第15話 剣と自問
眠れなかった夜の翌朝は、身体を動かすに限る。
訓練場は東翼の裏手にあった。宮殿の護衛騎士たちが朝の鍛錬に使う場所だ。砂を敷いた長方形の広場に、木製の打ち込み台と練習用の剣が並んでいる。
朝の空気が冷たかった。芽吹きの月とはいえ、夜明け直後はまだ冬の名残がある。息が白い。砂の匂いがした。乾いた、少し鉄の混じった匂い。レーヴェンの訓練場と同じ匂いだ。剣を振る場所の匂いは、どこの国でも似ている。
練習用の剣を手に取った。木剣ではなく、刃を潰した鉄剣。重さは実戦に近い。柄を握った。掌に馴染む。これだけは四ヶ月経っても変わらない。剣を持つと、余計なことを考えなくて済む。
打ち込み台に向かった。
振った。
一打。二打。三打。
身体が温まるにつれて、昨夜の残像が薄れていく。殿下の指。軟膏の匂い。包帯。天蓋。眠れなかった寝台。
もっと強く振った。
打ち込み台が揺れた。砂が跳ねた。
「——随分と激しいな」
声がした。
振り返ると、騎士が三人、訓練場の入り口に立っていた。護衛騎士の朝の鍛錬組だろう。先頭の男は体格が良く、顎に古い傷痕がある。
「敗戦の王子殿。朝から精が出ることだ」
敗戦の王子殿。まだそう呼ぶ人間はいる。
「……鍛錬の邪魔をしていますか」
「いいや。打ち込み台は余っている。だが——」
顎の傷の騎士が、練習用の剣を手に取った。
「打ち込み台より、生身の相手のほうが身になるだろう」
手合わせの誘い。あるいは試し。
断る理由はなかった。
「お願いします」
向かい合った。
騎士は俺より体格が大きい。リーチも長い。ヴェルディアの騎士は平地の戦い方をする。馬上戦と、広い場所での斬り合い。レーヴェンの山岳戦とは流派が違う。
騎士が仕掛けてきた。右からの横薙ぎ。大振りだが速い。力がある。
半歩退いて避けた。剣先が鼻の前を通り過ぎた。
反撃はしなかった。一合目は相手を見る。流派、癖、重心の位置、踏み込みの深さ。
二合目。騎士が上段から振り下ろした。受け止めた。衝撃が腕に来た。力は強い。だが足元が少し開きすぎている。
三合目で仕掛けた。
山岳戦の剣術は、地形を使う。平地にいても、身体を地形にする。低く沈んで相手の懐に入る。リーチの差を無効化する。
騎士の剣の下をくぐった。懐に入った。柄で胴を打った。軽い打撃。だが実戦なら脇腹に刃が入っている。
騎士が息を呑んだ。
「……もう一本」
「どうぞ」
二本目は、もう少し長くかかった。騎士が警戒を上げたからだ。だが結果は同じだった。低い姿勢からの突きを見切れず、騎士の剣が弾かれた。
残りの二人が顔を見合わせた。
「俺もやらせてくれ」
二人目が前に出た。こちらは速さに優れるタイプだった。細身で、足さばきがいい。連撃が速い。
速い相手には、速さで返さない。間合いを殺す。一歩だけ前に出て、相手の得意な距離を潰す。
五合まで打ち合った。三合目で相手の突きが肩をかすめた。速い。俺の間合いの外から入ってくる。六合目でようやく捉えた。足元を崩して、剣先を喉元に。
三人目は慎重だった。じりじりと間合いを探り、容易に仕掛けてこない。いい判断だ。だが慎重すぎると先手を取れない。
待った。相手が痺れを切らして踏み込んだ瞬間、足を払った。バランスを崩した相手の首元に、剣先を止めた。
訓練場が静かになった。
顎の傷の騎士が、砂を払いながら立ち上がった。
「……強いな」
「鍛錬のおかげです」
「謙遜するな。山岳戦の剣術か。見たことがない型だった」
「レーヴェンでは、これが標準です」
「標準で、これか」
騎士が笑った。嫌味のない笑い方だった。
「あの王女殿下が手放さないわけだ」
手放さない。
その言い方が、少し引っかかった。
騎士たちが去った後、訓練場に一人残った。汗で湿った剣の柄を拭いた。朝日が砂の上に影を伸ばしていた。
強い、と言われた。
それはいい。剣の腕は、俺が持っている数少ない確かなものの一つだ。
だが「手放さない」という言葉が残った。殿下が俺を手放さないのは、俺が使えるからだ。復興事業の補佐。地理の知識。築城の技術。そして今は、剣の腕。
有用だから、ここにいる。
——それだけか?
