第22話 宣誓の日
朝、鏡を見た。
久しぶりだった。鏡の前に立つのは。
目の下の隈は薄くなっていた。昨夜は少し眠れた。少しだけ。
髪を整えた。いつもは適当に結ぶだけだが、今日は侍女に手伝ってもらった。三つ編みを後ろでまとめる形。アネリーゼ様は普段こういうことをなさらないので、と侍女が少し驚いていた。
上着は白。王室の儀式用の正装。袖口に金糸の刺繍がある。借り物ではない。母上——王妃マルガレーテが「あなたの分も用意してあります」と送ってくれた。お姉様のことがあってから、母上とは少し距離ができていた。でも正装を用意してくれたということは、少なくとも儀式を認めてくれているのだろう。
鏡の中の自分を見た。
王女に見えるだろうか。
普段は書類にまみれて、インクのついた指で、硬いパンをかじっている女。今日だけは——今日だけは、少しましに見えるといい。
セレンに。
宣誓式は西翼の大広間で行われた。
出席者は国王。枢密院の長老たち。ルートヴィヒ兄上。フリードリヒ。カミラお姉様。典礼官。護衛騎士。
お姉様の顔は穏やかだった。微笑んでいた。何事もなかったかのように。侍女の更迭も、情報漏洩も、すべて水に流したかのような顔。
その微笑みの下に何があるのか、今の私には分かる。
でも今日は、それを考えない。
セレンが大広間に入ってきた。
白い上着。金糸の刺繍。正装のセレンを見るのは初めてだった。普段は暗い色の上着ばかり着ている。白を着ると、銀灰色の髪が際立った。背が高い。肩が広い。
目が合った。
セレンが少し頷いた。大丈夫だ、という顔。——いや違う。あの人は「大丈夫」とは言わない。「ここにいる」という顔だ。
並んで、国王の前に立った。
典礼官が式次第を読み上げ始めた。
そのとき、大広間の扉が開いた。
使節だった。
レーヴェンの正式な外交使節。国章を掲げた旗手と、護衛が二名。使節本人は四十代の男で、痩せた顔に深い皺がある。外交官特有の、何を考えているか分からない目。
「ヴェルディア国王陛下に申し上げます」
使節の声が広間に響いた。
「レーヴェン公国は、本日の婚姻継続宣誓について異議を申し立てます」
広間がざわめいた。
父上が手を上げてざわめきを制した。
「発言を許可する。手短に述べよ」
使節が一歩前に出た。
「講和条約第七条に基づくセレン殿下の身柄移管は、人質としての移管であります。第七条の二による婚姻条項への書き換えは、条約の本旨に反するものであり、我が国としてはその正当性を認めることができません」
予想していた論点ではあった。だが、タイミングが最悪だった。宣誓式の直前に。
「さらに申し上げます。書き換え時にレーヴェン外交官ゲルハルトが行った署名は、ディルク殿下からの委任の範囲を超えた越権行為であり、無効と考えます。よって、書き換え自体が無効であり、セレン殿下の身柄は依然として人質条項のもとにあります」
広間が静まった。
枢密院の長老たちが顔を見合わせた。ルートヴィヒ兄上は腕を組んで動かなかった。お姉様は——少しだけ、微笑みが深くなったように見えた。
セレンが隣で息を吐いた。小さく。俺にだけ聞こえるくらいの音。
私は使節を見た。
使節の目を見た。
あの目は——勝てると思っている目ではなかった。義務を果たしている目だった。
国内の強硬派を抑えるために、「やるだけはやった」という実績を作りに来ている。
理解した。
だからこそ、正面から潰す必要があった。中途半端な反論では、ディルク殿下が「ヴェルディアも動揺した」と国内に喧伝できる。完全に、一言も反論の余地なく退ける。
「陛下、発言の許可をお願いいたします」
父上が頷いた。
一歩前に出た。
資料を手に持っていた。今日のために準備したものではない。ずっと持ち歩いていたものだ。委任状の写し。条約の全文。婚姻法の関連条項。角が折れた資料。
「レーヴェンの使節殿にお答えします」
声は震えなかった。
「まず、委任の範囲について。ゲルハルト殿がディルク殿下から受けた正式な委任状は、ヴェルディア外交文書庫に保管されています」
資料から写しを取り出した。
「委任状の文面を読み上げます。『レーヴェン公国第一王子ディルクは、外交官ゲルハルトに対し、講和条約第七条に基づく身柄条項に関する一切の手続きの代行を委任する』」
一切の手続き。
「婚姻条項への書き換えは、条約第七条の二に定められた手続きです。これは身柄条項に基づく手続きであり、委任状の文面にある『一切の手続き』に含まれます。よって、ゲルハルト殿の署名は委任の範囲内であり、越権行為ではありません」
使節の表情は変わらなかった。予想通りの反論だったのだろう。
「さらに申し上げます」
もう一歩前に出た。
「使節殿のご主張は、ディルク殿下ご自身が署名された講和条約と、ディルク殿下ご自身が発行された委任状を否定するものです」
