶん、嘘がないからだ。子どもはそういうことに敏感だと聞いたことがある。
部屋の割り振りが終わり、食事の準備が進んでいる間、俺は廊下に立っていた。殿下が部屋の中で侍女たちに指示を出している。ヨハンが寝具の追加を手配している。
廊下に、一人の子どもがいた。
靴底がすり減っていた少女。名簿の三行目。マルテ。
部屋に入らず、廊下の壁際に立っていた。他の子どもたちが部屋に入っていくのを見ているだけで、自分は動かない。
俺が数歩近づいた。
少女が俺を見た。
目が合った瞬間、少女の肩が跳ねた。
顔が強張った。目が見開かれた。唇が震えた。
怯えている。
俺を見て、怯えている。
レーヴェンの軍服は着ていない。ヴェルディアの衣装を与えられている。顔を知られているはずもない。俺は前線指揮官であって、村を回る兵士ではなかった。
だが——。
何だろう。歩き方か。立ち方か。背筋の伸ばし方か。人を見る時の目つきか。
軍人の気配。
この子は、それを覚えている。兵士がどういう空気を纏っているか。どういう音を立てて歩くか。
覚えていて当然だ。村に兵士が来た日のことを、忘れられるはずがない。
俺は足を止めた。
それ以上近づかなかった。
「…………」
何か言おうとした。大丈夫だ、と。怖くない、と。
だが、そんな言葉を俺が言う資格がない。怖がらせているのは俺だ。俺の——俺が持っている、壊す側の空気だ。
少女は壁に背をつけたまま、俺から目を逸らさなかった。逸らせないのだ。怖い相手から目を離せない。獣が捕食者を見るときと同じだ。
それを知っていることが、また。
「マルテ」
殿下の声がした。
部屋の中から出てきた殿下が、廊下の少女に気づいた。それから俺を見た。俺の足が止まっていること。少女が壁際にいること。その距離。
殿下はしゃがんだ。少女の前で。俺と少女の間に、自然に入る位置で。
「マルテ、お部屋に入らない? 寝台があるのよ。ふかふかの」
少女はまだ俺を見ていた。殿下の肩越しに。
殿下がそっと少女の視線を遮った。自分の顔を、少女の目の前に持っていって。
「大丈夫。ここは安全よ」
少女の肩から、少しだけ力が抜けた。殿下の手が少女の背中に触れた。そのまま、ゆっくりと部屋の方へ導いていった。
少女が部屋に入る直前に、殿下が振り返った。
俺を見た。
責める目ではなかった。怒りでもなかった。
「子どもは正直ですから」
静かな声だった。
「時間をかけましょう」
それだけ言って、殿下は少女と一緒に部屋に入っていった。
廊下に俺だけが残った。
時間をかけましょう。
殿下は「あなたのせいではない」とは言わなかった。「気にしないで」とも。ただ「時間をかけましょう」と。
あの少女が俺を怖がらなくなる日が来るのかどうか、分からない。来ないかもしれない。来なくても仕方がない。
廊下の壁に手をついた。
石灰岩の冷たさが手のひらに伝わった。
俺はここで何をしているのだろう。
人質ではない、と殿下は言った。夫だ、と。名目上の。
だが名目上の夫は、何をすればいい。敵国の王女の隣に立って、自分が壊した国の子どもたちに怯えられて、それでも笑っていればいいのか。
笑えない。笑い方を、もともと知らない。
日が暮れた。
子どもたちの夕食の準備が進んでいる頃、俺は東翼の廊下を歩いていた。自分の部屋に戻るつもりだった。
執務室の前を通りかかった。
扉は、いつものように半分開いていた。
中を覗くつもりはなかった。
だが、音がしなかった。
普段なら書類をめくる音か、ヨハンの声か、殿下の独り言が聞こえる。それがない。
足を止めた。
扉の隙間から中を見た。
殿下は机に突っ伏していた。
書類を枕にして、眠っていた。
右手にペンを握ったまま。インクが指についたまま。上着も脱がず、灯りもつけたままで。窓から冷たい風が入っていた。秋の夕暮れの風だ。
疲れたのだろう。
子どもたちの到着。部屋の手配。食事の準備。名簿の確認。侍女への指示。その合間に、おそらく復興計画の第五稿にも手をつけていた。一人で背負いすぎだ。
部屋に入った。
足音を殺した。前線での癖だ。
窓に近づいた。開いていた窓を閉めた。
それだけだった。
上着をかけてやろうかと思った。自分の外套を脱いで、肩にかけてやれば——。
手が止まった。
名目上の夫が、名目上の妻に上着をかける。
それは名目を超える。
超えたくないのか、と問われれば答えに窮する。だが今の俺にその資格はない。あの少女を怯えさせた人間が、その少女を引き取った女の肩に上着をかける。それは筋が通らない。
窓を閉めた。それだけでいい。
踵を返した。
部屋を出るとき、殿下が寝息を立てているのが聞こえた。規則正しい、浅い寝息。
この人は眠るときも忙しそうだと、場違いなことを考えた。
自分の部屋に戻る途中で、ヨハンと鉢合わせた。
書記官は書類を小脇に抱えて、疲れた顔をしていた。当然だ。殿下が倒れるまで働くなら、補佐官も同じだけ消耗する。
「セレン殿」
「……ああ」
「殿下は」
「執務室で寝ている。窓は閉めた」
「……ありがとうございます。よくあるんです。放っておくと朝まであのままなので、後で起こしに行きます」
よくあるらしい。
ヨハンが少し間を置いた。何かを言うかどうか迷っている顔だった。
「セレン殿」
「何だ」
「殿下の復興事業、人手が足りていません」
「……そうだろうな」
「南回りルートの件、助かりました。橋の情報も。殿下が一人で全部やろうとするから、私の手では追いつかない」
「……それは」
「あなた、暇でしょう」
暇。
確かに暇だった。名目上の夫は、名目上の仕事しかない。朝起きて、食事をして、廊下を歩いて、窓の外を見て。それだけだ。
「暇だからといって、私がその仕事をする理由はない」
「理由なら一つあります」
ヨハンの声は平坦だった。
「殿下が体を壊す前に、誰かが手伝わないと」
書記官は頭を下げて、執務室のほうへ歩いていった。殿下を起こしに行くのだろう。
廊下に一人残された。
また一人だ。
窓の外は暗かった。新品の燭台の明かりが廊下の石壁に揺れていた。
人質でもなく。夫でもなく。
では何なら、ここにいる理由になるのか。
ヨハンの言葉が頭に残った。
殿下が体を壊す前に。
あの女は放っておいたら本当に壊れる。あの働き方は異常だ。子どもたちの世話まで抱え込んで、計画書を書き直して、兄の反対を押しのけて、それで廊下で寝落ちする。
放っておけない。
——その感覚を、何と呼ぶのかは考えないことにした。
部屋に戻った。
寝台は相変わらず広すぎた。目を閉じた。天蓋が暗い。
少しだけ、暗さが怖くなくなっている。




