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買われた王子の忠誠が重すぎる件  作者: 秋月 もみじ


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13/25

第13話 夜の回廊


 日付が変わった頃、物音がした。


 執務室で書類を読んでいた。復興事業の第三便の出荷報告と、旧街道の補修見積もり。ヨハンは先に下がっている。セレンも自室に戻ったはずだ。


 一人の執務室は静かだった。燭台の灯りが揺れる。暖炉の薪がときどき爆ぜる。それ以外に音はない。


 あった。


 廊下の奥。足音とも言い切れない、かすかな音。石畳の上を何かが擦る音。


 顔を上げた。


 扉は半分開いている。いつもの癖だ。セレンに「防犯意識が低い」と言われるが、閉めると息が詰まるから開けておきたい。


 もう一度、音がした。今度は足音に近い。


 立ち上がった。


 廊下に出た。


 暗い。燭台は執務室のものだけで、廊下の壁掛け燭台は消えている。夜警が消して回ったのだろう。


 窓から月明かりが差していた。氷の月の月は白い。石畳に長い影が伸びている。


 回廊の向こうに、人影が見えた。


 一瞬、身体が強張った。密使。先日セレンが見つけた布切れ。レーヴェンの紋章。誰かがこの宮殿に入り込んでいる。


 人影が近づいた。


 大きい。背が高い。影の輪郭が——。


「殿下」


 セレンの声だった。


 息を吐いた。止めていたことに気づいた。


「……セレン。驚かさないでください」


「驚かせたのは殿下のほうです。こんな時間に廊下に出てくる人間がいるとは思わなかった」


「私だってこんな時間に廊下を歩いている人がいると思わなかったです」


 セレンが月明かりの中に立っていた。上着を着ている。寝巻きではない。帯剣もしている。


「何をしているんですか、こんな時間に」


「見回りです」


「見回り? 護衛は別にいますよ」


「……俺がやりたいからやっている」


 俺。


 俺、と言った。


 普段の「私」ではなく。


 セレンは言った瞬間に気づいたのだろう。わずかに表情が動いた。だが訂正はしなかった。


「密使の件があります。宮殿内にレーヴェンの人間がいるかもしれない。夜間の警備は手薄です。殿下の執務室は東翼の端で、夜警の巡回経路から外れている」


「だから見回りを」


「……そうです」


 自分で。一人で。夜中に。


 護衛をつけてくれと頼めばいいのに。セレンにはその権限がある。婚姻条項で身分保障を受けている以上、護衛の増員を要請する立場にある。


 でもこの人は、自分でやる。


「一緒に歩いてもいいですか」


「殿下は部屋に戻ってください」


「嫌です」


「…………」


 セレンが少し黙った。


「……殿下は本当に頑固だ」


「セレンに言われたくないです」


 並んで歩き始めた。


 夜の回廊。月明かり。石畳が冷たい。執務室から出る時にスリッパを履き替えなかったから、薄い室内履きのまま歩いている。足の裏から冷たさが伝わってくる。


 セレンの足音はほとんどしなかった。軍人だ。前線の夜間行軍で身についた歩き方だろう。私の足音のほうがずっと大きい。


「殿下、足音が」


「静かにしろって言いたいんでしょう。分かってます。でも私は軍人じゃないから、足音を消す訓練をしていないんです」


「……それは分かっていますが」


「むしろセレンの足音がしなさすぎて怖いです」


 セレンが小さくため息をついた。


 しばらく黙って歩いた。窓から月が見えた。満月に近い。回廊の柱が影を落とし、柱と柱の間に白い光が差している。


「……セレン」


「何ですか」


「夜の宮殿って、昼間と全然違いますね」


「……そうですか」


「静かで、広くて、少し怖い。でも綺麗」


 セレンがこちらを見た。月明かりの中で、灰色がかった青い目が少し銀色に見えた。


「殿下は、こういう時に怖いと綺麗を同時に言う」


「変ですか?」


「変ではない。ただ——」


 言いかけて、やめた。


 何を言おうとしたのだろう。聞きたかったが、聞かないほうがいい気もした。


 回廊を曲がった。東翼の端に近づいている。窓の外に中庭の木立が見えた。葉のない枝が月に透けている。


 セレンが足を止めた。


 俺も——私も、止まった。


「どうしたんですか」


「……静かに」


 声が変わった。低くなった。硬くなった。


 セレンの右手が腰の剣に触れた。柄を握る動作。ゆっくりと、音を立てずに。


「殿下、後ろに」


 左手が私の肩に触れた。軽く押す。自分の背中の後ろに、私を移動させる動き。


 身体が勝手にセレンの後ろに回った。心臓が速くなった。


 回廊の先に、影があった。


 人影。柱の陰に、動くものがあった。


 月明かりが一瞬、人影の顔を照らした。見知らぬ顔。宮廷の侍従でも侍女でもない。外套を羽織っている。暗い色の外套。フードを被っている。


