第14話 傷と怒り
左の前腕を切っていた。
昨夜の密使を捕らえた時だ。男が懐から小刀を出した。暗がりで光が遅れて見えた。避けたが、外套の袖を裂かれた。その下の皮膚も少し。浅い傷だった。前線で受けた傷に比べれば、かすり傷にもならない。
夜のうちは気にしなかった。密使を護衛隊に引き渡し、書状を証拠として封をして、殿下を部屋に戻した後、自室で袖をまくって水で洗った。布を巻いて寝た。
朝になって、執務室に行った。
殿下がいた。
「おはようございます」
「おはよう。昨夜はお疲れ様でした。報告書は——」
殿下の目が、俺の左腕で止まった。
袖口から布が見えていた。巻き方が雑で、朝の間にずれてきたのだ。布の端に、うっすらと赤い染みがある。
「セレン」
「はい」
「それ、何ですか」
「何でもありません」
「何でもないものから血は出ません」
殿下が立ち上がった。机を回って、こちらに来た。俺の左手を取った。許可を求めなかった。当然のように。
袖をまくられた。
布を剥がされた。俺が昨夜、雑に巻いた布。その下に、浅い切り傷があった。血は止まっているが、傷口が少し赤い。
「……これ、昨夜の」
「密使が小刀を持っていた。大したことはありません」
「大したことはないって、血が出てるじゃないですか」
「止まっています」
「止まっていても、手当てしないと化膿します。薬を」
侍女を呼ぼうとした。
「殿下、必要ありません。自分で——」
「私がやります」
「…………」
「名目上の妻が夫の怪我を手当てして何が悪いんですか」
同じことを言われた。
最初の日と、同じ言葉。あの時は鎖の擦り傷だった。今は小刀の切り傷。傷の種類は違うが、殿下の態度は変わらない。
椅子に座らされた。殿下が薬箱を持ってきた。給湯室から清潔な布と水も。薬箱はいつもの上質なものではなく、東翼に常備してある簡易のものだ。布が少し粗い。急いで持ってきたから、選ぶ余裕がなかったのだろう。
殿下が俺の前にしゃがんだ。左腕を膝の上に載せて、傷口を水で洗い始めた。
冷たい。
水が冷たいのではない。殿下の指が——冷たいのでもない。むしろ温かい。小さな手が傷の周りを丁寧に拭いている。
「しみますか」
「いいえ」
嘘だ。しみる。だが痛みのせいで呼吸が乱れているのではなかった。
アネリーゼの指が傷口の縁に触れた。薬を塗る。軟膏の匂いがした。薬草と油の混じった匂い。前線の野戦病院を思い出す匂いだが、ここにあると別のものに感じる。
アネリーゼの頭が俺の腕のすぐ近くにあった。髪のにおいがした。インクと紙と、何か別の——殿下自身の匂い。
呼吸を整えた。前線で負傷兵に処置を受けている時は、こんなことにはならなかった。当然だ。軍医は殿下ではない。
「包帯巻きますね」
「……はい」
布を巻き始めた。
不格好だった。あの時と同じだ。最初の日に手首に巻いてくれた包帯と同じ、少しいびつな巻き方。四ヶ月以上経っているのに上手くなっていない。
上手くないのに、丁寧だった。一巻きずつ、きつすぎないか確認しながら巻いている。指先が布の上からも伝わる。
「セレン」
「何ですか」
「私を守ってくれてありがとうございます」
「……仕事です」
「仕事?」
「護衛として」
「護衛は仕事じゃないでしょう。セレンの仕事は復興事業の補佐です」
「……では、仕事外です」
「仕事外で怪我をさせてしまってすみません」
「殿下のせいではありません」
「密使が入り込んでいたのに気づけなかったのは、私の落ち度です」
「殿下の落ち度ではない」
声が少し強くなった。
殿下が顔を上げた。俺の腕を持ったまま。近い。目が合った。
「落ち度ではありません。密使の侵入は宮廷全体の警備の問題で、殿下一人の責任ではない」
「でも」
「でも、ではない」
敬語が薄くなっている。自分でも分かっていた。昨夜から、殿下の前での言葉遣いが少しずつ崩れている。崩れているのに直す気力が出ない。
殿下が小さく笑った。
「セレンって、怒ると敬語が減りますよね」
「……怒ってはいません」
「嘘」
嘘、と言われた。
嘘ではない。怒っているのではない。ただ——。
この手に守られている自分が嫌だった。
殿下が俺の傷を洗い、薬を塗り、包帯を巻いている。俺のために。俺を守ろうとして怪我をしたのではなく、俺が殿下を守って怪我をしたのだから、手当てをするのは筋が違う。
俺はこの手に守られる側ではなく、この手を守る側でいたい。
それだけのことだ。
「はい、できました」
包帯が巻き終わった。不格好な仕上がり。あの日と同じだ。
「……相変わらず、上手くはないですね」
「自覚はあります」
殿下が立ち上がった。指に軟膏がついていた。それを気にせず、薬箱を片づけ始めた。
俺は包帯を巻かれた左腕を見た。
最初の日の包帯は、手首だった。鎖の痕に巻かれた。
