表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
買われた王子の忠誠が重すぎる件  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/25

第20話 月明かりの本音


 庭園で待った。


 月が出るまで、と殿下は言った。だから月が出てから行こうと思った。だが足が先に動いて、日が暮れる前に庭園にいた。


 石のベンチに座った。マルテが花を摘んでいたベンチだ。今は誰もいない。子どもたちはもう部屋に戻る時間だ。


 陽の月の夕暮れ。空が紫に変わっていく。風が湿っている。花の匂いではなかった。土と草と、どこかで咲いている夜花の匂い。昼間の熱が地面から抜けていく。虫の声が遠くで鳴っていた。陽の月の夜だ。


 宣誓について、話があります。


 殿下はそう言った。泣いた跡のある顔で。目の下にインクがついた顔で。


 何を話すのだろう。


 宣誓を形式で済ませましょう、と言うのだろうか。法的手続きとして読み上げて、署名して、それで終わり。合理的な殿下なら、そう言うだろう。


 ——それが嫌だと思っている自分を、もう隠しきれなかった。


 ヨハンに言われた。衛星だと。名前をつけたくないなら、つけなくてもいいと。


 マルテに聞かれた。好きなの、と。一緒にいたいってことでしょ、と。


 騎士に言われた。手放さないわけだ、と。


 全員が見えていて、俺だけが。いや、俺は見えていた。見えていて、認めなかった。


 認めたら、終わる。名目上の夫という安全な場所が消える。消えたら、ただの男が王女に恋をしている、という不格好な事実だけが残る。


 買われた人質が。敗軍の王子が。鎖をつけられて連れてこられた男が。


 自分を鎖から外してくれた女に、恋をしている。


 認めた。


 今、認めた。ベンチに座って、月が昇るのを待ちながら。


 認めたところで、何も変わらない。俺に殿下に釣り合う資格はない。


 でも認めないままでいることは、もっと卑怯だった。


 月が出た。


 白い月。氷の月の月とは違う。陽の月の月は少し黄色みがかって、温かく見える。庭園の木立に影が落ちた。


 足音がした。


 殿下の足音。聞き分けられるようになっていた。いつの間にか。


 石畳を歩いてくる。少し速い。でも走ってはいない。


 姿が見えた。


 上着を羽織っている。髪を結び直している。——泣いた跡は、拭いたらしい。でもインクは残っていた。右の目の下に、小さな黒い筋。


「セレン」


「……ここです」


 殿下がベンチの前に来た。座らなかった。立ったまま、俺を見下ろした。


 月明かりの中で、灰色がかった緑の目が光っていた。


「座りませんか」


「立ったまま言います。座ったら、勢いがなくなりそうだから」


 勢いで来たのか。


 殿下らしかった。この人はいつも、考えるより先に足が動く。


「……分かりました。聞きます」


 殿下が息を吸った。深く。


「形式的な宣誓でいいと思っていました」


「…………」


「条約の条文を引用して、法的手続きとして済ませて、それで終わりにすればいい。今までずっとそうしてきたから。問題が起きたら条文で解決する。それが私のやり方だった」


 そうだ。殿下はそういう人だ。条約で兄を退け、返還要求を論破し、侍女を更迭した。法の論理に立ち返ると強い人。


「でも」


 殿下の声が少し揺れた。


「嘘をつきたくないんです」


「嘘」


「宣誓の言葉を——『互いを唯一の伴侶として認め、生涯を共にすることを誓う』——その言葉を、形式で読み上げることが。本心ではないのに読み上げたら、それは嘘になる」


 本心ではない。


 その言葉が刺さった。


 本心ではない。つまり、殿下にとって俺は伴侶ではない。形式上の相手に過ぎない。それを正直に認めた上で、でも嘘はつきたくないから——。


「だから」


 殿下が一歩前に出た。


「本心で言いたいんです」


 思考が止まった。


「セレン。私は——あなたに、本当の夫でいてほしい。名目ではなく」


 月明かりが白かった。


 殿下の顔が目の前にあった。目の下のインクの跡。涙を拭いた頬。結び直した髪。


「本心ではないのに読み上げたくないから、本心で言えるようになりたかった。そしたら——なれたんです。いつの間にか」


 声にひびが入っていた。殿下の声に。


「いつからかは分かりません。セレンが梨を皿に載せてくれた時かもしれないし、夜の回廊で守ってくれた時かもしれないし、花を摘んでくれた時かもしれない。全部かもしれない。分からない。でも——」


「……殿下」


「嘘じゃない。これは条約でも義務でも責任でもない。私が、あなたに、いてほしい」


 立ち上がった。


 立ち上がらなければ、殿下を見上げたまま聞くことになる。対等な目線で聞かなくてはならない。


 向かい合った。殿下は俺より頭一つ低い。見上げている。月明かりの中で。


「……俺は」


 俺。


 もう「私」に戻す気力がなかった。


「俺は買われた人質だ。敗軍の王子で、鎖をつけられてこの国に来た。あなたが鎖を外してくれなかったら、今も人質部屋にいた」


「それは——」


「あなたに釣り合う人間じゃない」


 言った。ずっと喉の奥にあった言葉を。


「復興事業の補佐はできる。地図は読める。剣は振れる。だが王女の夫として——伴侶として——俺に何がある。身分も金も領地もない。故国には切り捨てられた。この国では買われた王子と呼ばれている」


