第1話 買われた王子
護送馬車の車輪が、中庭の石畳にこびりついた泥を跳ね上げた。
秋分の月の七日。朝から降っていた雨はやんだが、空はまだ重い。謁見の間ではなく東翼の応接間を指定したのは私だ。正式な謁見にすると手続きが増えるし、何よりあの部屋は天井が高すぎて声が響く。こういう話は、もう少し小さな部屋でやったほうがいい。
窓の下に馬車が止まった。
ヨハンが私の隣で書類をめくる手を止めた。
「来ましたね」
「うん」
「殿下、念のためもう一度確認しますが」
「うん」
「条約第七条の二に基づく婚姻条項への書き換え。国王陛下の承認は昨日付で取得。レーヴェン側の外交代表ゲルハルト殿の署名も済んでいます。手続き上の不備はありません」
「うん」
「……聞いてます?」
聞いている。聞いているが、窓の外から目が離せなかった。
馬車から降りてくる人影。護衛の兵が四人。その真ん中に、ひとり。
手首に鎖がついていた。
知っていた。条約第七条は「人質として移管」と書いてある。人質には拘束具がつく。それがこの国の慣例だ。書類の上では分かっていた。
でも実際に見ると、違う。
鎖をつけられた人間が歩いている。背が高い。銀灰色の髪が雨上がりの曇り空に溶けそうな色をしていて、顔は——まだ若い。私と同じか、少し上。レーヴェンの第二王子、セレン。二十三歳。先の戦争では少年指揮官として前線に立ったと報告書にあった。
今は鎖をつけて歩いている。
前の世界で国際関係の教科書を読んでいた頃、戦後処理の章に「人質外交」という言葉が出てきた。遠い歴史の話だと思っていた。
ここでは、今の話だ。
「ヨハン」
「はい」
「鎖、外せるかな」
ヨハンの眉がわずかに上がった。
「……外せるかではなく、外していいかの問題でしょう。人質条項のままでは拘束具の解除には護衛隊長の判断が必要です。ですが婚姻条項に書き換え済みですから、拘束の根拠がなくなっている。法的には外せます」
「じゃあ外す」
「まあ、そうなりますよね」
ヨハンの口調には「知ってた」という色がにじんでいた。付き合いが長いと、こういうところが楽だ。
応接間の扉が開いた。
護衛兵に挟まれて入ってきた青年は、思ったよりも静かだった。
暴れるかと思った。あるいは卑屈になるか。報告書には「武に秀で、気性は激しくないが頑固」とあったけれど、実際にどんな人間かは会ってみないと分からない。
セレン・フォン・レーヴェンは、応接間の中を一度だけ見回した。窓の位置、扉の数、部屋の広さ。軍人の目だと思った。次に私を見た。
灰色がかった青い目。警戒の色。当然だろう。
「アネリーゼ・フォン・ヴェルディアです」
名乗った。座ったままではなく、立ち上がって。ヨハンが椅子を引く音がした。
セレンは何も言わなかった。
鎖が小さく鳴った。手首のあたりで金属がこすれる音。ずっとつけていたのだろう、手首の皮膚が赤くなっている。それが目に入って、用意していた挨拶が少し飛んだ。
「……あなたを、人質ではなく夫として迎えます」
言った。予定より早く。順番が違う。先に条約の条文と婚姻書き換えの経緯を説明して、それからこの宣言をするつもりだった。でも鎖の音を聞いたら、順番などどうでもよくなった。
「ただし名目だけです。お互い自由に暮らしましょう」
セレンの目が動いた。警戒から、困惑に。
「……何を企んでいる」
低い声だった。敵意というよりは、理解できないものを前にした時の声。
「企みなんてありません。条約第七条の二に基づいて、人質条項を婚姻条項に書き換えました。法的な手続きは済んでいます。あなたは今日からヴェルディア王族の配偶者として身分保障を受けます」
セレンの表情は変わらなかった。
「……なぜだ」
なぜ。
理由はいくつもあった。
人質を人質のまま抱えていても外交カードとしては硬直する。婚姻に変換すれば、レーヴェンとの関係を「敵対」から「姻戚」に一段階ずらせる。ディルク殿下がセレンの処遇を口実に次の交渉を仕掛けてくる前に、身柄の法的地位を確定させたほうがいい。
それが前の世界で学んだことから導いた答えだった。人質は固定資産。婚姻は流動資産。使い方が違う。
でもそれは、目の前の人間に言う言葉ではない。
「ただ、鎖をつけたまま食卓につくのは不便でしょう?」
そう言った。
嘘ではなかった。嘘ではないが、全部でもなかった。
セレンが息を呑む気配がした。
私は護衛隊長のほうを向いた。
「拘束具を外してください。婚姻条項への書き換えは昨日付で国王陛下の承認を得ています。人質としての拘束の法的根拠はもうありません」
護衛隊長がヨハンを見た。ヨハンが書類を差し出した。国王の署名と、ゲルハルトの署名が並んだ書類。護衛隊長が読む。眉間にしわを寄せる。隣の護衛兵と目を合わせる。
少し、間があった。
私はその間が嫌いだ。書類に不備がないのに人が動かない時間。根拠は揃っている。手続きは終わっている。それでも人は迷う。前例がないから。責任を取りたくないから。
「……承知いたしました」
護衛隊長が鍵を取り出した。
鎖が外れる音は、思ったよりも軽かった。
セレンの手首が現れた。赤い擦り傷。何日もつけていたのだろう。少し腫れている。
「薬を」
侍女に言った。目を離したくなかったが、視線が手首に吸い寄せられた。
「……必要ない」
