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買われた王子の忠誠が重すぎる件  作者: 秋月 もみじ


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3/25

第3話 旦那様の故郷ですから


 第四稿のインクが乾かない。


 書き終わったばかりの復興計画書を机の端に避けて、次の書類に手を伸ばした。指先にインクがついている。爪の横、右の中指。いつもここにつく。ペンの持ち方が悪いのだとヨハンに言われたことがある。直す気はない。


 南回りルート。ヴァルデ河沿いにリンベルク経由。


 セレン様が教えてくれた道だった。あの日、執務室の前を通りがかって——通りがかったふりをしていたのか、本当に通りがかったのかは分からないが——地図を見て、一言でルートの問題を指摘してくれた。エルスト峠は冬に閉まる。道が崩れている。南回りなら通年使える。


 第三稿までの私では気づけなかった。地図は読めても、その土地を歩いた人間の知識には敵わない。


 輸送ルートを引き直して、物資の量を再計算して、到着時期の見積もりを修正した。前の三稿より、ずっとましなものができたと思う。


「殿下」


 ヨハンが隣室から顔を出した。


「第四稿、出来ましたか」


「出来た。見て」


 ヨハンが計画書を受け取り、目を通した。ページをめくる。もう一度戻る。もう一度めくる。


「……南回りルート。これ、誰の案ですか」


「セレン様」


「ああ」


 ヨハンの眉が少し上がった。が、それ以上は聞かなかった。代わりに計画書をもう一度読み直して、頷いた。


「悪くないです。物資量の見積もりも前より現実的だ。これなら枢密院の予算部会に出せます」


「本当?」


「ただし」


 来た。ヨハンの「ただし」は長い。


「この計画の予算根拠は条約第八条の復興義務ですよね。条文には『一定の協力を行う義務を負う』とあるだけで、具体的な金額も期間も決まっていない。つまり、本気でやらなくても条約違反にはならない。形だけの協力で義務を果たしたと言い張ることも可能です」


「知ってる」


「知った上で本気でやるんですね」


「うん」


 ヨハンがため息をついた。慣れたため息だった。


「ルートヴィヒ殿下が黙っていないと思いますが」


 分かっている。


 兄上は、レーヴェンへの支援を「利敵行為」だと考えている。敗戦国に恩を売る必要はない、賠償金を取り立てて国力を削ぐのが正しい戦後処理だ、と。


 間違っているとは言い切れない。少なくとも、この世界の常識ではそちらが主流だ。


 でも。


 前の世界で学んだことが、頭の隅にずっとある。賠償で追い詰められた国が何をするか。報復の芽は、踏み潰すよりも先に、芽が出る土壌を変えたほうがいい。相互に依存する関係を作れば、戦争のコストが上がる。攻めるより繋がったほうが得だと思わせる。


 もっとも、それを兄上に言っても通じない。前の世界の話はできないし、仮にできたとしても「甘い」の一言で片づけられるだろう。


 だから条約の条文で戦う。


「予算部会の前に、兄上に話を通しておいたほうがいいかな」


「通しておかないと部会で潰されます。殿下のお兄様は枢密院に顔が利きますから」


「じゃあ今日行く」


「今日?」


「今日。インクが乾く前に」


 ヨハンが俺の指先を見た。インクがついたままだ。


「せめて手を洗ってからにしてください」


 兄上の執務室は西翼にある。


 東翼の私の執務室とは宮殿の反対側だ。物理的にも、立場的にも。兄上は次期国王として国政の中枢にいる。私は王位継承権のない第三王女として、誰も手をつけたがらない仕事を拾っている。


 廊下を歩きながら、計画書を胸に抱えた。第四稿。インクが乾ききっていないから、少し注意が必要だった。


 西翼に入ると空気が変わる。侍従の数が多い。歩く速度が速い。誰もが忙しそうで、誰もが立場を気にしている。東翼にいると忘れるが、ここが宮廷の中心だ。


 兄上の執務室の扉は閉まっていた。


 侍従に取り次ぎを頼んだ。少し待たされた。二杯分の茶を飲む時間。


「入れ」


 兄上の声。


 扉を開けた。


 ルートヴィヒ兄上は机に向かっていた。書類から目を上げず、ペンを置かず、私が椅子に座るのを待たなかった。


「用件は」


「レーヴェン北部の復興支援計画について、ご報告に上がりました」


「報告か。承認を求めに来たのではなく?」


「予算部会に提出する前に、兄上のご意見を伺いたいと思いまして」


 嘘ではない。意見を聞く気がないわけではない。ただ、意見を聞いた上で押し通す覚悟はできている。


 兄上がようやくペンを置いた。顔を上げた。


 ルートヴィヒ兄上は、私と似ていない。髪の色も目の色も違う。母上——王妃マルガレーテに似て、整った顔立ちをしている。二十八歳。有能で、決断が速く、国の安全を第一に考える人。


