第11話 返還要求
外交文書の封蝋は、きれいに割れていなかった。
開封した時に気づいた。蝋の断面がぎざぎざで、紋章の山の稜線が半分つぶれている。急いで封をした証拠だ。封蝋をきちんと冷やす前に文書を閉じると、こうなる。
ディルク殿下は急いでいたのだ。
その焦りが、少しだけ安心材料になった。焦っている相手は隙が多い。条約の条文を扱う時は特に。
外交文書が届いてから三日。宮廷は揺れていた。
朝の回廊で、二人の文官がすれ違いざまに話していた。
「レーヴェンが王子の返還を要求しているらしい。面倒なことになったな」
「返せばいいんじゃないか。あの人質のせいで国境が不安定になっている」
「人質ではなく夫だろう、名目上は」
「名目上の夫のために外交問題を抱えるのは割に合わない」
聞こえていたが、足を止めなかった。止める暇がなかった。
執務室に戻った。机の上に外交文書の写しと、条約の全文と、ヨハンがまとめた論点整理が並んでいた。
「殿下、ルートヴィヒ殿下から伝言です」
ヨハンが言った。
「内容は」
「『火種を抱え続ける理由があるなら聞く。ないなら返せ』」
短い。兄上らしい。
「火種という認識なのね」
「ルートヴィヒ殿下だけではありません。枢密院でも『返還に応じるべき』という意見が出ています。面倒を避けたいんでしょう」
「面倒を避けて条約を崩したら、もっと面倒なことになるのに」
「それを説明するのが殿下の仕事です」
ヨハンの声は平坦だったが、少しだけ力が入っていた。この人も焦っている。
外交返答の草案は、あの夜——セレンと二人で苦い茶を飲みながら——半分まで書いた。残りの半分を仕上げなくてはならない。
条約第九条を開いた。
再交渉の要件。「締結時に予見できなかった重大な事情変更」。事情変更の具体的証拠の添付義務。
ディルク殿下の添付内容。三点。国境周辺の治安悪化。軍部の不安定化。第二王子の不在による政治的均衡の毀損。
前の世界で国際法の授業を受けた時、「事情変更の原則」を学んだ。条約の根本的な状況が変わった時だけ、再交渉が許される。だが「予見可能だった変化」は根拠にならない。
この世界の条約にも、同じ構造がある。条文の言葉は違うが、論理は同じだ。
ペンを取った。
草案を書いた。
丁寧に。一文ずつ。
外交文書は武器だ。一文の隙が命取りになる。だから殴るような文章ではなく、すべての角を丸めたうえで、逃げ場を塞ぐ文章を書く。
前文から書き始めた。形式的な挨拶。受領の確認。ここは型通りでいい。
問題は本論だ。
予見可能だった変化では、第九条の要件を満たさない。それをどう書くか。相手の面子を潰しすぎず、しかし一切の逃げ道を塞ぐ。殴るような文章ではなく、すべての角を丸めたうえで、逃げ場を閉じる。
敗戦国の軍部が不満を持つのは当然だ。治安の悪化も戦後の混乱の延長だ。それは「予見できなかった」とは言えない——この一点を、丁寧な外交語で三段に分けて書いた。
次に手続き要件。ディルクの添付書類には具体的な数字がない。事件の記録もない。「不安定化」とだけ書いて証拠を添えていない。手続きの不備だ。これも書いた。
最後に結論。要求は退ける。だが条約は尊重する。殴った後に手を差し伸べる構造。前の世界の外交文書で何度も見た形だ。
ペンを置いた。
読み返した。
隙はないと思う。だが確信はない。
「ヨハン」
「はい」
「読んでくれる?」
ヨハンが草案を受け取った。目を通した。ページをめくり、戻り、またメルク。
「……いいと思います。論理に穴はない。口調も適切です。殴りすぎていない」
「ありがとう」
「ただ、一つだけ」
「何?」
「この文書を出した後、ディルク殿下が黙っているとは思えません。次の手を考えておいたほうがいい」
分かっている。
第九条で来て退けられたら、ディルクは別の手段に切り替える。何が来るか。もう一度第九条で来るか。それとも——。
情報戦。
セレンの婚姻が名目上のものだという情報を、ヴェルディア国内に流す。枢密院に「婚姻に実体がない」と認識させる。そうすれば、外からではなく内から婚姻を崩せる。
それが一番怖い。
「ヨハン、宮廷内のレーヴェン関係の人の出入りを、注意しておいて」
「密使の可能性ですか」