セレンの声。低い。硬い。
「必要です。腫れています。感染したら面倒です」
「……私は人質だ」
「さっき説明しましたよ。人質ではなく夫です。名目上の」
セレンが黙った。
侍女が薬箱を持ってきた。軟膏と清潔な布。私はそれを受け取って、少し迷って、自分で塗ることにした。侍女に任せてもよかったのだけれど。
赤くなった手首に触れた。
硬い。剣だこのある手。大きい。私の手の倍くらいある。指先で傷の周りに軟膏を塗ると、セレンの腕がわずかに引っ込みかけて、止まった。
抵抗するか迷って、やめたのだろう。
「しみますか」
「……いいえ」
嘘だ。傷に軟膏を塗れば少しはしみる。でもそこを追及する意味はない。
布を巻いた。少し不格好になった。私は手当てが上手くない。ヨハンに「殿下の包帯は毎回見事にいびつですね」と言われたことがある。今回も例に漏れなかった。
「……すみません、あまり上手ではないんです」
「…………」
セレンは何も言わなかった。
ただ、自分の手首に巻かれた不格好な包帯を見ていた。
何を考えているのか、読めなかった。
婚姻の宣誓は簡素に済ませた。
父上——国王陛下が立会い、定められた文言を私たちが読み上げた。セレンは文言を淡々と口にした。感情の色はなかった。当然だ。形式的な手続きに過ぎない。
宣誓が終わると、ヨハンが用意してくれた食事が応接間に運ばれた。長旅の後だ。まず食べてもらったほうがいい。
食堂ではなく、この部屋で食べることにした。食堂に行けば宮廷の人間の目がある。着いたその日に好奇の視線にさらすのは、さすがに。
椅子が一脚足りなくて、侍女が隣室から持ってきた。古い椅子で、座ると少しきしむ。セレンはそのきしむ椅子に座り、出された食事にしばらく手をつけなかった。
毒を疑っている、とは思わなかった。
ただ、何をしていいか分からないのだろうと思った。
鎖を外されて、名目上の妻に手当てされて、食卓に案内されて。数時間前まで人質として護送されていた人間にとって、この変化は速すぎる。
「無理に食べなくてもいいですよ」
声をかけた。
「でも、パンだけでも。固くなる前に」
セレンが私を見た。また、あの困惑の目。
ゆっくり、パンに手を伸ばした。
食べる姿を観察するのは失礼だろうから、私は自分の皿に目を落とした。煮込み料理が温かい。秋分の月にしては少し肌寒い日だった。温かいものを出してくれたのは厨房の判断だろう。ありがたい。
隣で、きしむ椅子が小さく鳴った。
食事が終わり、セレンが配偶者用の居室に案内されるのを見送った。
彼の背中が廊下の角を曲がるまで見ていた。背筋が伸びている。鎖がなくなっても、肩のあたりにまだ重さが残っているように見えた。
ヨハンが近づいてきた。
「殿下」
「うん」
「思ったより、穏やかな方でしたね」
「そう?」
「少なくとも暴れはしなかった。食事もとった」
「そうだね」
「で、殿下は満足ですか。計画通りですか」
計画通り。
ヨハンは私が何を考えてこの婚姻を進めたか、大筋は知っている。レーヴェンとの関係をこのまま放置すれば、次の世代でまた戦争になる。人質を抱えていても報復の種が増えるだけ。婚姻に変えれば、少なくとも「関係修復の意思がある」という外交信号になる。
その説明をした時、ヨハンは「殿下の思考回路は時々ぶっ飛んでいて怖いです」と言った。褒めてはいない。
「計画通りかどうかは、分からない」
「あら珍しい。殿下が分からないとおっしゃるとは」
「だって、人間相手だもの」
条約の条文は読めば分かる。手続きには正解がある。でも、あの人がこの先どうなるかは分からない。憎まれるかもしれない。利用されたと感じるかもしれない。名ばかりの妻など要らないと言われるかもしれない。
それでも、鎖をつけたまま放っておくよりはいい。
それだけは確かだった。
「殿下」
声が降ってきた。振り返ると、廊下の向こうから姉が歩いてきた。
カミラお姉様。蜂蜜色の巻き髪。柔らかい微笑み。社交界の花と呼ばれる人。私とは何もかも違う。
「聞いたわよ。レーヴェンの王子を迎えたんですって?」
「はい。今日、到着しました」
「あら、あの人質をもう鎖から外したの?」
微笑んだまま言った。
「お人好しね、アネリーゼ」
優しい声だった。
姉はいつも優しい。私が変わったことをするたびに、こうして微笑んで、お人好しねと言う。咎めるのではなく、少し呆れたように。少し心配そうに。
「人質ではなく夫として迎えましたので。鎖は不要です」
「夫。そう……名目上の、でしょう?」
「はい」
「大変ね。頑張ってね」
お姉様は私の肩に軽く触れて、そのまま歩いていった。
香水の匂いが残った。甘い、少し重たい香り。
「……ヨハン」
「はい」
「いま私、お姉様に心配されたのかな」
「さあ。心配されたのか、観察されたのか」
ヨハンの声は平坦だった。
私は首を傾げた。考えすぎだろう。お姉様はいつもああだ。優しくて、少し距離がある。姉妹とは、そういうものかもしれない。
窓の外を見た。
雨上がりの中庭に、護送馬車がまだ停まっている。車輪についた泥が乾きかけていた。
明日から、あの人と同じ屋根の下で暮らすことになる。
名目上の夫婦として。
不格好な包帯を巻いた、あの硬い手のひらを思い出した。
——大丈夫。なんとかなる。
根拠はなかった。