 悪い人ではない。ただ、私とは地図の読み方が違う。


「見せろ」


 計画書を渡した。


 兄上がページをめくった。表情は変わらなかった。二ページ目で少し目が止まった。三ページ目。四ページ目。ルートの図。予算の概算。


 五ページ目で、閉じた。


「アネリーゼ」


「はい」


「余計なことをするな」


 予想通りの言葉だった。声の温度も予想通り。怒っているのではない。面倒がっている。


「敵国に恩を売る必要はない。復興義務は形だけ果たせばいい。そのために人も金も割く余裕は、この国にはない」


「兄上」


「国境の守備に予算が必要だ。レーヴェンはまだ信用できない。あちらの王太子は賠償の支払いを遅延させている。そんな国の復興に、こちらが手を差し伸べる理由がどこにある」


 正論だった。


 この世界の常識では、完全な正論だ。


「条約第八条です」


「何?」


「条約第八条。『ヴェルディアはレーヴェン領内の戦災復興に一定の協力を行う義務を負う』。これは我が国が署名した条約です。形だけの協力では、条約の趣旨に反します」


「趣旨に反する、か。アネリーゼ、お前は条文を読むのが好きだな」


「好きというか、読まないと困りますので」


「条約は外交の道具だ。道具を持ち出して義務だと主張するのは自由だが、その義務を果たすために国庫を開く判断は、お前が下すものではない」


 そうだ。


 私には予算の決裁権がない。第三王女には、そんな権限はない。


 でも、計画書を書く権利はある。予算部会に提出する権利もある。そしてこの計画が条約に基づくものである限り、兄上にも握りつぶす根拠がない。


「兄上のおっしゃる通り、最終判断は私のものではありません。予算部会と枢密院、そして父上のご判断です。ですが、条約に基づく復興義務の具体案を準備するのは、誰かがやらなければならない仕事です」


「誰もやりたがらないから、お前がやっている。そういうことか」


「はい」


 兄上が少し間を置いた。


「……お前は昔からそうだ」


 何かを言いかけて、やめた。


 代わりに計画書を机に置いた。突き返すのではなく、置いた。


「勝手にしろ。ただし、予算部会で反対が出ても私は援護しない」


「承知しています」


「それと、あの人質——」


「夫です。名目上の」


「……あの男の入れ知恵か。南回りルートなど、現地を知らなければ出てこない」


 さすがに鋭い。


「セレン様に助言をいただきました」


「敵国の人間に国の復興計画を見せるな」


「夫に妻の仕事を見せただけです」


 兄上の眉が動いた。


 怒っているのか呆れているのか、その中間のような顔だった。


「条約か。夫か。お前は言葉の使い方だけは上手いな、アネリーゼ」


 褒められたわけではないだろう。


 私は計画書を受け取り、頭を下げて、執務室を出た。


 扉が閉まった。


 廊下に出て、息を吐いた。手が少し震えていた。兄上と話すのは、いつも少し緊張する。怒鳴られたわけではない。むしろ兄上は理性的な人だ。でも、あの人の前では自分の正しさが揺らぎそうになる。


 本当に正しいのか、と。


 分からない。


 でもやる。やらないよりはましだから。


 東翼に戻ると、執務室の前の廊下にセレン様がいた。


 壁に背を預けて、腕を組んで、窓の外を見ていた。何をしているのだろう。散歩だろうか。この人は時々、廊下にいる。部屋にいるのが落ち着かないのかもしれない。


「セレン様」


 声をかけた。


 セレン様が振り返った。


「……アネリーゼ殿下」


「お散歩ですか?」


「……いえ」


 違ったらしい。では何をしていたのか。聞いていいものか迷ったが、セレン様の目が計画書に向いた。


「それは」


「ああ、これ。第四稿です。セレン様に教えていただいた南回りルートを反映しました。兄上に見せてきたところです」


「……それで」


「勝手にしろ、と言われました。握りつぶされなかっただけ上出来です」


 セレン様が少し間を置いた。


「勝手にしろ、というのは許可ではないが」


「禁止でもありません。この国では、禁止されていないことはやっていいんです。多分」


 多分、は余計だった。でもセレン様は追及しなかった。


 代わりに、少しだけ不思議そうな顔をした。不思議そう、というのは正確ではないかもしれない。眉の角度がわずかに変わっただけだ。この人は表情が乏しいから、小さな変化を読むしかない。


