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買われた王子の忠誠が重すぎる件  作者: 秋月 もみじ


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第12話 庭園と噂


 噂は馬より速い。少なくともこの宮殿では。


 氷の月に入った頃から、東翼の廊下を歩いていて聞こえる声が変わった。


「第三王女殿下の復興事業、予算部会を通ったらしいですよ」


「レーヴェンの返還要求を退けたのも殿下だって。条約を引いて一発で」


「変わり者だと思っていたけど、やることはやるのね」


 俺についての陰口は減った。減ったというか、質が変わった。「買われた王子」は残っているが、そこに「使える」がくっついた。「あの人質殿、存外に使えるらしい」。人質ではなく夫だ、と訂正する気力は最初からないが。


 変わったのは殿下への評価だ。


 変わり者。東翼の書類虫。お人好し。それが少しずつ、実務派の王女、という言葉に置き換わりつつある。復興事業の成果と、返還要求を退けた外交文書。二つの実績が、宮廷の空気を動かし始めていた。


 その空気の変化を、誰よりも敏感に感じ取っているのは——。


 南翼の方角から、侍女たちの声が漏れてきた。


「第二王女殿下の茶会、最近は出席者が少ないって」


「カミラ殿下のお話は素敵だけど、最近は復興事業の話題のほうが宮廷では旬でしょう。アネリーゼ殿下に直接聞いたほうが早いもの」


 俺はその声を聞きながら、廊下を通り過ぎた。


 社交界は数字で動く。招待状の枚数。茶会の出席者数。宴席での席順。どれも目に見える形で序列を示す。殿下は社交に興味がないからそういうことに無頓着だが、姉のカミラは違うだろう。


 自分の茶会の出席者が減っていることに、気づいていないはずがない。


 だが、良いことばかりではなかった。


 同じ頃から、小さな問題が増えた。


 最初は書類の紛失だった。復興事業の月次報告書が、外務省への提出直前に行方不明になった。ヨハンが半日かけて探し、結局は通商省の文書棚に紛れ込んでいるのが見つかった。


「紛れ込むはずのない場所ですけどね」


 ヨハンの声は静かだったが、目が笑っていなかった。


 次に、物資の輸送遅延。旧街道経由で手配した第三便の出発が二日遅れた。理由は「荷馬車の手配が間に合わなかった」。だが御者の組合に確認したところ、手配の依頼自体が伝達されていなかった。途中で伝達が消えている。


 その次は、予算の執行承認の遅延。既に部会を通った予算の執行書類が、承認印を押す段階で止まっている。担当者は「確認中です」としか言わない。


 一つ一つは小さい。偶然で説明できなくもない。書類の紛れ込みは起きうる。伝達ミスもある。承認の遅延も珍しくはない。


 だが、三つ続くと話が違う。


 俺は軍人だ。補給路を断つ戦術を知っている。正面から攻めるのではなく、後方の物流を一つずつ詰まらせる。どれも致命的ではないが、積み重なると前線が動けなくなる。


 同じことが起きている。


 殿下の復興事業を、正面からは潰せない。条約の義務だから。だが側面から——手続きの遅延、伝達の断絶、書類の紛失——で事業を減速させることはできる。


 犯人は分からない。ルートヴィヒ殿下の派閥か。カミラ殿下の周辺か。あるいはもっと広い、宮廷全体の消極的な抵抗か。


 殿下に報告した。


「偶然が三回続いたら、それは偶然ではないと思います」


 殿下は少し考えて、頷いた。


「じゃあ、対策しましょう。書類は複写を二部作って別々に保管。物資の手配は伝達を二重系統にして、御者の組合に直接確認を入れる。予算の執行承認は、私が直接担当者に会いに行きます」


 対策は即座に出てきた。この人は手を打つのが速い。問題が見えたら動く。


 だが対策だけでは根本は変わらない。誰がやっているのかを特定しなければ、手口を変えてまた来る。


 俺は独自に動き始めた。


 書類が紛れ込んだ通商省の文書棚。俺が直接足を運んで、棚の場所を確認した。復興事業の報告書が入っていた棚は、通商省の文書整理係しか触れない場所だった。整理係は三人。そのうち一人が、ルートヴィヒ殿下の側近の親族だった。