 人影がこちらに気づいた。動きが止まった。


 それから、走った。反対方向に。


 セレンが動いた。


「気をつけろ」


 言い捨てて、走り出した。


 気をつけろ。


 敬語ではなかった。俺でも私でもなく、ただ短い命令形。


 セレンの背中が月明かりの中を駆けた。速い。足音がない。影が回廊の柱を滑るように追いかける。


 私はその場に立ったまま、壁に手をついた。


 足が冷たい。心臓がうるさい。


 回廊の先で、音がした。


 短い衝撃。何かがぶつかった。人が壁に押しつけられる鈍い響き。鞘が鳴る——剣を抜いたのではない。鞘で打ったのだ。


 それきり、静かになった。


 足を踏み出した。回廊を歩いた。走りたかったが、スリッパで走ると転ぶ。石畳が濡れているかもしれない。


 角を曲がった先に、セレンがいた。


 壁に人影を押さえつけていた。片手で相手の襟首を掴み、もう片方の手で腕をねじり上げている。相手は動けない。フードが外れて、若い男の顔が見えた。知らない顔。


 セレンの顔には表情がなかった。戦場の顔。庭園で花を摘んでいた時とは、全く別の人間に見えた。


「……殿下」


 セレンの声が戻った。敬語が戻った。


「この者が持っていたものを」


 床に書状が落ちていた。男が走った時に落としたものだ。


 拾い上げた。


 封は開いている。中を見た。


 手紙だった。差出人の名はない。だが文面に、レーヴェンの宮廷用語が混じっていた。


「——第三王女の婚姻は名目上のものであり、実体を伴わない。この情報をヴェルディア枢密院の然るべき人物に伝達されたし。婚姻の無効が申し立てられれば、身柄条項の差し戻しが可能になる」


 読み上げた。声が震えなかったのは、怒りのほうが先に来たからだ。


「然るべき人物」


 宮廷内の協力者。ディルクの密使と連絡を取り、婚姻の内部情報を外に漏らす人間がいる。


「この手紙の宛先は」


 捕らえた男は何も答えなかった。セレンが腕を少し強くねじった。


「……ドレ、セル……」


 ドレッセル。


 枢密院のドレッセル卿。王室会議で「品位を損なう」と主張した、カミラお姉様に近い人物。


 手紙を握りしめた。紙がくしゃりと鳴った。


 お姉様。


 まだ分からない。ドレッセル卿が関与しているとして、お姉様が直接指示しているかは分からない。ドレッセル卿が独自に動いている可能性もある。


 でも——。


 あの茶会の帰り際。「あの子の事業、もう少し調べておいて」。穏やかな声。


 あれは、何を調べていたのだろう。


「殿下」


 セレンの声。


「この者を護衛隊に引き渡します。書状は証拠として保全してください」


「……はい」


「それから」


 セレンの声が、少しだけ柔らかくなった。戦場の声から、いつもの声に。


「部屋に戻ってください。あとは俺が——」


 また。


 俺。


 セレンは気づいて、言い直さなかった。


「……あとは対処します」


「ありがとう、セレン」


「……感謝は不要です」


「不要でも言います。ありがとう」


 セレンが目を逸らした。男を押さえたまま。月明かりの中で、横顔が少し歪んだ。何か堪えているような、そうでないような。


「殿下は」


「はい?」


「……危機感がなさすぎる」


 低い声だった。苛立ちの混じった声。


「こんな時間に廊下に出て、密使の後を追いかけてくる。護衛もなしに。スリッパで」


「だって——」


「お前は——」


 止まった。


 呼吸を一つ置いた。


「あなたは、自分が狙われているという自覚がなさすぎる」


 お前、と言いかけた。あなた、に直した。でもその一瞬の「お前」が、セレンの本音の温度を伝えていた。


「……すみません」


「謝らなくていい。ただ、気をつけてほしい」


「気をつけます。でも——」


 言った。


「だってセレンがいるじゃないですか」


 セレンが黙った。


 長い間、黙った。


 月明かりの中で、男を壁に押さえつけたまま、セレンは黙って私を見ていた。


 私は自分が何を言ったのか、半分くらいしか分かっていなかった。セレンがいるから安心だ、という意味で言った。護衛がいるから大丈夫、というのと同じ意味で。


 ——同じ意味、だと思ったのだけれど。


 セレンの目が、何か違うものを受け取ったように見えた。


「……部屋に。戻ってください」


 声がざらついていた。


「はい」


 踵を返した。回廊を戻った。足元が冷たい。月明かりが白い。


 振り返りたかった。振り返らなかった。


 セレンの「お前」が、耳に残っていた。


 あの声の温度を、何と呼ぶのか。


 執務室に戻って、椅子に座った。


 手紙の内容が頭の中で渦巻いていた。密使。協力者。婚姻の内部情報の漏洩。ディルクの次の手。


 でもそれと同じくらい——あるいはそれ以上に——。


 「気をつけろ」と言ったセレンの声が、消えなかった。

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