第10話 期限
婚姻法の革装丁は古びていた。
表紙の角が擦り切れて、中の綴じ糸が見えかけている。何十年も法令庫に置かれていたものだろう。ヨハンが持ってきてくれた。殿下が先日まで読んでいたのは別の版で、こちらは注釈つきの実務版だと言っていた。
「セレン様もお読みになったほうがいいかと思いまして」
ヨハンはそれだけ言って、置いていった。
意味のない親切ではない。ヨハンがわざわざ持ってくるからには、読むべき箇所がある。
ページをめくった。
婚姻の成立。宣誓。既に済んでいる。
婚姻の解消。離縁。これは読んだ。
婚姻の無効。
ここだ。
条文を追った。注釈が小さな字で欄外に書き込まれている。判例の引用。枢密院の見解。
第三十四条の二。
「王族の婚姻において、婚姻の成立から一年以内に婚姻の実質が認められない場合、ヴェルディア王族または枢密院構成員は、婚姻無効の申し立てを行うことができる」
一年。
注釈を読んだ。
「婚姻の実質とは、同衾の事実、または夫婦双方による婚姻継続意思の公式宣誓(国王立会い)をいう。いずれか一方を満たせばよい」
起算点。婚姻成立日。
秋分の月、七日。
あの日だ。鎖をつけられて護送馬車から降り、この国の第三王女に手首の包帯を巻かれた日。
あの日から一年。翌年の秋分の月、七日。
今は雪の月の半ば。残りは——約八ヶ月。
八ヶ月以内に、同衾するか、公式宣誓をしなければ、枢密院がこの婚姻を無効にできる。
無効になれば、俺の身柄は条約第七条の人質条項に差し戻される。
鎖に戻る。あの冷たい金属が、また手首に巻きつく。
本を閉じた。
閉じてから、また開いた。もう一度読んだ。読み間違いではなかった。
ヨハンはこれを知っていて、持ってきたのだ。
あの書記官は、何も言わずに必要なものを渡す。余計な説明はしない。だから信用できるし、だから油断ならない。
殿下に言うべきだ。
それは分かっていた。
八ヶ月の期限がある。婚姻の実質を示さなければならない。同衾か、公式宣誓か。どちらかを選んで、手続きを進める。
言えばいい。殿下は合理的な人だから、すぐに答えを出すだろう。
「じゃあ公式宣誓をすればいいですよね。形式的なものですし」
——そう言うだろう。
形式的なもの。
その一言が聞きたくなかった。
なぜだ。
形式でいい。名目でいい。最初からそういう約束だった。白い結婚。お互い自由に。名目上の夫婦。俺はそれを受け入れて、ここにいる。
なのに、公式宣誓を「形式的」と処理されることが嫌だと感じている。
「互いを唯一の伴侶として認め、生涯を共にすることを誓う」——その言葉を、形だけ読み上げて終わりにされることが。
何を考えている。
俺は買われた人質で、名目上の夫で、ここにいるのは条約のおかげだ。殿下が鎖を外してくれたから立っていられる。それ以上を求める立場にない。
ページの端が少し浮いていた。何度もめくったせいで、紙の癖がついている。
言わない。
まだ言わない。八ヶ月ある。時間はある。殿下が自分で気づくかもしれない。あの分厚い法令集を読み進めていけば、いずれこの条文にたどり着く。
その時、殿下が何と言うか。それを見てから判断する。
——言い訳だと分かっていた。
午後。執務室で殿下と顔を合わせた。
殿下は相変わらず書類にまみれていた。復興計画の第六稿と、孤児たちの生活費の概算と、予算部会への追加資料。
「セレン、国境防衛の改善案、まとまりましたか」
「はい。こちらに」
書類を渡した。
国境防衛の改善案。俺が書いたものだ。レーヴェンとの国境沿いに、巡視隊の中継拠点を三か所増設する提案。拠点の位置は、地形と街道の交差点を基準に選んだ。築城の知識があれば自然に出てくる配置だが、ヴェルディア軍にはレーヴェン国境の地形に詳しい人間が少ない。
殿下が読んだ。ページをめくる。もう一度戻る。
「これ、すごくいい」
また言った。すごい、と。
慣れない。何度言われても慣れない。
「枢密院の軍事部会に提出しましょう。ルートヴィヒ兄上の既存案より具体的です。地形の根拠があるから、反論しにくい」
「……ルートヴィヒ殿下の案と競合するのですか」
「兄上の案は国境全域に薄く巡視隊を配置するもので、中継拠点がない。拠点がなければ補給が続かない。セレンの案のほうが実効性が高い」
殿下がそう判断するなら、そうなのだろう。だが兄の案を弟の案で上書きするのは、政治的にはまずい。
「殿下。私の名前で出すと、反発を受けます」
「セレンの名前で出さないと意味がないです。地形の根拠を説明できるのはセレンだけですから」
「……」
「大丈夫。説明の場は私が作ります」
大丈夫。殿下はよくそう言う。根拠のない大丈夫だ。だが不思議と、この女が言うと信じそうになる。
「ところで」
殿下が書類から目を上げた。
「婚姻の実質って、結局何なのかしら」
心臓が一つ跳ねた。
「父上に条件をつけられたでしょう。婚姻の実質を示せって。婚姻法を読んでるんですけど、該当する条文がまだ見つけられなくて。ヨハンに聞いたら『ご自分でお探しください、見つけた時のほうが頭に入りますから』って。意地悪ですよね」
意地悪ではない。ヨハンは俺に先に渡したのだ。殿下が自力で見つける前に、俺が知っておくように。
「……法令集の、後半のほうではないですか」