 確定ではない。だが糸は見えた。


 殿下には詳細を話さなかった。もう少し確認してからにする。


 午後、庭園に出た。


 理由は特にない。——嘘だ。殿下が「今日は天気がいいから、子どもたちを外で遊ばせましょう」と言ったからだ。俺がついていく理由はないが、足が勝手に動いた。


 庭園の霜が溶けかけていた。朝は白く覆われていた芝が、午後の日差しで濡れた緑に変わっている。石畳の間から水が光っている。


 マルテがベンチの近くにしゃがんで、何かを摘んでいた。


 花だった。冬の初めに咲く小さな白い花。名前は知らない。レーヴェンにはない花だ。


 近づいた。


 マルテが顔を上げた。怯えなかった。目が合って、少し体が硬くなったが、逃げなかった。


「……何を摘んでいる」


「お花」


 短い答え。だが答えた。


「これ、アネリーゼ様にあげるの」


「……そうか」


「セレン様も摘む?」


 摘む。花を。


「……いや、俺は」


「手が大きいから大丈夫だよ。こうやって、根元のところを持って、ぱきって」


 マルテが実演した。白い花の茎を指で折る。ぱき、と小さな音。


 茎が短い。指に力が入りすぎたのだろう。花の頭がマルテの手の中に収まったが、茎は親指の長さほどしかない。


「……短くなった」


「大丈夫。短くても綺麗だよ」


 少し迷って、しゃがんだ。マルテの隣で。大きな手で小さな花を摘むのは、木彫りの馬を彫るのと同じくらい不器用な作業だった。


 何本か摘んだ。やはり茎が短い。


「セレン様」


「何だ」


「猫と犬、どっちが好き?」


「……なぜ急にそんなことを聞く」


「聞いてみただけ」


「……分からない。どちらも飼ったことがない」


「ふうん。私は猫がいい。もふもふだから」


 脈絡がなかった。だがマルテの会話は時々こうなる。


 マルテが小さく笑った。


 この子が笑うのを、初めて見た気がする。正確には、俺の前で笑うのを。


「セレン様、お花は下手だね」


「……ああ。下手だな」


「馬も下手だったもんね」


「…………」


 否定できなかった。


 二人で短い花を手のひらに並べていると、足音がした。


 殿下が庭園の通路を歩いてきた。子どもたちの様子を見に来たのだろう。他の子どもたちが走り回る中庭のほうから、こちらに向かってくる。


 こちらに気づいた。手を振った。


「セレン、マルテ、何をしているの」


「お花!」


 マルテが叫んだ。


「アネリーゼ様にあげるの!」


 殿下が笑って、足を速めた。


 石畳が濡れていた。霜が溶けた水。


 殿下の足がすべった。


 身体が前に傾いだ。


 反射だった。


 立ち上がって、一歩踏み出して、殿下の身体を受け止めた。片手が殿下の腕を掴み、もう片方の手が腰に回った。


 至近距離。


 殿下の顔が目の前にあった。灰色がかった緑の目が丸く開いている。髪がわずかに乱れて、頬にかかっている。


 息が近かった。


「す、すみません」


 殿下の声が上ずった。


 手を離した。即座に。腰に回した手を引いた。


 だが温度が残った。手のひらに。殿下の腰の——上着越しの温度が。


「……足元が濡れています。気をつけてください」


「はい。ありがとうございます」


 殿下が一歩下がった。俺も一歩下がった。距離を取った。適切な距離。名目上の夫婦の距離。


 マルテが二人を見上げていた。何か言いたそうだったが、言わなかった。代わりに短い花を殿下に差し出した。


「はい、アネリーゼ様」


「わあ、ありがとう、マルテ。かわいい」


 殿下が花を受け取った。短い茎の白い花。


「セレン様も摘んだんだよ」


「え、セレンも?」


「短くなっちゃったけど」


 殿下が俺を見た。花を見た。俺の手を見た。


 大きな手に、花を摘んだ跡はもう残っていない。だがマルテが証言してしまった。


「……暇だったので」


「ふふ。ありがとう」


 殿下が笑った。花を大事そうに持った。


 手のひらの温度が、まだ消えなかった。


 消えてほしかった。消えてくれないと困る。


 花を摘み終えて、殿下とマルテが中庭のほうへ戻っていった。


 俺は庭園に残った。少し歩いた。何となく、植え込みの裏手を確認したかった。軍人の癖だ。死角を潰す。


 植え込みの根元に、布切れが落ちていた。


 小さな布。手のひらに収まる大きさ。灰色の布地に、何かの紋章が染め抜かれている。


 拾い上げた。


 山の稜線。


 レーヴェンの紋章だった。


 布の端がほつれている。何かから引きちぎられたものだ。外套の裏地か、袖口の縫い付け紋か。


 宮廷の庭園に、レーヴェンの紋章がついた布が落ちている。


 偶然ではない。


 俺はこの宮殿に来る時、レーヴェンの紋章がついたものは何一つ持たされなかった。ヴェルディアの衣装を着せられた。リヒトの密書は私的なもので、紋章は小さな封蝋だけだ。布切れに染め抜くような紋章は、軍の外套か、外交使節の正装に使うものだ。


 密使。


 ディルクが送り込んだ人間が、この宮殿の中にいる。


 殿下が先日見たという「見慣れない人影」。ヨハンが注意していた宮廷内の動き。書類の紛失や伝達の消失が、密使の工作かどうかは分からない。だが、少なくともレーヴェンの人間がこの宮殿に入り込んでいることは確かだ。


 布切れを拳に握り込んだ。


 殿下に報告しなければならない。


 だが、同時に思った。これを殿下に見せれば、殿下はまた一つ問題を抱え込む。返還要求を退けたばかりだ。婚姻の実質の条件もある。復興事業の妨害もある。その上に密使の問題が加わる。


 殿下は全部を自分で背負おうとする。


 背負わせたくなかった。


 ——それは、名目上の夫が考えることではない。


 分かっている。分かっているが、手のひらにはまだ殿下の腰の温度が残っていて、拳の中にはレーヴェンの紋章が握られていて、この二つの感覚が同時にあることの意味を、俺はまだ考えたくなかった。


 庭園を出た。東翼に向かった。


 報告はする。殿下とヨハンに。それが正しい判断だ。


 感情の話は、また後でいい。

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