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買われた王子の忠誠が重すぎる件  作者: 秋月 もみじ


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第16話 姉の本性


 ヨハンがお茶を淹れながら言った。


「殿下、今日の午後、セレン様はカミラ殿下の茶会に出席されるそうです」


 ペンが止まった。


「お姉様の?」


「ええ。招待状が届いていたようで。セレン様から今朝、お聞きしました」


「……そう」


 知らなかった。セレンがお姉様の茶会に招かれていたことを。


 招待状はいつ届いたのだろう。昨日? 一昨日? セレンは何も言わなかった。言う必要がないと思ったのか、言わないほうがいいと思ったのか。


「殿下」


「うん?」


「お気になさいますか」


「気にしないわ。セレンの自由ですから」


 自由だ。セレンは誰と茶を飲んでもいい。名目上の妻に許可を取る必要はない。お姉様だって、義弟——名目上の義弟を茶会に呼ぶくらい、何もおかしくない。


 ペンに戻った。書類の数字を追った。


 追えなかった。


 数字が頭に入らない。さっきから同じ行を三回読んでいる。


「殿下」


「何」


「インク、つけすぎです。書類に染みが」


「あ」


 ペン先からインクが落ちて、予算書の欄外に黒い点ができていた。拭いた。余計に広がった。


「……書き直します」


「そうしてください」


 ヨハンの声は平坦だった。何も聞かなかった。何も言わなかった。


 ありがたかった。


 午後、セレンが南翼に向かった。


 窓から見えた。中庭を横切って、南翼の入り口に消えていく背中。上着を整えている。髪を少し気にしている。——いつもは気にしないのに。


 仕事に戻った。


 戻ろうとした。


 法令集を開いた。婚姻法の続き。第三十二条。婚姻の無効に関する条項がそろそろ出てくるはずだ。今日こそ見つけたい。


 文字を追った。


 追えなかった。


 お姉様はセレンに何を話すのだろう。社交の話か。宮廷の噂話か。それとも——。


 何を気にしているのだろう、私は。


 セレンは自由だ。誰と話してもいい。お姉様は優しい人だ。義弟に気を遣ってくれているのかもしれない。宮廷に馴染めるように、社交界の作法を教えてくれるのかもしれない。


 そうだ。きっとそういうことだ。


 法令集のページをめくった。第三十三条。


 セレンが茶会から戻る前に、噂が先に届いた。


 侍女が執務室に書類を届けに来た時、もう一人の侍女と廊下で話していた声が聞こえた。


「聞いた? カミラ殿下の茶会で、すごいことがあったらしいわよ」


「何?」


「あのレーヴェンの王子に、カミラ殿下が直接——」


 声が遠ざかった。侍女たちが角を曲がったからだ。


 続きは聞こえなかった。


 何が「すごいこと」なのか。お姉様が何を「直接」したのか。


 胸の奥がざわついた。不安とは違う。もっと漠然とした、名前のない感情。


 仕事に集中しようとした。無理だった。


 夕方、セレンが東翼に戻ってきた。


 執務室の扉を開けて入ってきた時、表情はいつもと変わらなかった。無表情。感情の読めない顔。


 でも、何かが違った。


 歩き方が少し硬い。肩の力が入っている。訓練場で騎士と斬り合った後のような——緊張の残り方。


「おかえりなさい」


「……ただいま戻りました」


「お姉様の茶会、どうでしたか?」


 聞いた。聞かずにはいられなかった。


 セレンが椅子に座った。一拍、間があった。


「殿下に報告すべきことがあります」


 報告。茶会の感想ではなく、報告。


「お姉様が?」


「カミラ殿下から提案を受けました」


「提案?」


 セレンが私を見た。まっすぐに。


「殿下との婚姻を無効にして、カミラ殿下と再婚すれば、私をもっと相応しい立場に引き上げてやれる、と」


 言葉が、少し遅れて届いた。


 婚姻を無効にして。


 カミラ殿下と再婚。


 もっと相応しい立場に。


「……お姉様が?」


「はい」


「お姉様が、そういうことを……」


 声が震えそうになった。堪えた。


 お姉様。優しいお姉様。茶会で「無理しすぎないでね」と言ってくれたお姉様。「あなたなら大丈夫よ」と笑ってくれたお姉様。


 その人が、セレンに——私の夫に——再婚を提案した。


「殿下」


 セレンの声が少し柔らかくなった。


「お断りしました」


「…………」


「丁寧に、しかし明確にお断りしました。私の妻はアネリーゼ殿下です、それ以外の提案は不要です、と」


 私の妻はアネリーゼ殿下です。


 その言葉を聞いて、胸の奥のざわつきが止まった。止まって、代わりに別の何かが広がった。温かいような、苦いような。


「カミラ殿下はどんな反応を」


「表情を崩されませんでした。『そう、残念ね』とだけ。ただ——」


 セレンが少し言いよどんだ。


「帰り際に侍女と話していた声が聞こえました。『あの子にはもったいないわ』と」


 あの子。


 私のことだ。


 もったいない。セレンが、私には。


「……そう」


 それだけ言った。


 泣きそうではなかった。怒りでもなかった。ただ、自分が信じていたものの形が、静かに変わっていく感覚があった。


 お姉様は優しかった。ずっとそう思っていた。


 でもあの優しさの下に、何があったのだろう。


 茶会で復興事業の話を聞いてくれたのは、成果を評価してくれたからではなく、情報を集めていたからだ。招待状の後に侍女に「調べておいて」と言ったのは、興味ではなく偵察だったのだ。


