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買われた王子の忠誠が重すぎる件  作者: 秋月 もみじ


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第21話 答え


 引き出しを開けた。


 奥に、布に包んだものがある。ここに来た日から、ずっと。


 布をめくった。


 鎖だった。


 最初の日につけられていた鎖。アネリーゼが外させた鎖。殿下は「処分してください」と侍従に命じた。だが俺は、侍従に頼んで手元に残した。


 なぜ残したのか、自分でも分からなかった。


 戒めだと思っていた。俺が何者であるかを忘れないための。買われた人質。敗軍の王子。鎖をつけられてこの国に来た男。


 手に取った。


 冷たい。金属の重さ。手首に巻けば、あの日の感触が蘇るだろう。擦り傷の痛み。護送馬車の揺れ。石畳にこびりついた泥。


 手首を見た。


 鎖の痕は、もう消えかけていた。うっすらと残る変色。あと数ヶ月もすれば完全に消える。


 十ヶ月前、この手首に鎖があった。


 今は包帯の跡がある。アネリーゼが巻いた、不格好な包帯の。あの傷ももう塞がっている。


 鎖と包帯。


 どちらの痕を残したいか。答えは分かっていた。


 昨夜の庭園を思い出した。


 月明かり。アネリーゼの声。震えていた声。


 「本当の夫でいてほしい。名目ではなく」


 嬉しかった。


 嬉しかったのに、「考えさせてくれ」と言った。


 考えている。一晩中。


 天秤にかけていた。片方に、自分の引け目。身分のない王子。故国に捨てられた男。鎖の記憶。


 もう片方に、アネリーゼ。


 天秤は最初から傾いていた。引け目がどれだけ重くても、アネリーゼの側が重い。梨を皿に載せた朝。苦い茶を飲んだ夜。花を摘んだ庭園。「だってセレンがいるじゃないですか」。「どこにも行かせません」。「私が決めます」。


 全部、アネリーゼの側にある。


 では何を迷っている。


 迷っているのは、資格の問題ではなかった。


 怖いのだ。


 本気で「はい」と言ったら、もう逃げ場がない。名目上の夫という殻が割れる。割れたら、ただのセレンが剥き出しになる。不器用で、褒められ慣れていなくて、花を摘めば茎が短くなる、ただの男が。


