第3話 旦那様の故郷ですから
第四稿のインクが乾かない。
書き終わったばかりの復興計画書を机の端に避けて、次の書類に手を伸ばした。指先にインクがついている。爪の横、右の中指。いつもここにつく。ペンの持ち方が悪いのだとヨハンに言われたことがある。直す気はない。
南回りルート。ヴァルデ河沿いにリンベルク経由。
セレン様が教えてくれた道だった。あの日、執務室の前を通りがかって——通りがかったふりをしていたのか、本当に通りがかったのかは分からないが——地図を見て、一言でルートの問題を指摘してくれた。エルスト峠は冬に閉まる。道が崩れている。南回りなら通年使える。
第三稿までの私では気づけなかった。地図は読めても、その土地を歩いた人間の知識には敵わない。
輸送ルートを引き直して、物資の量を再計算して、到着時期の見積もりを修正した。前の三稿より、ずっとましなものができたと思う。
「殿下」
ヨハンが隣室から顔を出した。
「第四稿、出来ましたか」
「出来た。見て」
ヨハンが計画書を受け取り、目を通した。ページをめくる。もう一度戻る。もう一度めくる。
「……南回りルート。これ、誰の案ですか」
「セレン様」
「ああ」
ヨハンの眉が少し上がった。が、それ以上は聞かなかった。代わりに計画書をもう一度読み直して、頷いた。
「悪くないです。物資量の見積もりも前より現実的だ。これなら枢密院の予算部会に出せます」
「本当?」
「ただし」
来た。ヨハンの「ただし」は長い。
「この計画の予算根拠は条約第八条の復興義務ですよね。条文には『一定の協力を行う義務を負う』とあるだけで、具体的な金額も期間も決まっていない。つまり、本気でやらなくても条約違反にはならない。形だけの協力で義務を果たしたと言い張ることも可能です」
「知ってる」
「知った上で本気でやるんですね」
「うん」
ヨハンがため息をついた。慣れたため息だった。
「ルートヴィヒ殿下が黙っていないと思いますが」
分かっている。
兄上は、レーヴェンへの支援を「利敵行為」だと考えている。敗戦国に恩を売る必要はない、賠償金を取り立てて国力を削ぐのが正しい戦後処理だ、と。
間違っているとは言い切れない。少なくとも、この世界の常識ではそちらが主流だ。
でも。
前の世界で学んだことが、頭の隅にずっとある。賠償で追い詰められた国が何をするか。報復の芽は、踏み潰すよりも先に、芽が出る土壌を変えたほうがいい。相互に依存する関係を作れば、戦争のコストが上がる。攻めるより繋がったほうが得だと思わせる。
もっとも、それを兄上に言っても通じない。前の世界の話はできないし、仮にできたとしても「甘い」の一言で片づけられるだろう。
だから条約の条文で戦う。
「予算部会の前に、兄上に話を通しておいたほうがいいかな」
「通しておかないと部会で潰されます。殿下のお兄様は枢密院に顔が利きますから」
「じゃあ今日行く」
「今日?」
「今日。インクが乾く前に」
ヨハンが俺の指先を見た。インクがついたままだ。
「せめて手を洗ってからにしてください」
兄上の執務室は西翼にある。
東翼の私の執務室とは宮殿の反対側だ。物理的にも、立場的にも。兄上は次期国王として国政の中枢にいる。私は王位継承権のない第三王女として、誰も手をつけたがらない仕事を拾っている。
廊下を歩きながら、計画書を胸に抱えた。第四稿。インクが乾ききっていないから、少し注意が必要だった。
西翼に入ると空気が変わる。侍従の数が多い。歩く速度が速い。誰もが忙しそうで、誰もが立場を気にしている。東翼にいると忘れるが、ここが宮廷の中心だ。
兄上の執務室の扉は閉まっていた。
侍従に取り次ぎを頼んだ。少し待たされた。二杯分の茶を飲む時間。
「入れ」
兄上の声。
扉を開けた。
ルートヴィヒ兄上は机に向かっていた。書類から目を上げず、ペンを置かず、私が椅子に座るのを待たなかった。
「用件は」
「レーヴェン北部の復興支援計画について、ご報告に上がりました」
「報告か。承認を求めに来たのではなく?」
「予算部会に提出する前に、兄上のご意見を伺いたいと思いまして」
嘘ではない。意見を聞く気がないわけではない。ただ、意見を聞いた上で押し通す覚悟はできている。
