第18話 漏洩
噂は、朝のうちに宮殿を一周した。
「第三王女の婚姻は名ばかりらしい」
「白い結婚ですって。夫婦の実体がないそうよ」
「枢密院に情報が入ったって。レーヴェン側からの提供だとか」
廊下を歩くだけで聞こえた。壁の向こう、控えの間、階段の踊り場。どこにいても同じ話が漏れてくる。宮廷の噂は風より速い。それを嫌というほど知っている。
白い結婚。
事実だ。同衾はしていない。婚姻継続の公式宣誓もしていない。名目上の夫婦。最初からそう約束していた。
だが「事実」と「武器」は違う。
ディルクが使ったのは剣ではない。情報だ。返還要求で条約の論理戦に負け、密使の潜入も失敗した。正面からも側面からも崩せないなら、内部に亀裂を入れる。ヴェルディアの枢密院に「婚姻に実体がない」という情報を流し、国内から婚姻無効の申し立てを起こさせる。
外国王族からの申し立ては婚姻法上不可だが、情報提供には制限がない。枢密院の構成員がその情報を受けて「申し立てを検討すべきではないか」と言い出せば——それで十分だ。
兄らしいやり方だった。直接手を汚さず、他人を動かす。
俺はそれを予測していた。密使の件で殿下にも言った。次は情報戦だと。
予測していて、防げなかった。
昼前、殿下の執務室に行った。
殿下とヨハンが書類を広げていた。ヨハンの顔が険しい。殿下の顔は——硬かった。怒っているのではなく、冷静でいようとしている顔。
「セレン、情報漏洩の経路を調べました」
殿下が先に切り出した。
「カミラお姉様の侍女——エルナという女です。先日の茶会の際にカミラ殿下の居室に出入りしていた侍女で、その後、レーヴェンの密使と接触した形跡があります」
「形跡、というのは」
「エルナが東門の通行記録に名前を残していないのに、東門の夜警が『あの侍女を見た』と証言しています。密使が捕縛される二日前のことです」
ヨハンが補足した。
「エルナは先日の茶会でカミラ殿下の隣に控えていました。セレン様がカミラ殿下の提案を断った場面を聞いています。その後、白い結婚の情報が外部に流れた。時系列は合います」
「カミラ殿下の指示ですか」
殿下が少し黙った。
「……分かりません。エルナが自分の判断で動いた可能性もあります。でも——」
「でも?」
「お姉様の侍女が、お姉様に無断で外部に情報を流すとは考えにくい」
殿下の声は静かだった。
三ヶ月前なら、殿下はこう言っただろう。「お姉様がそんなことをするはずがない」。今は言わなかった。
「エルナを更迭します」
「殿下の権限で?」
「東翼の人事は私の管轄です。エルナはカミラ殿下付きの侍女ですが、東門の通行に関する不正が確認された以上、安全上の理由で更迭できます」
迷いのない判断だった。殿下は手を打つのが速い。
「カミラ殿下への説明は」
「エルナが勝手にやったことだと、お姉様はおっしゃるでしょう。そう言わせておきます。事実がどうであれ、お姉様の侍女が不正を働いたという記録は残ります」
殿下が書類に視線を戻した。ペンを取った。更迭の命令書を書き始めた。
書きながら、小さく息を吐いた。
怒っているのだろう。姉に裏切られたことに。でも怒りを見せない。見せる余裕がない。
俺は——。
「殿下」
「はい」
「俺が出ていけば済む話です」
言った。
考えていた。昨夜から。噂が広がり始めた時から。
白い結婚が知られた。婚姻に実体がないことが、宮廷の公然の秘密になった。枢密院が動けば、婚姻無効が申し立てられる。そうなれば、条約第七条の三で俺の身柄は人質条項に差し戻される。
殿下が巻き込まれる。
俺がいなくなれば、殿下は巻き込まれない。復興事業は軌道に乗った。俺がいなくても回る。南回りルートの知識は引き継いだ。築城案も採用された。
出ていく。どこへ行くかは分からない。レーヴェンには帰れない。だがどこかへ——。
「出ていくなんて許しません」
殿下の声だった。
ペンを置いていた。書きかけの命令書の上に。インクが少し散った。
「許しません、セレン」
強い声だった。数日前の喧嘩で聞いた「私のことは私が決めます」と同じ強さ。だが方向が違った。あの時は俺を突き放す強さだった。今は、俺を繋ぎとめる強さだ。
「……なぜですか」
聞いた。聞かずにいられなかった。
「なぜって」
殿下が立ち上がった。机を回って、俺の前に来た。
「あなたは私の——」
止まった。
口が開いたまま、言葉が出なかった。
夫。名目上の。
どちらかを言うはずだった。
「夫」と言えなかった——のではなく、「名目上の」をつけたくなかったのだと、俺には分かった。
殿下がいつも使ってきた枕詞。「名目上の夫」。「名目上の妻」。その「名目上の」を、今、つけられなかった。