「セレン」


「釣り合わない」


「釣り合うって——」


 アネリーゼの声が上がった。


「そもそも釣り合うって何ですか。秤ですか。人間を秤に載せてどうするんですか」


「……何の話を」


「釣り合いの話です。セレンが始めたんでしょう。私はそういうの嫌いです。人の価値を比べるのが。条約の条文なら比較できますけど、人間は——人間は条文じゃないです」


 論理が崩れていた。いつも理路整然としているアネリーゼの論理が、感情に追いつかれて壊れている。


「……私があなたを選んだんです。最初の日に。鎖の音を聞いて、考えるよりも先に動いた。戦略は後からついてきた」


 殿下が半歩前に出た。距離が縮まった。


「鎖をつけられた人を見て、放っておけなかった。それが最初です。戦略は後からついてきた。条約の条文を引いて自分を納得させたけど、本当は——鎖の音を聞いたら、順番なんてどうでもよくなった」


 最初の日。


 あの日、殿下は予定より早く白い結婚を宣言した。順番が違ったと、後から聞いた。


 順番がどうでもよくなったのは、鎖の音を聞いたから。


「セレン、あなたは自分の価値を低く見積もりすぎです」


「事実を言っているだけだ」


「事実は、あなたが九ヶ月間この宮殿で何をしてきたかです。復興事業を支え、密使を捕まえ、返還要求の反論を手伝い、子どもたちに懐かれ、騎士たちに認められた。それが事実です」


「それは——殿下のおかげで——」


「私のおかげじゃありません。あなたがやったことです」


 殿下の声が上がっていた。怒っているのではない。必死なのだ。俺の自己評価を覆そうとして。


 それが——。


 ありがたかった。


 ありがたくて、苦しかった。こんなふうに自分の価値を主張してくれる人間が、今までいなかった。ディルクは俺を切り捨てた。ヴォルフは俺を有用だと言った。リヒトは俺を案じてくれた。


 だが「あなたがやったことだ」と、俺自身の功績として突きつけてきた人間は、殿下が初めてだった。


「……殿下」


「アネリーゼ」


「え」


「私の名前はアネリーゼです。殿下じゃない。——月明かりの庭園で、殿下と呼ばれるのは嫌です」


 アネリーゼ。


 名前を呼べと言われている。


「…………」


「呼んでください」


「……アネリーゼ」


 声に出した。


 初めて、敬称なしで。


 殿下が——アネリーゼが、少し笑った。泣きそうな笑い方だった。


「……ありがとう」


「礼を言うことではない」


「言います。私の名前を呼んでくれる人は少ないから」


 お姉様は「アネリーゼ」と呼ぶ。兄も呼ぶ。だがそこに温度があるかどうかは、また別だ。


「アネリーゼ」


 もう一度呼んだ。呼びたかったから。


「……考えさせてくれ」


「え」


「宣誓のことを。——お前の気持ちは聞いた。嬉しい。嬉しいが、俺はまだ——」


 言葉が止まった。


 まだ、何だ。まだ覚悟ができていない? まだ釣り合わないと思っている?


 どちらもだった。


 殿下が——アネリーゼが、真っ直ぐに言ってくれた。名目ではなく、本当の夫でいてほしい、と。俺はそれに応えたい。応えたいが、「はい」と即答できるほど、自分の中が整理されていなかった。


 恋をしていると認めたのは、今夜のベンチの上だ。認めてからまだ一時間も経っていない。


「……待ちます」


 アネリーゼの声。


「答えが出るまで、待ちます」


「…………」


「でも、あまり長くは待てません。期限がありますから」


 少しだけ笑った。冗談のつもりだろう。期限——陽の月の末日。あと半月ほど。


「……すまない」


「謝らないでください。私だって九ヶ月かかったんですから。セレンにも時間は必要です」


 九ヶ月。殿下が——アネリーゼが自分の感情に気づくまでにかかった時間。


 俺は何ヶ月かかっている。いつから始まっていたのか。チーズを皿に載せられた日か。名前を呼ばれた夜か。


 分からなかった。始まりがいつかなど、終わってみなければ分からないものかもしれない。


「一つだけ、聞いてもいいですか」


「何」


「四ヶ月、黙っていた理由。答えは出ましたか」


 四ヶ月の沈黙。第三十四条の二。婚姻の一年期限。


 なぜ言わなかったのか。


「……出ました」


「聞いていい?」


「……形式で済ませたくなかったからです」


 アネリーゼが息を呑んだ。


「宣誓の言葉を——あの誓いを——殿下が『形式的なもの』として処理するのが、嫌だった。なぜ嫌なのかは、あの時は分からなかった。今は——少し分かる」


「…………」


「俺にとって、あの言葉は形式ではない。だから殿下にとっても、形式であってほしくなかった」


 言った。


 全部ではない。だが核心は言った。


 アネリーゼの目から、また涙が落ちた。一粒。月明かりの中で光った。


「……同じだ」


「え」


「私も同じ理由で、宣誓文の前で止まったんです。形式で済ませたくなかった。嘘をつきたくなかった」


 同じだった。


 同じ理由で、同じ場所で、止まっていた。


 二人とも不器用で、九ヶ月かかって、それでもまだ完全には言い切れなくて。


 告白というには粗かった。噛み合っているようで噛み合っていない。殿下は「本当の夫でいてほしい」と言い、俺は「考えさせてくれ」と言った。答えは出ていない。


 でも——。


「アネリーゼ」


「はい」


「四ヶ月黙っていて、すみませんでした」


「……許します。理由が聞けたから」


 少しだけ手を伸ばした。


 アネリーゼの手に触れた。指先だけ。


 温かかった。小さかった。インクのついた指。いつもの場所。右の中指。


 一瞬だけ触れて、離した。


 離した手が震えていた。


 アネリーゼがその手を見ていた。震えている手を。


 何か言おうとした。言わなかった。


 月明かりの中で、二人で立っていた。


 答えはまだ出ていない。


 でも、手の温度だけは残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