兄上がようやくペンを置いた。顔を上げた。
ルートヴィヒ兄上は、私と似ていない。髪の色も目の色も違う。母上——王妃マルガレーテに似て、整った顔立ちをしている。二十八歳。有能で、決断が速く、国の安全を第一に考える人。
悪い人ではない。ただ、私とは地図の読み方が違う。
「見せろ」
計画書を渡した。
兄上がページをめくった。表情は変わらなかった。二ページ目で少し目が止まった。三ページ目。四ページ目。ルートの図。予算の概算。
五ページ目で、閉じた。
「アネリーゼ」
「はい」
「余計なことをするな」
予想通りの言葉だった。声の温度も予想通り。怒っているのではない。面倒がっている。
「敵国に恩を売る必要はない。復興義務は形だけ果たせばいい。そのために人も金も割く余裕は、この国にはない」
「兄上」
「国境の守備に予算が必要だ。レーヴェンはまだ信用できない。あちらの王太子は賠償の支払いを遅延させている。そんな国の復興に、こちらが手を差し伸べる理由がどこにある」
正論だった。
この世界の常識では、完全な正論だ。
「条約第八条です」
「何?」
「条約第八条。『ヴェルディアはレーヴェン領内の戦災復興に一定の協力を行う義務を負う』。これは我が国が署名した条約です。形だけの協力では、条約の趣旨に反します」
「趣旨に反する、か。アネリーゼ、お前は条文を読むのが好きだな」
「好きというか、読まないと困りますので」
「条約は外交の道具だ。道具を持ち出して義務だと主張するのは自由だが、その義務を果たすために国庫を開く判断は、お前が下すものではない」
そうだ。
私には予算の決裁権がない。第三王女には、そんな権限はない。
でも、計画書を書く権利はある。予算部会に提出する権利もある。そしてこの計画が条約に基づくものである限り、兄上にも握りつぶす根拠がない。
「兄上のおっしゃる通り、最終判断は私のものではありません。予算部会と枢密院、そして父上のご判断です。ですが、条約に基づく復興義務の具体案を準備するのは、誰かがやらなければならない仕事です」
「誰もやりたがらないから、お前がやっている。そういうことか」
「はい」
兄上が少し間を置いた。
「……お前は昔からそうだ」
何かを言いかけて、やめた。
代わりに計画書を机に置いた。突き返すのではなく、置いた。
「勝手にしろ。ただし、予算部会で反対が出ても私は援護しない」
「承知しています」
「それと、あの人質——」
「夫です。名目上の」
「……あの男の入れ知恵か。南回りルートなど、現地を知らなければ出てこない」
さすがに鋭い。
「セレン様に助言をいただきました」
「敵国の人間に国の復興計画を見せるな」
「夫に妻の仕事を見せただけです」
兄上の眉が動いた。
怒っているのか呆れているのか、その中間のような顔だった。
「条約か。夫か。お前は言葉の使い方だけは上手いな、アネリーゼ」
褒められたわけではないだろう。
私は計画書を受け取り、頭を下げて、執務室を出た。
扉が閉まった。
廊下に出て、息を吐いた。手が少し震えていた。兄上と話すのは、いつも少し緊張する。怒鳴られたわけではない。むしろ兄上は理性的な人だ。でも、あの人の前では自分の正しさが揺らぎそうになる。
本当に正しいのか、と。
分からない。
でもやる。やらないよりはましだから。
東翼に戻ると、執務室の前の廊下にセレン様がいた。
壁に背を預けて、腕を組んで、窓の外を見ていた。何をしているのだろう。散歩だろうか。この人は時々、廊下にいる。部屋にいるのが落ち着かないのかもしれない。
「セレン様」
声をかけた。
セレン様が振り返った。
「……アネリーゼ殿下」
「お散歩ですか?」
「……いえ」
違ったらしい。では何をしていたのか。聞いていいものか迷ったが、セレン様の目が計画書に向いた。
「それは」
「ああ、これ。第四稿です。セレン様に教えていただいた南回りルートを反映しました。兄上に見せてきたところです」
「……それで」
「勝手にしろ、と言われました。握りつぶされなかっただけ上出来です」
セレン様が少し間を置いた。
「勝手にしろ、というのは許可ではないが」
「禁止でもありません。この国では、禁止されていないことはやっていいんです。多分」
