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買われた王子の忠誠が重すぎる件  作者: 秋月 もみじ


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18/25

第18話 漏洩


 噂は、朝のうちに宮殿を一周した。


「第三王女の婚姻は名ばかりらしい」


「白い結婚ですって。夫婦の実体がないそうよ」


「枢密院に情報が入ったって。レーヴェン側からの提供だとか」


 廊下を歩くだけで聞こえた。壁の向こう、控えの間、階段の踊り場。どこにいても同じ話が漏れてくる。宮廷の噂は風より速い。それを嫌というほど知っている。


 白い結婚。


 事実だ。同衾はしていない。婚姻継続の公式宣誓もしていない。名目上の夫婦。最初からそう約束していた。


 だが「事実」と「武器」は違う。


 ディルクが使ったのは剣ではない。情報だ。返還要求で条約の論理戦に負け、密使の潜入も失敗した。正面からも側面からも崩せないなら、内部に亀裂を入れる。ヴェルディアの枢密院に「婚姻に実体がない」という情報を流し、国内から婚姻無効の申し立てを起こさせる。


 外国王族からの申し立ては婚姻法上不可だが、情報提供には制限がない。枢密院の構成員がその情報を受けて「申し立てを検討すべきではないか」と言い出せば——それで十分だ。


 兄らしいやり方だった。直接手を汚さず、他人を動かす。


 俺はそれを予測していた。密使の件で殿下にも言った。次は情報戦だと。


 予測していて、防げなかった。


 昼前、殿下の執務室に行った。


 殿下とヨハンが書類を広げていた。ヨハンの顔が険しい。殿下の顔は——硬かった。怒っているのではなく、冷静でいようとしている顔。


「セレン、情報漏洩の経路を調べました」


 殿下が先に切り出した。


「カミラお姉様の侍女——エルナという女です。先日の茶会の際にカミラ殿下の居室に出入りしていた侍女で、その後、レーヴェンの密使と接触した形跡があります」


「形跡、というのは」


「エルナが東門の通行記録に名前を残していないのに、東門の夜警が『あの侍女を見た』と証言しています。密使が捕縛される二日前のことです」


 ヨハンが補足した。


「エルナは先日の茶会でカミラ殿下の隣に控えていました。セレン様がカミラ殿下の提案を断った場面を聞いています。その後、白い結婚の情報が外部に流れた。時系列は合います」


「カミラ殿下の指示ですか」


 殿下が少し黙った。


「……分かりません。エルナが自分の判断で動いた可能性もあります。でも——」


「でも?」


「お姉様の侍女が、お姉様に無断で外部に情報を流すとは考えにくい」


 殿下の声は静かだった。


 三ヶ月前なら、殿下はこう言っただろう。「お姉様がそんなことをするはずがない」。今は言わなかった。


「エルナを更迭します」


「殿下の権限で?」


「東翼の人事は私の管轄です。エルナはカミラ殿下付きの侍女ですが、東門の通行に関する不正が確認された以上、安全上の理由で更迭できます」


 迷いのない判断だった。殿下は手を打つのが速い。


「カミラ殿下への説明は」


「エルナが勝手にやったことだと、お姉様はおっしゃるでしょう。そう言わせておきます。事実がどうであれ、お姉様の侍女が不正を働いたという記録は残ります」


 殿下が書類に視線を戻した。ペンを取った。更迭の命令書を書き始めた。


 書きながら、小さく息を吐いた。


 怒っているのだろう。姉に裏切られたことに。でも怒りを見せない。見せる余裕がない。


 俺は——。


「殿下」


「はい」


「俺が出ていけば済む話です」


 言った。


 考えていた。昨夜から。噂が広がり始めた時から。


 白い結婚が知られた。婚姻に実体がないことが、宮廷の公然の秘密になった。枢密院が動けば、婚姻無効が申し立てられる。そうなれば、条約第七条の三で俺の身柄は人質条項に差し戻される。