「後半。ありがとう、探してみます。期限のことは気にしないでくださいね」
期限。
殿下は「期限」と言った。父上が条件をつけたことを、漠然と「期限があるかもしれない」と認識しているだけだ。具体的に一年と知っているわけではない。
「何とでもなりますから」
何とでもなる。
軽い。
軽いのだ。殿下にとっては。婚姻の実質を示す手続きは、条文を調べて形式を整えれば済む問題。条約の条文を引用して兄を退けたのと同じ要領で。
俺にとっては、違う。
俺にとってこの期限は、あの宣誓の言葉を——「互いを唯一の伴侶として認め、生涯を共にすることを誓う」を——本気で言えるかどうか、という問いだ。
形式で済ませたくない。
だが本気で言う資格が、俺にはない。
「セレン?」
「……何でもありません」
「顔色が悪い?」
「悪くありません」
「そう? 無理しないでくださいね」
無理はしていない。ただ、考えすぎているだけだ。
三日後。
国境防衛の改善案が軍事部会に提出された。殿下が場を整え、俺が地形の説明をした。
ルートヴィヒ殿下の既存案は「国境全域を薄く巡視する」方針で、拠点の概念がなかった。俺の案は「要所三か所に中継拠点を置き、巡視隊の補給と休息を確保する」方針だ。地図上に拠点の位置を示し、地形の根拠を説明した。
反論は出た。
「この案はレーヴェン側の地理に依存しすぎている。情報源は確かなのか」と、ルートヴィヒ殿下に近い文官が言った。
「私はレーヴェンの王子です。国境の地形は自分の足で歩いています」
部屋が静まった。
ルートヴィヒ殿下が俺を見た。冷たい目だったが、否定はしなかった。
改善案は採用された。既存案は棚上げ。
会議室を出た時、殿下がこちらを見て、小さく拳を握った。やった、という顔。声には出さなかった。廊下には人がいたから。
気分が晴れたかと聞かれれば——。
分からない。兄の案を退けて自分の案が通ったことが嬉しいのか。それとも、殿下があの顔をしてくれたことが嬉しいのか。
区別がつかなかった。
その夜。
外交文書が届いた。
レーヴェン公国の正紋が押された公式文書。殿下とヨハンと俺の三人で、執務室で読んだ。
ヨハンが声に出して読み上げた。
「ヴェルディア=レーヴェン講和条約第九条に基づき、レーヴェン公国はヴェルディア王国に対し、第二王子セレン・フォン・レーヴェンの身柄に関する再交渉を申し入れる。再交渉の根拠は、レーヴェン国内における重大な事情変更である」
殿下の顔が硬くなった。
「事情変更の具体的内容として、以下を添付する。一、国境周辺地域における治安の悪化。二、レーヴェン国内の軍部における不安定化。三、第二王子の不在が国内の政治的均衡を損なっていること」
ヨハンが読み終えた。
静かだった。
殿下が俺を見た。
「……セレンが言っていた通りだ」
「ええ。ディルクが動きました」
以前俺が警告した通り。条約第九条を使って、俺の返還を要求してきた。
殿下が外交文書を手に取った。
「第九条は、事情変更の具体的証拠を添付しなければならない。この添付内容で——要件を満たすかどうか」
殿下の目が文書の上を走った。法令集を読み込んできた人間の目だった。条文と現実を照らし合わせる視線。
「……治安の悪化。軍部の不安定化。政治的均衡の毀損。どれも——」
少し考えて。
「どれも、条約締結時に予見できたものじゃないですか」
正しかった。
「敗戦国の軍部が不満を持つのは当然です。治安の悪化も戦後の混乱の延長。第九条の要件は『締結時に予見できなかった重大な事情変更』であって、予見可能な変化では要件を満たしません」
殿下の声に力が戻っていた。法の論理に立ち返ると、この人は強い。
「それに、添付内容の具体性が足りない。治安の悪化を示す数字がない。軍部の不安定化も、具体的な事件や決議の記録がない。手続き要件としても不十分です」
ヨハンが頷いた。
「反論の余地はありそうですね」
「書きます。外交返答を。今夜中に草案を作ります」
殿下がペンを取った。
また夜が長くなる。
俺は殿下の隣に座った。いつもの場所。赤い修正線を入れるためのペンを手に取った。
二つの期限が、俺の頭の中で重なった。
婚姻の一年期限。あと八ヶ月。
ディルクの返還要求。これは外交手続きだから、結論が出るまでに数週間から数ヶ月。
どちらも、俺がここにいられるかどうかを左右する。
殿下が草案を書く横顔を見た。眉間にしわ。インクのついた指。唇が小さく動いている。独り言の癖。
ここにいたい。
その感覚が、はっきりと胸の中にあった。
理由は——まだ名前をつけたくなかった。
窓の外で、雪の月の風が鳴っていた。冷たい風だ。執務室の暖炉がかすかに音を立てた。
殿下がふと顔を上げた。
「セレン」
「何ですか」
「茶、入れてきます。苦いのでいい?」
「……ええ。苦いのでいい」
殿下が立ち上がって、給湯室に向かった。
一人になった執務室で、外交文書の封を指でなぞった。レーヴェンの正紋。山の稜線。
リヒトの密書の封蝋と同じ紋章。だが意味は正反対だ。リヒトは俺を案じて書いた。ディルクは俺を道具として引き戻そうとしている。
同じ山の紋章が、正反対のものを運んでくる。
殿下が戻ってきた。茶碗を二つ。
苦かった。いつも通り。
同じ茶を飲んでいる。同じ部屋で。
それがいつまで続くかを、俺だけが数えている。