 全部、繋がった。ヨハンの「心配されたのか、観察されたのか」。セレンが廊下で「何かあったのか」と聞いた理由。


 分かっていた人たちがいた。私だけが、分かっていなかった。


「殿下」


「うん」


「……申し訳ありません。殿下の家族のことについて、私が口を出すべきではないかもしれませんが」


「いいんです。報告してくれてありがとう」


「殿下がカミラ殿下を信じておられたことは——」


「知っています。信じていました」


 過去形で言った。


 自分でも驚いた。信じていた。もう過去なのか。


 いや——信じることをやめたのではない。信じていたものの形が、思っていたのと違っただけだ。


 お姉様は優しい。それは嘘ではなかったかもしれない。ただ、優しさの宛先が私ではなかっただけで。


 夕食の後、執務室で書類を片づけていた。


 セレンがいた。いつもの席。赤い修正線のペンを手に持って、輸送計画の数字を確認している。


 普段と同じ光景。でも今日は少し空気が違った。重いのではなく、静かなのでもなく。何かが決まった後の空気。


「セレン」


「はい」


「お姉様の茶会のこと、宮廷で噂になっていますか」


「……なっているようです」


「どんな噂?」


 セレンが少し間を置いた。


「姉王女が妹の夫に再婚を持ちかけて断られた、と」


「……そう」


「殿下のお姉様の立場が悪くなるかもしれません。それについては——」


「気にしません」


 即答した。自分でも驚くほど、迷いがなかった。


「お姉様が自分でやったことです。結果も自分で引き受けるべきです」


 セレンが俺を——私を見た。少し驚いた顔。


「……殿下は、時々はっきり言いますね」


「最近覚えました」


「誰に」


「あなたに」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。目を逸らした。書類に視線を戻した。


 セレンが黙った。しばらく。


「殿下」


「はい」


「俺は——」


 止まった。「俺」が出た。訂正しなかった。


「どこにも行きません」


 静かな声だった。力んでいない。宣言というよりも、確認するような。


 どこにも行かない。


 カミラ殿下の提案を断った。ディルクの返還要求を退けた。訓練場で騎士たちに認められた。この宮殿に、自分の場所を作り始めている。


 その上での、「どこにも行かない」。


 言葉が出なかった。


 何か言わなくてはいけない。何を言えばいいのか分からなかった。


「……契約がありますからね」


 口から出た言葉は、それだった。


 契約。条約。婚姻条項。法的な根拠。セレンがここにいる理由の、法的な説明。


 セレンの表情が、一瞬だけ動いた。


 何かが引っ込んだ。出しかけたものを、引っ込めた顔。


「……ええ。契約がありますから」


 繰り返した。同じ言葉を。でも声の温度が少し下がった。


 私は何か間違えた、と思った。


 何を間違えたのか分からない。セレンが「どこにも行かない」と言ってくれた。私は嬉しかった。嬉しかったのに、口から出たのは「契約」だった。


 なぜ。


 なぜ、もっと別のことが言えなかったのだろう。


 ありがとう、とか。嬉しい、とか。私も、とか。


 言えなかった。


 怖かったのだ。何が怖いのかは分からない。ただ、セレンの「どこにも行かない」を正面から受け止めたら、何かが変わってしまう気がした。変わるのが怖かった。


 名目上の夫婦。その枠が、居心地が良かった。安全だった。


 安全な場所にいたまま、セレンの言葉だけを受け取ろうとした。


 それは、ずるい。


 気づいていたが、直せなかった。


「……殿下」


「はい」


「法令集、もう少しで該当箇所に届きますか」


「え? ああ、婚姻の実質の条文。あと少しだと思うんだけど、条文が多くて」


「……見つかったら、教えてください」


「もちろん」


 セレンがペンに目を戻した。赤い線を引く。いつもの動作。いつもの横顔。


 でも今日は少しだけ、その横顔が遠く見えた。


 自分のせいだと、分かっていた。


 窓の外で、芽吹きの月の風が鳴っていた。冬が終わりかけている。春が近い。


 婚姻から七ヶ月。


 期限のことを、私はまだ正確に知らなかった。

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