第2話 変わり者の王女
寝台が広すぎて眠れなかった。
与えられた部屋は、人質の部屋ではなかった。天蓋つきの寝台、暖炉、書棚、窓際に椅子とテーブル。壁には新しい燭台がかけてある。新しい。燭台だけじゃない。カーテンも、敷布も、卓上の水差しも。どれも使った形跡がない。
急いで整えたのだ。
俺がここに入ると決まってから、誰かが——おそらくあの王女の指示で——空き部屋だった場所に家具を運び込み、布を張り替え、新品の燭台を取りつけた。人質用の独房ではなく、配偶者用の居室として。
窓から中庭が見える。落ち葉が敷石の隅に溜まっていた。掃除の者が朝のうちに掃くのだろうが、夜のうちにまた溜まる。そういう季節だ。
あの国——レーヴェンでは、秋分の月は山が色を変える頃だった。ここヴェルディアは平野が多い。山はない。風が違う。空気が湿っている。
眠れないまま三日が過ぎた。
四日目の朝、部屋の外に出た。
別に、禁じられてはいなかった。配偶者としての身分を与えられている以上、宮殿内の移動は自由だと、あの書記官——ヨハンという男が初日に説明していた。ただし護衛が一名つく。監視か護衛か、その区別は意味がないだろう。
廊下を歩いた。
石の床が冷たい。レーヴェンの城は山岳の石を使っていたから、足裏に硬さがあった。ここの石は柔らかい。石灰岩だろう。城壁の石材を見る癖がある。築城を学んだ人間の職業病だ。踏み心地が違う。
そんなことを考えている自分に気づいて、少し呆れた。
すれ違う侍従が目を逸らした。別の侍女が足を速めた。俺を避けている。当然だ。敵国の王子が宮殿を歩いているのだから。
角を曲がったところで、声が聞こえた。
「——あの人質殿、もう宮殿をうろついているんですって」
「人質じゃなくて夫でしょう、名目上の」
「名目上、ね。よく言ったものだわ。姫殿下もお変わりにならないこと」
「買われた王子ですって。侍従長がそう呼んでいたわよ」
壁の向こう、控えの間あたりだ。声は二人。侍女だろう。
買われた王子。
正確ではない。俺は買われたのではなく、売られたのだ。兄——ディルクに。賠償条約に従って、鉱山の利権や賠償金と一緒に。
だが訂正する気はなかった。どう呼ばれても同じだ。
足音を立てずに角を曲がった。侍女たちの前を通った。二人が俺に気づいて、口をつぐんだ。
何も言わなかった。目を合わせただけだ。
片方の侍女が顔を白くした。もう片方が小さく頭を下げて、足早に去った。
——別に、脅したつもりはない。
が、前線にいた人間の目つきは、平時の人間を怯えさせるらしい。これは昔からそうだった。レーヴェンでもそうだった。
東翼の執務室の前を通りかかった。
扉が半分開いていた。
中にいたのはアネリーゼ・フォン・ヴェルディアだった。
名目上の妻。
机の上に書類が積み上がっていた。尋常な量ではない。彼女はその山の中に埋もれるようにして、何かを読んでいた。髪が少し乱れている。耳にかけた髪が落ちかけて、また耳にかけ直すのを、扉の隙間から二度見た。
朝食の時間はとうに過ぎている。机の隅にパンが置いてあったが、一口だけかじって放置されていた。
隣室からヨハンの声がした。
「殿下、レーヴェン領北部の被害報告が届きましたが」
「あとで読む」
「あとで、と三日前もおっしゃいました」
「……今読む」
バタバタと紙をめくる音。
俺は扉の前を通り過ぎた。
通り過ぎてから、少し立ち止まった。
レーヴェン領北部。被害報告。
あの女は、レーヴェンの復興に関わる仕事をしている。人質を引き取って夫と呼ぶだけでは飽き足らず、その人質の故国の復興計画を立てている。
意味が分からなかった。
何が目的だ。
食事は一日二回、小さな食堂に運ばれた。
正式な大食堂ではなく、東翼の私的な食堂。アネリーゼとヨハン、それに俺。三人だけの食卓だ。大食堂に行けば宮廷の連中と顔を合わせることになる。それを避けてくれているのだろうと、俺は思った。配慮されている。人質に対する配慮。
ありがたいとは、まだ思えなかった。
五日目の昼食だった。
テーブルに料理が並んだ。温かい芋の煮物と、焼いた鶏肉と、パンと、チーズ。俺は黙って自分の皿に手を伸ばした。
アネリーゼは書類を片手に食卓についていた。行儀が悪い。王女だろう。。いや、他人の食事作法を気にしている場合ではないが。
「セレン様」
名前を呼ばれた。
様づけ。初日もそうだった。人質に「様」をつける王女。
「鶏肉、お嫌いですか」
「……いいえ」
「よかった。あ、このチーズ、少し癖がありますけど美味しいんですよ」
言いながら、チーズを切り分けて——俺の皿に載せた。
当然のように。
自分の皿から、俺の皿に。
ヨハンが何も言わずにパンをかじっている。日常の光景らしい。
「…………」
俺は載せられたチーズを見た。
なぜだ。なぜ敵国の人質の皿にチーズを載せる。
前の世界で。いや。前の世界などない。この女は転生者ではなく、俺にとっては戦勝国の王女でしかない。
「あの」
「はい?」
「……私は、人質ですが」
言ってから、しまったと思った。人質ではなく夫だと、初日に言われたばかりだ。
アネリーゼがこちらを見た。書類を持ったまま。少し首をかしげて。
「夫ですよ。名目上は」
同じ言葉。初日と同じ。同じ調子で、同じ顔で。
ヨハンが小さく鼻を鳴らした。笑ったのか、それ以外の何かか。
俺はチーズを食べた。
