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買われた王子の忠誠が重すぎる件  作者: 秋月 もみじ


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第17話 ほどける糸


 最近、鏡を見ていない。


 朝、水で顔を洗って、髪を結んで、上着を羽織って、執務室に行く。鏡の前に立つ時間がない。正確には、時間はあるが、立つ気がない。鏡を見たら目の下の隈が見えるだろう。見えたら気にしなくてはならない。気にする余裕がない。


 花の月に入って、復興事業は軌道に乗り始めていた。


 第三便までの物資が予定通りに届いた。旧街道の補修が始まった。教会区との連絡体制が整った。孤児たちの生活も安定してきた。予算部会を通った資金が執行され始めている。


 宮廷の評価も変わった。「変わり者の王女」は、いつの間にか「実務派の王女」になっていた。廊下ですれ違う文官が、以前より丁寧に頭を下げるようになった。


 良いことだ。全部、良いことだ。


 ただし、私の身体は良くなかった。


 昼食を抜いた。一度ではない。三日続けて。食堂に行く時間があれば書類を一枚片づけられる。パンを一切れかじりながら予算書を読めば、食事と仕事を同時にこなせる。効率的だ。


 夜は遅くまで法令集と格闘していた。婚姻法の第三十三条付近。まだ「婚姻の実質」の具体的条件にたどり着かない。条文が多すぎる。但書が長い。


 睡眠は——四時間。いや、三時間の日もあった。


 異変に最初に気づいたのは、マルテだった。


「アネリーゼ様、顔が白い」


 朝食の席で言われた。マルテの目は正直だ。


「大丈夫よ。少し寝不足なだけ」


「嘘。ずっと白い。昨日も白かった」


「マルテ」


「ご飯、食べてる?」


 質問が的確すぎた。十歳の子どもに食事を問われて、答えに詰まった。


「……食べてるわよ」


「嘘」


 マルテの「嘘」は容赦がなかった。


 セレンが黙ってパンを一切れ、私の皿に置いた。目が合った。何も言わなかった。だが目が言っていた。食べろ、と。


 食べた。パンは少し硬かった。噛むのが面倒だった。でも食べた。


 三日後。


 執務室で書類を読んでいた。午後の日差しが窓から差し込んで、机の上に光の四角が落ちていた。温かい。温かいと眠くなる。


 ペンが滑った。


 目が閉じかけた。


「殿下」


 セレンの声で目が覚めた。


「起きています」


「今、寝かけていましたが」


「寝かけていません。考え事をしていただけです」


「考え事をしている人は、ペンを落としません」


 ペンが床に落ちていた。拾った。


「殿下」


 セレンの声の温度が変わった。低くなった。


「昼食を抜いているでしょう」


「抜いていません」


「パンを一切れかじっただけでしょう」


「……パンも食事です」


「食事ではない。それから昨夜は何時に寝ましたか」


「……二時頃」


「一昨日は」


「……三時」


「その前の日は」


「覚えていません」


 セレンが立ち上がった。椅子を引く音が鋭かった。


「体を壊します」


「壊しません」


「壊します。今の殿下は顔色が悪い。目の下に隈がある。手が震えている」


 手を見た。震えてはいなかった。。いや、わずかに。ペンを持つ指先がかすかに揺れていた。気づいていなかった。


「大丈夫です」


「大丈夫ではない」


「大丈夫です。私が自分のことは一番よく分かっています」


「分かっていない」


 セレンの声が上がった。


「お前は自分を大事にしなさすぎる」


 お前。


 また、「お前」が出た。


「食事を抜いて、眠らず、身体の異変に気づかない。それで大丈夫だと言い張る。昔からそうなのか? それとも誰にも止めてもらえなかっただけか」


 止めてもらえなかった。


 その言葉が、思ったよりも深く刺さった。


「……セレン」


「はい」


「私のことは、私が決めます」


 声が硬くなった。自分でも分かった。


「あなたに命じられる筋合いはありません」


 セレンが黙った。


 冷たい空気が流れた。執務室の暖炉は燃えていたが、二人の間の温度だけが下がった。


「……そうですか」


 セレンの声が引いた。元の敬語に戻った。「俺」も「お前」も消えて、硬い「私」と「殿下」だけが残った。


「失礼しました。出過ぎた真似を」


 立ち上がって、扉に向かった。


「今日の書類は、ヨハン殿に預けておきます」


 扉が閉まった。


 セレンが扉を閉めたのは、初めてだった。


 いつも半分開いている扉が、完全に閉まった。


 執務室に一人になった。


 暖炉の火が爆ぜた。


 冷めた茶が机の上にあった。セレンが淹れてくれたものだ。一時間前に。もう冷えきっている。


 それを飲んだ。


 苦かった。冷たくて、苦くて、不味かった。


 不味い茶を飲みながら、泣きそうになった。泣かなかった。泣く理由がない。私は正しいことを言ったはずだ。自分のことは自分で決める。誰にも命じられない。それは——正しい。