つけなかった理由を、殿下自身が分かっていない。
俺には分かった。
「……殿下」
「出ていかないでください」
語尾がかすかに沈んだ。
「お願いだから」
お願い。
命令でも宣言でもなく、お願い。殿下がこの言い方をすることは珍しい。この人は「行かせません」と宣言する人であって、「お願い」をする人ではない。
だから余計に、重かった。
「……分かりました」
それしか言えなかった。
「出ていきません」
殿下が息を吐いた。長い、震える息。
ヨハンが隣室で書類を整理する音がした。聞いていたのだろう。聞こえない距離ではない。
だが何も言わなかった。
午後、エルナの更迭が執行された。
カミラ殿下への通知も行われた。「安全上の理由により、侍女エルナを東翼管轄から除外する」。
カミラ殿下の返答は予想通りだった。
「あら、エルナが? 困ったわね。あの子が勝手にそんなことをするなんて。私は何も知らなかったのよ」
殿下がその返答を読み上げた時、声は平坦だった。
宮廷内では、カミラ殿下が「知らなかった」と言い張っていることを、誰も額面通りには受け取らなかった。侍女が主人に無断で外国の密使と接触するはずがない。カミラ殿下の関与を、皆が察していた。
ドレッセル卿は沈黙した。茶会での再婚提案の噂。侍女の不正。密使の書状の宛先が自分だったこと。すべてが繋がっていることを、老人は理解しているはずだ。
カミラ殿下の茶会の出席者が、また減った。
南翼のあたりが、少し静かになった。
夕方、国王から召集がかかった。
殿下と俺とヨハンが、国王の私室に呼ばれた。
国王は机の前に座っていた。穏やかな顔だが、目が厳しかった。
「アネリーゼ。白い結婚の件は承知している」
「……はい、陛下」
「枢密院に情報が入った以上、放置はできない。婚姻無効の申し立てが出れば、審議しなくてはならない」
「はい」
「だが、先手を打つことはできる」
国王が書類を差し出した。
「枢密院から婚姻無効の申し立てが出される前に、先手を打て。宣誓を済ませてしまえば、申し立ての根拠がなくなる。陽の月の末日までに行え」
殿下が書類を受け取った。読んだ。
俺は殿下の横顔を見ていた。
読み終えた殿下の顔色が変わった。
「……陛下。この条項は——」
「読んだな」
「婚姻法第三十四条の二。婚姻成立から一年以内に婚姻の実質がなければ、無効の申し立てが可能……」
殿下が俺を見た。
「セレン」
「…………」
「これ、知っていましたか」
心臓が縮んだ。
知っていた。四ヶ月前から。ヨハンが持ってきた法令集で読んだ。注釈つきの実務版。ページの端が浮くほど何度も読んだ。
知っていて、言わなかった。
「……知っていました」
嘘をつけなかった。殿下の目を見て、嘘をつくことは——できなかった。
「いつから」
「雪の月からです」
「四ヶ月前。——なぜ言わなかったんですか」
なぜ。
なぜ言わなかったのか。
「公式宣誓すればいいですよね、形式的なものですし」と言われるのが嫌だったから。
そんな理由を、今この場で言えるはずがなかった。
「……判断を誤りました」
「セレン」
「申し訳ありません」
頭を下げた。
殿下が何か言おうとした。
国王が咳払いをした。
「続きは二人で話せ。期限は陽の月の末日だ。それまでに宣誓を行うか、どうするか決めよ」
退室した。
廊下に出た。ヨハンが先に歩いていった。気を遣ったのだろう。
殿下と二人、廊下に残された。
窓の外で日が暮れかけていた。花の月の夕暮れ。春の終わり。空がオレンジ色に染まっている。
「セレン」
「はい」
「怒っています」
「……はい」
「四ヶ月も黙っていたこと。怒っています」
「……はい」
「でも——」
殿下が少し間を置いた。
「なぜ言えなかったのか。それも、聞きたいです。今でなくていい。答えが出たら教えてください」
殿下の声は、怒りの奥に別のものがあった。
怒りだけなら楽だった。怒りだけなら、ただ謝ればいい。
でも殿下は「なぜ」を聞いた。理由を知りたがっている。俺が四ヶ月間黙っていた理由の中に、何かがあると思っている。
あるのだ。
形式で済ませたくなかったという、名前をつけたくない感情が。
「……必ず、お答えします」
それだけ言った。
殿下が頷いた。
二人で歩き始めた。東翼へ。
更迭されたエルナの空いた持ち場の前を通った。誰もいない控えの間。椅子が一脚、壁際に寄せてあった。
何かが終わって、何かが始まろうとしている。
期限は陽の月の末日。残り約三ヶ月半。
婚姻継続宣誓。「互いを唯一の伴侶として認め、生涯を共にすることを誓う」。
形式で済ませたくない。
だが本気で言う覚悟は、まだ。
まだ、足りなかった。