多分、は余計だった。でもセレン様は追及しなかった。
代わりに、少しだけ不思議そうな顔をした。不思議そう、というのは正確ではないかもしれない。眉の角度がわずかに変わっただけだ。この人は表情が乏しいから、小さな変化を読むしかない。
「殿下」
「はい?」
「なぜ、私の国を助けるのですか」
まっすぐ聞かれた。
前にも聞かれた。執務室の前で、地図を見ながら。あの時は「条約に書いてあるから」と答えた。
今回も、同じ答えを返すことはできた。嘘ではないから。
でも、あの灰色がかった青い目に、同じ言葉を繰り返すのは違う気がした。
「条約の義務もあります。でもそれだけじゃなくて」
少し考えた。言葉を探した。
「だって私の旦那様の故郷ですもの」
言った。
「荒れたままでは、寝覚めが悪いでしょう?」
セレン様が黙った。
目が動いた。俺の——いや、この人の瞳の色が少しだけ変わったように見えた。警戒でも困惑でもない。何と呼べばいいのか分からない色。
「……旦那様」
小さく繰り返した。俺を旦那様と呼ぶ人間はこの世界にいない、とでも言いたげだった。
「名目上の、ですけどね」
付け加えた。
セレン様はしばらく何も言わなかった。それから視線を逸らした。窓の外。中庭。落ち葉が風に巻かれて、石畳の上を転がっていた。
「……南回りルートの件ですが」
「はい?」
「リンベルクの手前に渡河点があります。橋が老朽化しているはずです。物資の重量によっては迂回が必要になる」
話を変えた。
旦那様の話はもう終わりらしい。
「橋の老朽化、なるほど。どのくらい古い橋ですか?」
「二十年以上前の建造です。石造りではなく木造。荷馬車二台分の幅しかない」
「じゃあ補修が必要ですね。それも計画に入れないと」
「……殿下は、そういう情報を私に聞いてもいいのですか」
「聞いてはいけない理由がありますか?」
「私は、あなたの国の敵だった人間です」
「夫ですよ」
「名目上の」
「名目上でも、夫は夫です。夫に相談して何が悪いんですか」
セレン様が口を閉じた。
反論を飲み込んだのか、反論がなかったのか。その区別はつかなかった。
ただ、腕を組んでいた手が少しだけ緩んだのは見えた。
執務室に戻ると、ヨハンが待っていた。
「殿下、手紙が届いています」
「誰から?」
「レーヴェン国境付近の教会区。戦災孤児の受け入れ要請です」
封を開けた。
手紙の文面は丁寧だが、紙が薄い。良い紙がないのだろう。戦争で物資が不足している地域からの手紙は、大抵そうだ。
教会区の修道院が保護している戦災孤児のうち、収容限界を超えた分をヴェルディア側で引き取ってほしい、という内容だった。条約第八条の復興義務を根拠にしている。条文を調べて書いたのだろう。
名簿が添えてあった。
十四人。年齢は六歳から十二歳。出身地はレーヴェン北部の各地。
名前と年齢と出身地だけが並んでいる。それだけの情報で、この子たちの何が分かるのか。
でも逆に、それだけしか残っていないということでもある。
マルテ、十歳、エルスト郡ホルン村。
エルスト。
さっき地図で見た地名だ。セレン様が「峠の手前の道は戦争で崩れている」と言った、あの場所。
「この子たち……」
呟いた。
ヨハンが覗き込んだ。
「受け入れますか」
「受け入れる。準備して」
「予算が」
「第八条」
「……それで全部押し通す気ですね」
全部は押し通せない。でも、通せるところからやる。
名簿をもう一度見た。十四人の名前。
インクのついた指先で、紙の端に触れた。指紋がかすかについた。
——この子たちは、あの戦争で何を見たのだろう。
セレン様がいた戦場の、反対側にいた子どもたちだ。
受け入れたら、同じ屋根の下で暮らすことになる。名目上の夫と、その夫の故国の子どもたちと。
複雑なことになる、と思った。
でも、放っておけない。
また、その理由だ。条約でも戦略でもなく、ただ放っておけないから動く。前の世界でも今の世界でも、私のこの部分だけは変わらない。
計画書の上に手紙を重ねた。インクが乾ききっていない第四稿の隅に、孤児の名簿の角が触れた。
「ヨハン」
「はい」
「第五稿、書かないといけないかも」
ヨハンが天井を仰いだ。