「殿下」


「はい?」


「なぜ、私の国を助けるのですか」


 まっすぐ聞かれた。


 前にも聞かれた。執務室の前で、地図を見ながら。あの時は「条約に書いてあるから」と答えた。


 今回も、同じ答えを返すことはできた。嘘ではないから。


 でも、あの灰色がかった青い目に、同じ言葉を繰り返すのは違う気がした。


「条約の義務もあります。でもそれだけじゃなくて」


 少し考えた。言葉を探した。


「だって私の旦那様の故郷ですもの」


 言った。


「荒れたままでは、寝覚めが悪いでしょう?」


 セレン様が黙った。


 目が動いた。俺の——いや、この人の瞳の色が少しだけ変わったように見えた。警戒でも困惑でもない。何と呼べばいいのか分からない色。


「……旦那様」


 小さく繰り返した。俺を旦那様と呼ぶ人間はこの世界にいない、とでも言いたげだった。


「名目上の、ですけどね」


 付け加えた。


 セレン様はしばらく何も言わなかった。それから視線を逸らした。窓の外。中庭。落ち葉が風に巻かれて、石畳の上を転がっていた。


「……南回りルートの件ですが」


「はい?」


「リンベルクの手前に渡河点があります。橋が老朽化しているはずです。物資の重量によっては迂回が必要になる」


 話を変えた。


 旦那様の話はもう終わりらしい。


「橋の老朽化、なるほど。どのくらい古い橋ですか?」


「二十年以上前の建造です。石造りではなく木造。荷馬車二台分の幅しかない」


「じゃあ補修が必要ですね。それも計画に入れないと」


「……殿下は、そういう情報を私に聞いてもいいのですか」


「聞いてはいけない理由がありますか?」


「私は、あなたの国の敵だった人間です」


「夫ですよ」


「名目上の」


「名目上でも、夫は夫です。夫に相談して何が悪いんですか」


 セレン様が口を閉じた。


 反論を飲み込んだのか、反論がなかったのか。その区別はつかなかった。


 ただ、腕を組んでいた手が少しだけ緩んだのは見えた。


 執務室に戻ると、ヨハンが待っていた。


「殿下、手紙が届いています」


「誰から?」


「レーヴェン国境付近の教会区。戦災孤児の受け入れ要請です」


 封を開けた。


 手紙の文面は丁寧だが、紙が薄い。良い紙がないのだろう。戦争で物資が不足している地域からの手紙は、大抵そうだ。


 教会区の修道院が保護している戦災孤児のうち、収容限界を超えた分をヴェルディア側で引き取ってほしい、という内容だった。条約第八条の復興義務を根拠にしている。条文を調べて書いたのだろう。


 名簿が添えてあった。


 十四人。年齢は六歳から十二歳。出身地はレーヴェン北部の各地。


 名前と年齢と出身地だけが並んでいる。それだけの情報で、この子たちの何が分かるのか。


 でも逆に、それだけしか残っていないということでもある。


 マルテ、十歳、エルスト郡ホルン村。


 エルスト。


 さっき地図で見た地名だ。セレン様が「峠の手前の道は戦争で崩れている」と言った、あの場所。


「この子たち……」


 呟いた。


 ヨハンが覗き込んだ。


「受け入れますか」


「受け入れる。準備して」


「予算が」


「第八条」


「……それで全部押し通す気ですね」


 全部は押し通せない。でも、通せるところからやる。


 名簿をもう一度見た。十四人の名前。


 インクのついた指先で、紙の端に触れた。指紋がかすかについた。


 ——この子たちは、あの戦争で何を見たのだろう。


 セレン様がいた戦場の、反対側にいた子どもたちだ。


 受け入れたら、同じ屋根の下で暮らすことになる。名目上の夫と、その夫の故国の子どもたちと。


 複雑なことになる、と思った。


 でも、放っておけない。


 また、その理由だ。条約でも戦略でもなく、ただ放っておけないから動く。前の世界でも今の世界でも、私のこの部分だけは変わらない。


 計画書の上に手紙を重ねた。インクが乾ききっていない第四稿の隅に、孤児の名簿の角が触れた。


「ヨハン」


「はい」


「第五稿、書かないといけないかも」


 ヨハンが天井を仰いだ。

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