癖がある、と言っていた。確かに少し苦い。だが不味くはなかった。
六日目。
また東翼の執務室の前を通った。
今度は意図的だった。
扉はまた半分開いていた。この女は扉を閉めない癖があるらしい。防犯意識が低い。もっとも、王宮の中で防犯もないだろうが。
ただ、前線にいた人間の感覚では、開いた扉は落ち着かない。
中を見るつもりはなかった。
が、目に入った。
机の上に地図が広がっていた。
レーヴェン公国の地図。国境地帯。北部山岳地域。俺が知っている地形だ。等高線の入った軍用地図ではなく、街道と集落を記した行政地図だが、それでも見覚えがあった。
地図の上に書類が何枚か置かれていた。遠目では読めなかったが、表紙に「復興支援計画(草案第三稿)」と書いてあった。
第三稿。
少なくとも二回は書き直している。
アネリーゼは席にいなかった。近くの書棚から本を引き抜いているところだった。脚立に片足をかけて、高い棚に手を伸ばしている。不安定な姿勢だ。落ちたらどうする。
「……あの」
声をかけた。
アネリーゼが振り返った。本を抱えたまま、脚立の上から。
「あ、セレン様。おはようございます」
おはようございます。脚立の上から。
「降りてください」
「え? ああ、大丈夫です。慣れてますから」
慣れの問題ではない。
だが初日から——婚姻から六日目にして、俺はすでに気づき始めていた。この女に「危ない」と言っても意味がない。本人が危ないと思っていないからだ。
アネリーゼが本を抱えて脚立を降りた。足元がよろけた。俺は手を出しかけて、止めた。触れていいのか分からなかった。名目上の夫は、名目上の妻の腕をつかんでいいのか。
彼女は自分でバランスを取り直した。
「すみません。いつもこうなんです」
いつもこうなんです、と言う人間が一番危ない。
——関係ない。俺が気にすることではない。
踵を返しかけた。
視線の端に、地図が見えた。レーヴェンの北部。エルスト峠の麓あたりに赤い印がついていた。あの辺りは、先の戦争で最も被害の大きかった地域だ。俺が——俺の部隊が展開した場所に近い。
足が止まった。
「……それは」
「あ、これですか?」
アネリーゼが机に歩み寄った。地図の上に本を置いた。重ねるな、と思ったが言わなかった。
「レーヴェン北部の復興計画です。条約第八条に復興義務の条項があるんですけど、具体的な中身がまだ決まっていなくて。だから草案を作っているんです。三回目の書き直しですが」
さらりと言った。
「……なぜ」
俺の口から出たのは、初日と同じ問いだった。
なぜ敵国の復興を。なぜあの地域を。なぜ自分の時間と労力を使って。
アネリーゼは少し考えるような顔をして、それから言った。
「条約に書いてあるからです。やるべきことはやらないと」
嘘ではないだろう。
だが全部でもないだろう。
条約に書いてあるからやる。それだけなら第三稿まで書き直す必要はない。もっと手を抜ける。形式的に済ませて、達成率の低い報告書を出せば義務は果たせる。
なのにこの女は地図を広げて、赤い印をつけて、被害報告を読み込んでいる。
意味が分からなかった。
分からないものは、気になる。
軍人の習性だ。理解できない動きをする相手からは目が離せない。そういうふうにできている。敵でも味方でも。
「……第三稿と言いましたか」
「はい」
「前の二稿は、何が問題で書き直したんですか」
聞いてしまった。
アネリーゼの目が一瞬、丸くなった。
「え——聞いてくれるんですか」
聞いてくれるんですか、という反応が想定外だった。情報を探っていると警戒されると思った。
「あの、第一稿は物資の量が現実的じゃなくて、ヨハンに怒られました。第二稿は輸送ルートが杜撰だって。私、地理に弱いんです。地図は読めるんですけど、実際の道の状態とか、峠が冬に閉まるとか、そういう——」
早口だった。焦ると早口になるらしい。
俺は地図を見た。赤い印。輸送ルートの線。
エルスト峠を通るルートが引いてあった。
「このルートは使えません」
「え?」
「エルスト峠は雪の月に閉まります。それに峠の手前の道は戦争で崩れている。通すなら南回りです。ヴァルデ河沿いに下って、リンベルク経由」
言ってから、口が滑ったと思った。
敵国の人間に自国の地理情報を渡している。軍人として最低の判断だ。
だがアネリーゼは裏切りを指摘する代わりに、目を輝かせた。
「南回り——リンベルク経由。なるほど、そっちのほうが距離はあるけど通年使えるんですね」
「……ええ、まあ」
「ありがとうございます。助かります」
助かる。
敵国の王子に、敵国の地理を教えてもらって、助かる。
殿下は何なんだ。
ヨハンが隣室から顔を出した。俺を見て、地図を見て、アネリーゼの顔を見て、小さく頷いた。何に頷いたのかは分からなかった。
俺はそれ以上何も言わず、執務室を出た。
廊下を歩きながら、手首の包帯に触れた。あの不格好な包帯はもう外れている。傷はほとんど塞がった。だが巻かれていた感触が、まだ残っているような気がした。
窓の外で、中庭の落ち葉が風に舞い上がった。
この女は何をするつもりだ。
俺を夫と呼び、鎖を外し、チーズを皿に載せ、俺の故国の地図を広げて第三稿を書き直している。
軍人の感覚が言っている。この動きを読み誤るな。目を離すな。
——ただ、それは軍人の感覚なのか、それ以外の何かなのか。
その判断は、まだつかなかった。