 正しいのに、みぞおちが重かった。


 翌日から、セレンが執務室に来なかった。


 書類はヨハン経由で届いた。赤い修正線は入っていた。仕事はしている。ただ、同じ部屋にいない。


 食事も別々に取った。セレンは自室で食べているらしい。


 日が過ぎた。数えたくなかった。


 マルテが食卓で言った。泣きそうではなかったが、真剣だった。


「アネリーゼ様とセレン様、けんかしたの?」


「けんかじゃないわよ」


「嘘。二人とも変だよ。ご飯も一緒に食べないし」


 嘘、と言われた。マルテの「嘘」には勝てない。


「……少しだけ、意見が合わなかっただけ」


「仲直りしないの?」


「仲直りって——」


「セレン様、廊下でぼうっとしてたよ。いつもアネリーゼ様のお部屋のほうを見てた」


 廊下で。


 いつもの場所で。


 部屋のほうを見て。


「マルテ、ありがとう」


「?」


「教えてくれて、ありがとう」


 マルテは首をかしげた。何を教えたのか分かっていないだろう。


 分かっていたのは、私が意地を張っているということだ。


 何日目だったか。数えていなかった。


 書庫に法令集を返しに行った。廊下を曲がったところで、


 セレンがいた。


 法令集を片手に、同じ書庫に向かっているところだった。鉢合わせた。


 二人とも足を止めた。


 法令集を抱えたまま、向かい合った。


「……殿下」


「セレン」


 同時だった。


「先に言わせてください」


 セレンが口を閉じた。


「ごめんなさい。意地を張りました」


 頭を下げた。


「あなたが心配してくれていたのは分かっていました。分かっていて、突っぱねました。自分のことは自分で決めるって——それは本当です。でも、心配してくれる人を追い払う理由にはならなかった」


 顔を上げた。


 セレンの表情が、少しだけ崩れていた。崩れた、という表現が正しいか分からない。いつもの無表情の殻に、小さなひびが入ったような。


「……殿下」


「うん」


「命じたかったのではありません」


 声が低かった。


「心配しているんです」


 言い直した。命令ではなく、心配。


「殿下が食事を抜いていると、落ち着かない。殿下が眠れていないと、俺も——」


 止まった。飲み込んだ。


「……とにかく、心配しています。それだけです」


 不器用だった。


 この人はいつも不器用だ。花を摘めば茎が短くなるし、馬を彫れば鼻が欠ける。感情を言葉にすれば途中で止まる。


 でも嘘がない。


「ありがとう。心配してくれて」


「……感謝は」


「不要でも言います」


 前に交わした言葉だ。密使を捕まえた夜。


 セレンの目が少し緩んだ。ひびが広がるように。


「……殿下」


「うん」


「食事は、一緒に取りませんか」


「……取りましょう」


「マルテが心配しています」


「マルテが」


「二人とも変だよって泣きそうでした」


「…………」


 セレンが視線を逸らした。罪悪感がある顔。マルテに対して。


「すぐ食堂に行きましょう。マルテも呼んで」


「……ええ」


 並んで歩き始めた。


 何日ぶりだろう。セレンの隣。足音のない歩き方。


 廊下の窓から、花の月の夕日が差し込んでいた。


「セレン」


「はい」


「このまま続けばいいのに」


 呟いた。考えるより先に。


「何が」


「……全部です」


 全部。仕事のこと。食卓のこと。この廊下を並んで歩くこと。


 セレンが何か言おうとした。口を開いて——。


「殿下!」


 ヨハンの声が廊下の向こうから飛んできた。走っている。ヨハンが走ることは滅多にない。


「殿下、外交文書が届きました」


「外交文書?」


 ヨハンが息を切らして書類を差し出した。


「レーヴェンからです。ディルク殿下の名義で。——殿下、内容をお読みください」


 受け取った。開けた。


 読んだ。


「……白い結婚」


 声がかすれた。今度は堪えられなかった。


「ディルク殿下が、ヴェルディア枢密院に情報を提供しています。第三王女の婚姻は名目上のものであり、婚姻の実質がないと。情報提供の形式で、外国王族としての正式な申し立てではなく——」


「枢密院への情報提供。申し立ては不可でも、情報提供はできる」


 セレンの声だった。冷静だった。戦場の声に戻っていた。


「誰が漏らしたのですか」


 ヨハンが言った。


「カミラ殿下の侍女です。茶会の席で——カミラ殿下がセレン様に再婚を提案された際に、同席していた侍女が外部に情報を流した形跡があります」


 お姉様の侍女。


 あの茶会で。


「……お姉様が」


「直接の指示かどうかは不明です。ですが——」


「分かっています」


 分かっていた。もう。


 優しいお姉様の仮面の下にあったもの。茶会で情報を集め、再婚を持ちかけ、断られた腹いせに——あるいは計画通りに——婚姻の内部情報を外に流した。


 セレンが俺の——私の隣にいた。


「殿下。対策を」


「……うん。対策を立てます」


「先に食事を」


「え?」


「食事を。先に。マルテが待っています」


 セレンの顔は、さっきまでの不器用な柔らかさが消えて、硬い判断の顔になっていた。


 でも「先に食事を」と言った。


 心配しているんです、と。さっき言った言葉。


「……そうですね。先に食事を」


 外交文書を抱えたまま、食堂に向かった。


 マルテが待っていた。三人の席が用意されていた。ヨハンの分もあった。


 食べた。


 パンはまだ少し硬かったが、今日は最後まで食べた。


 隣でセレンが、黙って梨を剥いていた。

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