 殿下が巻き込まれる。


 俺がいなくなれば、殿下は巻き込まれない。復興事業は軌道に乗った。俺がいなくても回る。南回りルートの知識は引き継いだ。築城案も採用された。


 出ていく。どこへ行くかは分からない。レーヴェンには帰れない。だがどこかへ——。


「出ていくなんて許しません」


 殿下の声だった。


 ペンを置いていた。書きかけの命令書の上に。インクが少し散った。


「許しません、セレン」


 強い声だった。数日前の喧嘩で聞いた「私のことは私が決めます」と同じ強さ。だが方向が違った。あの時は俺を突き放す強さだった。今は、俺を繋ぎとめる強さだ。


「……なぜですか」


 聞いた。聞かずにいられなかった。


「なぜって」


 殿下が立ち上がった。机を回って、俺の前に来た。


「あなたは私の——」


 止まった。


 口が開いたまま、言葉が出なかった。


 夫。名目上の。


 どちらかを言うはずだった。


 「夫」と言えなかった——のではなく、「名目上の」をつけたくなかったのだと、俺には分かった。


 殿下がいつも使ってきた枕詞。「名目上の夫」。「名目上の妻」。その「名目上の」を、今、つけられなかった。


 つけなかった理由を、殿下自身が分かっていない。


 俺には分かった。


「……殿下」


「出ていかないでください」


 語尾がかすかに沈んだ。


「お願いだから」


 お願い。


 命令でも宣言でもなく、お願い。殿下がこの言い方をすることは珍しい。この人は「行かせません」と宣言する人であって、「お願い」をする人ではない。


 だから余計に、重かった。


「……分かりました」


 それしか言えなかった。


「出ていきません」


 殿下が息を吐いた。長い、震える息。


 ヨハンが隣室で書類を整理する音がした。聞いていたのだろう。聞こえない距離ではない。


 だが何も言わなかった。


 午後、エルナの更迭が執行された。


 カミラ殿下への通知も行われた。「安全上の理由により、侍女エルナを東翼管轄から除外する」。


 カミラ殿下の返答は予想通りだった。


「あら、エルナが? 困ったわね。あの子が勝手にそんなことをするなんて。私は何も知らなかったのよ」


 殿下がその返答を読み上げた時、声は平坦だった。


 宮廷内では、カミラ殿下が「知らなかった」と言い張っていることを、誰も額面通りには受け取らなかった。侍女が主人に無断で外国の密使と接触するはずがない。カミラ殿下の関与を、皆が察していた。


 ドレッセル卿は沈黙した。茶会での再婚提案の噂。侍女の不正。密使の書状の宛先が自分だったこと。すべてが繋がっていることを、老人は理解しているはずだ。


 カミラ殿下の茶会の出席者が、また減った。


 南翼のあたりが、少し静かになった。


 夕方、国王から召集がかかった。


 殿下と俺とヨハンが、国王の私室に呼ばれた。


 国王は机の前に座っていた。穏やかな顔だが、目が厳しかった。


「アネリーゼ。白い結婚の件は承知している」


「……はい、陛下」


「枢密院に情報が入った以上、放置はできない。婚姻無効の申し立てが出れば、審議しなくてはならない」


「はい」


「だが、先手を打つことはできる」


 国王が書類を差し出した。


「枢密院から婚姻無効の申し立てが出される前に、先手を打て。宣誓を済ませてしまえば、申し立ての根拠がなくなる。陽の月の末日までに行え」


 殿下が書類を受け取った。読んだ。


 俺は殿下の横顔を見ていた。


 読み終えた殿下の顔色が変わった。


「……陛下。この条項は——」


「読んだな」


「婚姻法第三十四条の二。婚姻成立から一年以内に婚姻の実質がなければ、無効の申し立てが可能……」


 殿下が俺を見た。


「セレン」


「…………」


「これ、知っていましたか」


 心臓が縮んだ。


 知っていた。四ヶ月前から。ヨハンが持ってきた法令集で読んだ。注釈つきの実務版。ページの端が浮くほど何度も読んだ。


 知っていて、言わなかった。


「……知っていました」


 嘘をつけなかった。殿下の目を見て、嘘をつくことは——できなかった。


「いつから」


「雪の月からです」


「四ヶ月前。——なぜ言わなかったんですか」


 なぜ。


 なぜ言わなかったのか。


 「公式宣誓すればいいですよね、形式的なものですし」と言われるのが嫌だったから。


 そんな理由を、今この場で言えるはずがなかった。


「……判断を誤りました」


「セレン」


「申し訳ありません」


 頭を下げた。


 殿下が何か言おうとした。


 国王が咳払いをした。


「続きは二人で話せ。期限は陽の月の末日だ。それまでに宣誓を行うか、どうするか決めよ」


 退室した。


 廊下に出た。ヨハンが先に歩いていった。気を遣ったのだろう。


 殿下と二人、廊下に残された。


 窓の外で日が暮れかけていた。花の月の夕暮れ。春の終わり。空がオレンジ色に染まっている。


「セレン」


「はい」


「怒っています」


「……はい」


「四ヶ月も黙っていたこと。怒っています」


「……はい」


「でも——」


 殿下が少し間を置いた。


「なぜ言えなかったのか。それも、聞きたいです。今でなくていい。答えが出たら教えてください」


 殿下の声は、怒りの奥に別のものがあった。


 怒りだけなら楽だった。怒りだけなら、ただ謝ればいい。


 でも殿下は「なぜ」を聞いた。理由を知りたがっている。俺が四ヶ月間黙っていた理由の中に、何かがあると思っている。


 あるのだ。


 形式で済ませたくなかったという、名前をつけたくない感情が。


「……必ず、お答えします」


 それだけ言った。


 殿下が頷いた。


 二人で歩き始めた。東翼へ。


 更迭されたエルナの空いた持ち場の前を通った。誰もいない控えの間。椅子が一脚、壁際に寄せてあった。


 何かが終わって、何かが始まろうとしている。


 期限は陽の月の末日。残り約三ヶ月半。


 婚姻継続宣誓。「互いを唯一の伴侶として認め、生涯を共にすることを誓う」。


 形式で済ませたくない。


 だが本気で言う覚悟は、まだ。


 まだ、足りなかった。

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