使節の目がわずかに動いた。
「条約の締約者が、自ら署名した条約の手続き条項を否定する。委任状の発行者が、自らの委任状の効力を否定する。これは国際信義に反する主張であり、仮にこの主張が認められるならば、ヴェルディア=レーヴェン講和条約の全条項の信頼性が損なわれることになります」
最後の一文が効いた。
講和条約の全条項。それには賠償金の支払い条項も、鉱山割譲の条項も含まれる。ディルク殿下が自分の条約を否定するなら、ヴェルディアも条約の義務を再検討する理由を得る。
ディルク殿下はそれを望まない。条約の枠組みの中で利益を得ている限り、条約自体を崩すことはできない。
「以上の理由により、本日の婚姻継続宣誓に対する異議は、法的根拠を欠くものと判断いたします」
使節を見た。
使節は沈黙した。長い沈黙。
反論は来なかった。
来ないと分かっていた。来るつもりがなかった。この使節は、負けに来たのだ。「やるだけはやった」を持ち帰るために。
使節が小さく頭を下げた。
「……ヴェルディア第三王女殿下のご見解、承りました。本件については、本国に持ち帰り報告いたします」
それだけだった。
使節が退出した。旗手と護衛を従えて。静かに。
広間に残った人間の間で、何かが変わった。空気の温度。枢密院の長老たちの表情。ルートヴィヒ兄上が腕を解いた。
お姉様の微笑みが、少しだけ薄くなった。
式が再開された。
典礼官が宣誓の手順を述べた。
国王の前に、二人で立った。
宣誓文の羊皮紙を手にしていた。あの古い雛形。角が丸まった羊皮紙。何組もの夫婦が使ってきた言葉。
蝋燭の灯りが揺れていた。大広間の高い天井に、光の影が踊っていた。蝋が一滴、燭台の皿に落ちた。式典用の上着が少しきつい。母上が用意してくれたものだが、採寸は半年前だ。この半年で少し肩が張ったのかもしれない。
「では、宣誓を」
典礼官の声。
セレンが先に読み上げた。
「互いを唯一の伴侶として認め」
声に力が入りきっていなかった。
セレンの声。低くて、硬くて、いつもは感情が乗らない声。それが、震えていた。
「生涯を共にすることを」
震えが大きくなった。
私はセレンの手を握った。
宣誓の手順にはない動作だ。典礼官が少し眉を上げた。だが止めなかった。
セレンの手は大きくて、硬くて、剣だこがあった。そして震えていた。
私の手で包んだ。
小さな手が大きな手を包むのは不格好だったかもしれない。でもそうしたかった。
「——誓う」
セレンが言い切った。
声の震えが止まっていた。手を握ったからかどうかは分からない。
次は私の番だった。
「互いを唯一の伴侶として認め、生涯を共にすることを誓います」
一息で言った。
泣かなかった。泣くのは昨日と一昨日で済ませた。今日は泣かない。
国王が頷いた。
「宣誓を認める。本日をもって、ヴェルディア王国第三王女アネリーゼとレーヴェン公国第二王子セレンの婚姻は、継続を確認されたものとする」
拍手はなかった。王室の儀式に拍手はない。
代わりに、静かな空気があった。認めたという空気。
セレンが私の手を握り返した。さっきまで震えていた手が、今は強く握ってきた。
正式に、夫婦になった。
名目ではなく。
式が終わった。
広間を出た。廊下に出た。ヨハンが待っていた。
「おめでとうございます。——今度は正式に」
「ありがとう」
「殿下、お顔の色がいいですね。最近で一番」
「……鏡を見たからかもしれない」
「鏡を見たほうがいいですよ、今後も」
ヨハンの声が柔らかかった。
セレンが隣にいた。白い正装。まだ手が繋がっていた。廊下に出てからも。
「……手」
「え」
「手、繋いだままですが」
「……ああ」
離す理由がなかった。
離さなかった。
侍従がすれ違った。目を丸くした。文官が振り返った。お姉様の侍女が——新しい侍女が——足を止めた。
噂が回るだろう。明日には宮殿中に。
構わなかった。
夜。
東翼の居室。
二人きりだった。
セレンの部屋。新品だった調度品が、十ヶ月の間に少しだけ生活の跡を帯びていた。机の上に書類が積んである。窓際の椅子に外套がかけてある。書棚に法令集が刺さっている。
「……緊張していますか」
セレンが聞いた。
「していません」
「嘘だ」
「嘘です。すごく緊張しています」
セレンが小さく笑った。笑い方が下手だった。口の片側だけが上がる。
「俺もだ」
「セレンも?」
「当たり前だ」
窓の外に月が見えた。陽の月の月とは違う、実りの月の月。少し丸い。
蝋燭の灯りが揺れた。
セレンが一歩近づいた。
「……怖いか」
「怖くありません。ただ、心臓がうるさくて」
「……俺もだ」
手が伸びてきた。頬に触れた。大きな手。硬い手。不器用な手。
目を閉じた。