今日の包帯は、前腕。殿下を守って受けた傷に巻かれた。
場所が変わっている。関係も、変わっているのだろうか。
分からなかった。分かりたくなかったのかもしれない。
午前中に、国王への報告が行われた。
殿下とヨハンが報告に立ち、俺は同席した。密使の捕縛。書状の内容。ドレッセル卿宛てであったこと。
国王は黙って聞いた。
「書状の内容は確認した。ドレッセル卿の件は枢密院で審議する」
穏やかな声だったが、目は怒っていた。公正な王だ。だから裏切りを許さない。
「それと、密使がどのように宮殿内に侵入したかを調べよ」
調査の結果は昼過ぎに出た。
密使は東門から入っていた。東門の夜間警備を担当する文官が、通行記録を操作していた。その文官は——ルートヴィヒ殿下の側近の部下だった。
直接の指示があったかどうかは分からない。ルートヴィヒ殿下が密使の侵入を命じたとは考えにくい。だが、部下の不正を見過ごしていた——あるいは、黙認していた。
夕方、国王がルートヴィヒ殿下を呼び出した。
俺がその場にいたわけではないが、西翼の廊下を通った時に声が漏れてきた。
「……お前の部下の管理が行き届いていないということか、ルートヴィヒ」
「弁解の余地はありません、陛下」
「弁解ではなく、再発防止策を聞いている」
国王の声は穏やかだったが、空気が冷たかった。
ルートヴィヒ殿下の声は低く、硬かった。怒りを飲み込んでいる声。叱責されたことへの怒りではなく——おそらく、部下の不始末に対する怒りだ。あの人は自分の組織の統率が乱れることを最も嫌う。
俺は通り過ぎた。聞くべきではない会話だ。
翌日から、宮廷内の空気がまた変わった。
「あの敗戦王子が密使を捕まえたんですって」
「第三王女殿下を守って怪我までしたらしいですよ」
「名目上の夫にしては、ずいぶん熱心じゃない」
「名目上、ねえ。本当に名目だけなのかしら」
噂が回っている。
俺の評価が変わりつつある。「買われた王子」から「王女を守った王子」に。噂というのは不思議なもので、事実の輪郭を変えながら広がっていく。密使の小刀で浅くかすっただけなのに、噂の中では俺が剣で斬り合ったことになっている。
評価が上がること自体は、悪いことではない。殿下の婚姻の正当性を間接的に補強するからだ。
だが——。
「名目だけなのかしら」
その噂だけは、まずい。
名目ではない、と思われ始めている。俺と殿下の関係が。実際には名目上の夫婦だ。同衾はしていない。公式宣誓もしていない。法的には「婚姻の実質」はまだない。
だが行動が、名目を超えつつある。
夜の回廊を巡回する。密使を捕縛する。殿下の傷を。いや、殿下が俺の傷を手当てする。果物を皿に載せる。花を摘む。苦い茶を入れすぎる。
一つ一つは小さい。だが積み重なれば、外から見ている人間には。
ヨハンが昼食の席で何気なく言った。
「セレン様、最近は殿下の護衛も兼ねていらっしゃるんですね」
「護衛ではありません」
「ああ、そうですか。では何と呼べばいいんでしょう」
「……復興事業の補佐です」
「補佐が夜間巡回はしませんよ」
反論できなかった。
ヨハンが茶を飲んだ。何も言わなかった。だが目が笑っていた。あの書記官は全部見えている。
夜。自室に戻った。
寝台に座った。左腕の包帯に触れた。不格好な巻き方。アネリーゼの指の温度の残像。
これは忠誠ではない。
認めなくてはならなかった。
主を守りたいから傷を負ったのではない。あの人を——アネリーゼアネリーゼを——失いたくないから、身体が動いた。密使の小刀の前に出たのは、軍人の反射ではなく、もっと個人的な何かだった。
忠誠なら、もっと冷静でいられるはずだ。命令に従って動く。判断は合理的に下す。感情が混じらない。
混じっている。
全部に。
殿下の指が傷に触れた時の呼吸の乱れ。殿下の髪の匂い。「名目上の妻が夫の怪我を手当てして何が悪いんですか」という声。庭園で腰に触れた温度。「だってセレンがいるじゃないですか」。
全部に、混じっている。
これは忠誠ではない。もっと厄介なものだ。
名前をつけたくなかった。つけた瞬間、引き返せなくなる。名目上の夫が、名目上ではなくなる。買われた人質が、買い手に——。
やめた。
考えるのをやめた。寝台に横になった。天蓋を見上げた。
新品だった天蓋の布が、四ヶ月の間に少しだけ色褪せていた。
この部屋にも、時間が経っている。
あと七ヶ月。婚姻の期限まで。
殿下はまだ、第三十四条の二にたどり着いていない。
言わなければならない。そろそろ。
でも——。
殿下に「形式的なものですし」と言われるのが怖いのではなく、殿下に「形式的なものではない」と言ってほしいのだと、自分が気づき始めていることが、怖かった。
眠れなかった。
寝台に横になる。広い。広いのに、狭い。




