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買われた王子の忠誠が重すぎる件  作者: 秋月 もみじ


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19/25

第19話 宣誓の重さ


 宣誓文は、羊皮紙に書かれていた。


 陽の月に入った朝、王室典礼官から届いた。婚姻継続宣誓の正式な手順書と、宣誓文の雛形。古い書式だ。羊皮紙の手触りが硬い。角が少し丸まっている。何組もの夫婦がこの雛形を使って宣誓してきたのだろう。


 机の上に広げた。


 読んだ。


「互いを唯一の伴侶として認め、生涯を共にすることを誓う」


 短かった。


 この言葉を国王の前で読み上げれば、婚姻の実質が認められる。枢密院の申し立ては封じられる。セレンの身分は保全される。鎖には戻らない。


 形式的なものだ。


 ——と、二ヶ月前の私なら言っただろう。


 今の私には、言えなかった。


 互いを唯一の伴侶として認め。


 セレンを。あの人を。唯一の伴侶として。


 生涯を共にすることを誓う。


 生涯。


 羊皮紙の文字を指でなぞった。インクが古い。擦れて少し薄くなっている箇所がある。何十年も保管されてきた雛形。


 この言葉を、形式で読み上げていいのか。


 嘘をつくことになる。


 いや——嘘なのか?


 分からない。


 分からないことが、怖かった。


 仕事に手がつかなかった。


 復興事業の月次報告を書かなくてはならない。予算の執行状況を確認しなくてはならない。旧街道の第二次補修の計画を詰めなくてはならない。


 どれも手がつかなかった。


 宣誓文が机の端にある。視界に入る。目を逸らしても、そこにあることが分かる。羊皮紙の匂い。古いインクの匂い。


 セレンがいない日常を想像した。


 朝、執務室に行く。セレンがいない。赤い修正線を入れてくれる人がいない。地図を見て「このルートは使えない」と言ってくれる人がいない。


 昼食を食べる。セレンがいない。梨を黙って皿に載せてくれる人がいない。マルテの魚の骨をほぐしてくれる人がいない。


 夜、執務室で書類を片づける。セレンがいない。苦い茶を一緒に飲んでくれる人がいない。「休んでください」と言ってくれる人がいない。


 廊下を歩く。セレンがいない。壁に寄りかかって、足音のない歩き方で隣を歩いてくれる人がいない。


 夜の回廊。密使の気配。「気をつけろ」と言って前に出てくれる人がいない。


 喧嘩する。「お前は自分を大事にしなさすぎる」と怒ってくれる人がいない。


 想像しただけで、みぞおちのあたりが詰まるような、呼吸が浅くなるような。


 物理的に。みぞおちのあたりが詰まるような、呼吸が浅くなるような。


 これは——何だ。


 責任感ではない。セレンを引き取ったのは私の判断だから、最後まで責任を持つ。そういう話ではない。


 罪悪感でもない。セレンを巻き込んで申し訳ない。そういう話でもない。


 もっと単純な、もっと原始的な何か。


 失いたくない。


 あの人を。


 失いたくないから胸が痛い。いなくなると思うだけで呼吸が詰まる。


 この感情に、私はずっと名前をつけていなかった。


 午後、ヨハンが来た。


「殿下、月次報告の件ですが——」


「ヨハン」


「はい」


「少し、聞いてもいい?」


 ヨハンが椅子を引いて座った。私が「聞いてもいい」と言う時は大抵、仕事の話ではない。長い付き合いで、それくらいは分かっている。


「宣誓文を読みました」


「拝見しましたか」


「短いんです。驚くほど」


「ええ。婚姻継続宣誓はシンプルな儀式です。国王の前で読み上げて、双方が署名すれば完了です」


「形式的に済ませればいいんですよね」


「済ませられます。法的にはそれで十分です」


「…………」


「殿下」


「うん」


「形式的に済ませたくないんですね」


 図星だった。


「……なぜ分かるの」


「殿下が法的手続きで迷うことは滅多にありません。条約を引用して兄上を退け、返還要求を論破し、密使を捕縛し、侍女を更迭した方が、宣誓文の前で手が止まっている。これは法律の問題ではない」