 その男を、アネリーゼが見て、それでもいいと言ってくれるかどうか。


 ——言ってくれた。昨夜、もう。


 俺が自分で壁を積んでいるだけだった。


 夜明け前、部屋を出た。


 眠れなかったから、廊下を歩いた。もう巡回の癖がついている。足音を殺して、石畳の上を歩く。


 東翼の端。子どもたちの部屋がある区画。


 扉の前に、小さな人影があった。


 マルテが廊下に座っていた。膝を抱えて。木彫りの馬を胸に抱いて。


「……マルテ」


「あ」


「こんな時間に、どうした」


「……眠れなかった」


 しゃがんだ。マルテの目線に合わせて。


「なぜ」


「……聞いたの。セレン様が、いなくなるかもしれないって」


 誰から聞いたのだろう。侍女たちの噂か。宮廷の噂は子どもの耳にも届く。


「いなくなるって、何を——」


「分かんない。でも、レーヴェンに帰るかもって。婚姻がどうとかって」


 子どもは全部を理解しないが、空気は読む。大人が不安そうにしていれば、子どもも不安になる。


「……いなくならないよ」


「嘘」


 マルテの「嘘」。


「嘘じゃない」


「だって、分かんないじゃん。大人はいつも大丈夫って言って、大丈夫じゃないもん」


 マルテの声が震えていた。


 この子は、一度失っている。両親を。村を。故郷を。大人が「大丈夫」と言って、大丈夫ではなかった経験がある。


「マルテ」


「……行かないで」


 小さな声だった。


「セレン様、行かないで」


 木彫りの馬を抱きしめている。鼻先の欠けた、不格好な馬。


 息が止まりかけた。


 この子が俺に「行かないで」と言っている。かつて俺の——俺が守れなかった戦場の、反対側にいた子どもが。


 怯えていた子どもが。名前を呼べなかった子どもが。花を一緒に摘んでくれた子どもが。


「行かない」


 言った。


「行かないよ、マルテ」


「……本当?」


「本当だ」


「大丈夫って言うだけじゃなくて?」


「大丈夫とは言わない。行かない、と言っている。俺は、ここにいる」


 マルテの目から涙が落ちた。


 一粒。二粒。声は出さなかった。


 手を伸ばした。マルテの頭に触れた。小さな頭。不器用に、撫でた。撫で方が分からない。たぶん下手だ。


 マルテが俺の手に額を押しつけた。


 しばらくそのままだった。


 廊下の窓から、夜明けの光が差し始めていた。


 マルテを部屋に戻した。世話係の侍女に引き渡した。「眠れなかったらしい。少し見ていてやってくれ」。


 廊下に一人になった。


 夜明けの光が石畳に伸びている。


 行かない、と言った。マルテに。


 ならば、アネリーゼにも言わなくてはならない。行かない、ではなく——いる、と。ここにいる、と。夫として。名目ではなく。


 部屋に戻った。


 引き出しの鎖を見た。


 まだ手放す時ではない。手放すのは、全部が終わった時でいい。


 だが、今の俺は鎖の側ではなく、包帯の側にいる。


 上着を着替えた。髪を整えた。——整えるほどの髪ではないが。


 朝の光が部屋に差し込んだ。窓を開けた。陽の月の空気。温かい。湿った風。


 東翼へ向かった。


 アネリーゼの執務室の前に立った。


 扉は半分開いていた。いつも通り。


 中にアネリーゼがいた。机に向かっている。書類ではなく、宣誓文の羊皮紙を見ていた。


 俺に気づいた。顔を上げた。


 目の下のインクは消えていた。顔を洗ったのだろう。でも目が少し赤い。眠れなかったのか。泣いたのか。両方かもしれない。


「セレン」


「アネリーゼ」


 名前を呼んだ。敬称なし。昨夜から、もう戻す気がなかった。


「考えた」


「……うん」


「答えは一つしかなかった」


 アネリーゼの手が、宣誓文の羊皮紙を握りしめた。


「俺を買ったのはあなただ」


 一歩、近づいた。


「俺が仕えると決めたのもあなただ」


 もう一歩。


「返品は受け付けない」


 アネリーゼの目が潤んだ。


「——だから、俺の妻でいてくれ」


 言った。


 言い切った。


 告白としては不格好だった。買ったとか返品とか、ものの取引みたいな言葉だ。もっとましな言い方があったはずだ。


 だが俺にはこれしかなかった。


 アネリーゼが立ち上がった。椅子が後ろに滑った。宣誓文の羊皮紙を落とした。机の上に。


「……はい」


 声が小さかった。


「はい。いいです。——いいに決まってるじゃないですか」


 笑った。泣きながら。


 泣きながら笑うのを見るのは、これで二度目だ。いつだったか——思い出せなかった。とにかく、この顔を見ると、息を忘れる。


 手を伸ばした。


 アネリーゼの頬に触れた。涙を拭おうとした。親指で。


 拭い方が分からなかった。力加減が分からなかった。マルテの頭を撫でた時と同じだ。何もかもが不器用で——。


 アネリーゼが俺の手に自分の手を重ねた。頬に触れたままの手に。


「……下手」


「……悪い」


「いい。下手でいい」


 距離が近かった。


 いつの間にか近かった。


 アネリーゼが少しつま先立ちになった。俺が少し屈んだ。


 唇が触れた。


 角度が合わなかった。鼻がぶつかった。アネリーゼが「ん」と小さく声を出した。少しずらした。もう一度。


 今度は合った。


 柔らかかった。温かかった。苦い茶の味がかすかにした。


 短かった。数秒。それ以上は、どうしていいか分からなかった。


 離れた。


 二人とも赤くなっていた。


 俺の耳が熱い。アネリーゼの頬が赤い。


「…………」


「…………」


 しばらく、何も言えなかった。


 アネリーゼが先に口を開いた。


「……宣誓の日取り、決めないと」


「……ああ」


「父上に報告して、典礼官に連絡して——」


「……ああ」


「あとセレン」


「何だ」


「扉、開いてました」


 振り返った。


 執務室の扉は半分開いていた。いつも通り。


 廊下に、ヨハンが立っていた。


 書類を抱えて。目を見開いて。


 目が合った。


 ヨハンが一歩後退した。


「……失礼しました。何も見ていません」


「見ただろう」


「見ていません。月次報告を持ってきただけです。机に置いておきます。お邪魔しました」


 書類を机の端に置いて、足早に出ていった。


 扉が——今度はヨハンが閉めていった。


 アネリーゼが顔を両手で覆った。


「……見られた」


「見られた」


「ヨハンに」


「ヨハンに」


「……あの人、絶対に黙っていない」


「……だろうな」


 黙らないだろう。あの書記官は。


 だがそれでもいいと、少しだけ思った。


 午前中に、国王への報告が行われた。


 婚姻継続宣誓を行う意思がある、と。双方の合意のもとで。


 国王は少し間を置いて、頷いた。


「日取りは典礼官と詰めよ。早いほうがいい」


 それだけだった。


 だがその「早いほうがいい」の言い方には、穏やかな何かが混じっていた。父親の声だったのかもしれない。


 廊下に出た。アネリーゼと並んで歩いた。


 すれ違った侍従が足を止めた。文官が二人、振り返った。


 俺たちの何が変わったのか。見た目は何も変わっていない。並んで歩いているだけだ。以前から並んで歩いていた。


 だが何かが違っていたのだろう。距離。歩幅。視線の角度。


「名目上の」が消えたことは、たぶん——歩き方に出ていた。


 ヨハンが後ろからついてきて、小さく言った。


「おめでとうございます、と申し上げてよろしいですか」


「……ありがとう」


 アネリーゼが答えた。俺は頷いただけだ。


 このまま、静かに宣誓の日を迎えられれば——。


「殿下」


 ヨハンの声の色が変わった。


「外務省から急報です」


 書類を差し出された。


 読んだ。


「レーヴェン公国軍が国境付近に集結を始めている。規模は未確認。目的は不明」


 ディルクが動いた。


 最後の手だ。返還要求で負け、密使で負け、情報戦で負けた。残っているのは、軍事的圧力だけだ。


 アネリーゼが俺を見た。


「……宣誓を先にしましょう」


「ああ」


「それから考える」


「ああ」


 並んで歩いた。東翼へ。


 足音が二つ。一つは聞こえない。もう一つは少し大きい。


 いつもの二人の歩き方だった。


 ただし今は、指先が少しだけ触れていた。

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