頭を振った。剣を片づけた。
訓練場から東翼に戻る途中、中庭でマルテに会った。
マルテは石段に座って、木彫りの馬を膝に載せていた。鼻先の欠けた、あの馬。もう何週間も持ち歩いている。
「セレン様、汗かいてる」
「訓練をしていた」
「剣?」
「ああ」
「強い?」
「……まあ」
マルテが馬の頭を指でなぞった。
「セレン様」
「何だ」
「セレン様は、アネリーゼ様のこと好きなの?」
足が止まった。
マルテの目は無邪気だった。悪意はない。子どもの純粋な疑問。AはBのことが好きなのか、という。
「……なぜ、そう思う」
「だって、いつもアネリーゼ様のそばにいるもん」
「仕事だ」
「お仕事の時も、ご飯の時も、お庭の時も?」
「…………」
「お花も一緒に摘んでたし」
あれは——あれは暇だったからだ。
「マルテ」
「うん?」
「好き、というのは、どういう意味だ」
「え? 好きは好きだよ。一緒にいたいってことでしょ」
一緒にいたい。
十歳の子どもの定義は、単純で、正確だった。
「……分からない」
「分からないの?」
「分からない」
「ふうん。大人って変なの」
マルテは馬の鼻先をもう一度なぞって、石段を降りて走っていった。
俺はしばらく、マルテがいた石段を見ていた。
昼食の席で、ヨハンが言った。
「セレン様、今朝の訓練のこと、もう噂になっていますよ」
「……何が」
「護衛騎士三人を相手に全勝したらしいですね。しかも流派が違う剣術で。宮廷では『あの敗戦王子、強い』と」
「敗戦王子は変わらないのか」
「まあ、そこは。でも語尾についてくるものが変わりましたよ。前は『あの敗戦王子、不気味だ』でしたが、今は『あの敗戦王子、強い』。進歩です」
進歩なのかどうかは分からなかったが、ヨハンがそう言うなら社交界的にはそうなのだろう。
「それとですね」
ヨハンが茶を飲んだ。一口飲んで、カップを置いて。
「あなた、最近アネリーゼの周囲を回る衛星みたいですよ」
「……衛星とは何だ」
「ずっと同じ人の周りを回っているという意味です。朝の訓練も、突き詰めれば殿下を守れる体を維持するためでしょう。夜の巡回、書類の補佐、子どもたちの世話、密使の捕縛。全部、殿下を中心に回っている」
「……復興事業の補佐だ」
「補佐という言葉の定義が、ずいぶん広くなりましたね」
反論したかった。だが反論の材料がなかった。
ヨハンの観察は正しい。俺の行動を並べてみれば、すべてが殿下を中心に配置されている。朝は訓練で身体を作り、昼は殿下の隣で書類を片づけ、夜は回廊を巡回する。食事は殿下と取り、庭園にも殿下が行くから行く。
衛星。
確かに、同じ人の周りを回っている。
「ヨハン」
「はい」
「それは、問題か」
「問題かどうかは私が決めることではありません。ただ、殿下はたぶん気づいていませんよ。あの方は自分に向けられた好意に関しては致命的に鈍いので」
好意。
ヨハンはその言葉をさらりと使った。好意と。
「……好意ではない」
「ああ、そうですか。では何と呼びますか」
「…………」
「名前をつけたくないなら、つけなくていいですよ。ただ、周りはとっくに見えていますから」
ヨハンはそれ以上言わなかった。茶を飲み終えて、書類を持って立ち上がった。
一人になった食卓で、冷めたスープの表面を見ていた。
周りはとっくに見えている。
騎士は「手放さないわけだ」と言った。マルテは「好きなの?」と聞いた。ヨハンは「衛星」と呼んだ。
俺だけが、名前をつけていない。
午後、部屋に戻ると手紙が置かれていた。
今度の封蝋はレーヴェンの紋章ではなかった。ヴェルディア王室の印。差出人は——カミラ・フォン・ヴェルディア。第二王女。
開けた。
「セレン殿。少しお話ししたいことがございますの。お時間をいただけないかしら」
丸い字。丁寧な文面。薄桃色の便箋。
殿下の姉だ。社交界の花。
会ったことはほとんどない。宮廷ですれ違う程度。だが殿下がこの姉をどう見ているかは知っている。優しい姉。少し距離のある姉。時々心配してくれる姉。
ヨハンがこの姉をどう見ているかも知っている。情報収集が上手い姉。
密使の書状の宛先はドレッセル卿だった。ドレッセル卿はカミラ殿下に近い。
因果関係は証明できない。だが、配置は見えている。
茶会に応じるべきか。
断れば不自然だ。名目上の義姉に招かれて断るのは、宮廷の礼儀に反する。だが応じれば、何を聞かれるか分からない。何を探られるか分からない。
殿下に相談すべきだろうか。
——いや。殿下はこの姉を信じている。優しい姉だと。相談すれば「お姉様が会いたいんなら会ってあげてください」と言うだろう。
一人で判断する。
便箋を閉じた。
返事を書いた。「お招き、ありがたくお受けいたします」
警戒しながら行く。何を聞かれても、必要以上のことは答えない。殿下の情報は渡さない。
俺は殿下の衛星だ。
——衛星。
ヨハンの言葉が、妙に頭に残っていた。