 ヨハンはこういう時、容赦がない。


「……セレンに嘘をつきたくない」


「嘘?」


「宣誓の言葉を、形式で読み上げることが。唯一の伴侶として認めますと言いながら、本心ではないとしたら、それは嘘になる」


「では、本心ではないのですか」


「…………」


「殿下。一つ聞いていいですか」


「何」


「セレン様がいなくなったら、どうなりますか」


「それは——復興事業の補佐がいなくなるから、業務に支障が——」


「業務の話はしていません」


 ヨハンの目が真っ直ぐだった。


「セレン様がいなくなったら、殿下はどうなりますか。業務ではなく、殿下自身が」


 答えようとした。


 答えが出なかった。


 出なかったのではなく、出かけた答えが喉に詰まった。


「……困る」


「困る」


「困るし、寂しいし——」


 声が裏返った。


「いなくなったら、嫌」


 子どもみたいな言い方だった。マルテのほうがもっと上手く言えるだろう。でもそれが本音だった。


 ヨハンが少し間を置いた。


「殿下」


「うん」


「それは恋ですよ」


 時間が止まった。


「周囲はとっくに気づいています」


「え」


「マルテも。私も。訓練場の騎士たちも。廊下の侍女たちも。おそらくセレン様ご本人以外の、この宮殿のほぼ全員が」


「え」


「殿下だけが気づいていなかった。いえ、気づいていたけれど名前をつけていなかっただけかもしれませんね」


 恋。


 恋ですよ、とヨハンが言った。


 恋。


「……それは」


「否定しますか」


「…………」


 否定できなかった。


 セレンがいなくなると思うだけで息が浅くなる。隣にいるだけで安心する。名前を呼ぶと少し嬉しい。梨を皿に載せてくれた時の手を覚えている。庭園で支えてくれた時の温度を覚えている。夜の回廊で「気をつけろ」と言われた声を覚えている。


 全部覚えている。


 全部、嬉しかった。


「……恋、なんですか」


「私に確認を取らないでください。殿下の感情は殿下のものです」


「でも」


「でも何ですか」


「……セレンは、どうなのかな」


 ヨハンがため息をついた。呆れた顔。


「衛星ですよ。殿下の周りを回る衛星。あの方の行動を見て、まだ分からないなら、殿下の目は節穴です」


「節穴って」


「失礼しました。でも本当のことです」


 ヨハンの口調が少しだけ柔らかくなった。


「殿下、宣誓文を読み上げてください。形式ではなく、本心で。それがセレン様への答えにもなります」


「答え?」


「セレン様が四ヶ月間黙っていた理由への、答えです」


 四ヶ月の沈黙。なぜ言えなかったのか。


 ——形式で済ませたくなかったから?


 セレンが「公式宣誓すればいいですよね、形式的なものですし」と私に言われるのが嫌だった。そういうことなのか。


 分からない。まだ分からない。でも、聞きたかった。セレンの口から。


 ヨハンが立ち上がった。


「月次報告は私が書いておきます。殿下は宣誓文と向き合ってください」


「ヨハン」


「はい」


「ありがとう」


「……どういたしまして。十年の付き合いで、初めて役に立った気がしますよ、こういう方面では」


 ヨハンが出ていった。


 一人になった。


 宣誓文を手に取った。


 「互いを唯一の伴侶として認め、生涯を共にすることを誓う」


 声に出して読んだ。


 泣いていた。


 いつから泣いていたのか分からない。声に出して読んだら、涙が出ていた。


 なぜ泣いているのかは分かった。


 この言葉を、嘘ではなく言いたいと思ったから。


 セレンに。あの不器用で、寡黙で、花を摘めば茎が短くなって、馬を彫れば鼻が欠けて、褒めると耳が赤くなって、「俺」が漏れて、夜の回廊を足音もなく歩いて、梨を皿に載せて知らん顔をする——あの人に。


 本心で、言いたい。


 涙を拭いた。手の甲で。インクがついた。右の中指のインクが、目の下に移った。


 鏡がないから見えない。たぶん酷い顔だろう。


 でもいい。


 立ち上がった。


 廊下に出た。


 セレンを探した。


 いた。


 いつもの場所。東翼の廊下。窓際。壁に寄りかかって。


 私に気づいた。身体を起こした。


 目が合った。


 セレンの目が少し見開かれた。私の顔が——泣いた跡とインクで酷いことになっているのだろう。


「殿下、どうし——」


「セレン」


「はい」


「宣誓について、話があります」


 セレンが黙った。


 夕日が廊下に差し込んでいた。陽の月の光。セレンの銀灰色の髪が、オレンジ色に染まっていた。


「……場所を変えましょうか」


「うん。庭園で。——月が出てからでもいい?」


「……ええ」


 セレンの声が、少し震えていた。


 それとも、震えていたのは私のほうだったかもしれない。

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