「うん」
「了解です」
夕方、セレンが執務室に来た。
草案を見せた。セレンは黙って読んだ。ゆっくりと。一文ずつ。
読み終えて、草案をテーブルに置いた。
「隙はないと思います」
「本当?」
「ディルクの性格を知っている人間として言いますが、この反論に対して正面からの再反論は難しい。第九条の論理では、もう殿下に勝てない」
安堵した。セレンが「隙はない」と言うなら、レーヴェン側から見ても隙がないということだ。
「ただ」
「ただ?」
「兄上は正面から勝てないと分かれば、側面に回ります」
側面。ヨハンと同じことを言った。
「情報戦。あるいは——」
セレンが少し言いよどんだ。
「……宮廷の中に協力者を作る」
「密使」
「はい」
静かな声だった。
自分の兄の手口を解説している。それがどういう気持ちなのか、私には分からない。聞いていいのかも分からない。
「セレン」
「はい」
「前にも同じことを聞きましたね」
セレンの目が少し動いた。覚えている。あの日、セレンの部屋で。密書が机の上にあった日。
「あの時は『帰る場所はない』と言ってくれました」
「…………」
「今回は聞きません」
セレンが少し驚いた顔をした。
「聞かなくていいんですか」
「もう知っていますから」
あの時のセレンの声を覚えている。帰る場所はない。それは消去法だった。ここがいいから残るのではなく、他に行く場所がないから。
でも、あれから二ヶ月が経った。
今のセレンは、あの時と同じだろうか。
「私はセレンをどこにも行かせません」
言った。聞かずに、言った。
前は「ここにいてください」と頼んだ。今度は「行かせません」と宣言した。頼みではなく、意思だ。
セレンが黙った。
長い間。
「……殿下は、時々怖い」
「え?」
「こちらが覚悟を決める前に、先に宣言する」
怖い。言われたことがない。お人好しとは言われる。変わり者とも。でも怖いとは。
「怖いですか?」
「いいえ。……怖いのとは、少し違う」
何と違うのかは言わなかった。
代わりに、外交文書の草案をもう一度手に取った。
「この文書、私の名で出すのですか」
「私の名で、父上の承認を得て、外務省経由で」
「私が——レーヴェンの王子が、この反論を手伝ったことは」
「知る必要のない人は知りません。ヨハンと私だけです」
「……すみません」
「何を謝るんですか」
「故国に刃を向ける手伝いをしていることに対して」
故国に刃を向ける。
そういう認識なのか。この外交文書を書く作業が、セレンにとっては。
「刃ではないですよ。条約を守るための手続きです。条約はセレンの故国も署名したものです」
「……ええ。分かっています」
分かっていても、割り切れないのだろう。
追及しなかった。
この人の中にある故国への感情は、私が触れていい場所ではない。少なくとも今は。
翌日、外交返答が正式に発送された。
父上の承認は思ったより早く下りた。条約の論理が明確だったからだろう。兄上は反対しなかった。「返せ」とは言ったが、条約を破ってまで返す根拠がないことは理解していたのだろう。
返答を送り出した後、執務室で一人になった。ヨハンは外務省との連絡に出ている。セレンは——どこにいるのだろう。
椅子に座って、天井を見た。
勝った。勝ったのだと思う。ディルク殿下の返還要求を退けた。条約の論理で。
でもヨハンの言葉が残っている。次の手。
密使。宮廷内の協力者。情報戦。
窓の外を見た。中庭に人影がある。庭師だろうか。——いや、庭師にしては動きが速い。見慣れない外套。
目を凝らした。人影は通路の角を曲がって見えなくなった。
気のせいかもしれない。宮廷には来客も多い。見慣れない人間がいても不思議ではない。
でも、ヨハンに報告しておこう。念のために。
立ち上がって、メモを書いた。
ペンを置いた時、指先にインクがついていた。いつもの場所。右の中指。
次は何が来るのだろう。
考えても分からなかった。分からないものは、来てから対処するしかない。
それまでは——条約と婚姻法の条文を、もう少し読み進めておこう。
法令集を開いた。角の折れたページの続き。第三十条あたりで止まっていた。
まだ、第三十四条の二には届いていなかった。




